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朝起きたらあごが痛かった。口が開かない。無理に開けようとすると、ごりっと音がして激痛が走った。
ぼくは口を開けるのをあきらめて、かろうじて開いた一センチほどのすき間で今日一日過ごすことにした。
だいじょうぶ。水は飲める。
よく眠れず、ともすれば吐きだしそうになる悪態を、歯を食いしばって耐えていたせいだと思う。
人生で初めて、眠れない夜を過ごした。いつもはベッドに入ると次の瞬間には朝になっているのだが。タイムリープしているんじゃないかと常々思っている。
それが、夕べは腹が立ったりくやしかったり、ねえちゃんの行く末を案じたりで、いつになっても眠気はやって来なかった。ベッドの上で、あっちへごろごろ、こっちへごろごろ。そろそろ夜が明けるだろうと、何度思ったことか。
ところがいつになっても部屋の中は暗いままだ。この部屋だけ時間が止まっているんだ、きっと。
気を紛らわそうとユーチューブを見たりしたけれど、全然気は紛れないくせに動画もイマイチおもしろくなかった。いつもは大笑いするゲームの配信すらクスリとも笑えない。動画は視界を滑っていくばかりだった。
一時間ほど見て、スマホの電源を切った。
部屋の中が薄明るくなったころ、やっとすこしまどろんだ。
朝の食卓にはいつもどおりの朝食がならんでいた。ただそれはぼくとねえちゃんと、クソオヤジの三人分。ママの分は? と聞きたかったけれど、ママの醸し出す空気に恐れをなして聞けなかった。クソオヤジと同じテーブルにはつかない、と決めたのかもしれない。
クソオヤジは、ものすごい勢いでごはんと味噌汁だけをかき込むと、「いってきます」と席を立った。いつもの時間よりもずいぶんと早い。「そそくさ」のお手本みたいだった。
ぼくもママも「いってらっしゃい」とは言わず無言のまま背中を睨みつけた。
すぐにねえちゃんがリビングへ降りてきた。たぶんクソオヤジが家を出ていくのを待っていたんだろう。ちらっと顔を見たら、ひどく目が腫れていた。一晩中泣いていたんだろうな。ちょっとかわいそうになった。
いや。自業自得だが。
ママの目も腫れている。夕べこの家で眠ったのはクソオヤジだけだろう。
「美結」
もすもすとごはんを嚙んでいるねえちゃんをママが呼んだ。
「きょうは学校休んでね」
ねえちゃんは箸を持ったままぴくっと動きを止めた。
「……病院に行くの?」
「そう。ママ、きょう仕事休みだからちょうどよかった」
「うん。ごめんなさい」
ねえちゃんはきのう大泣きしたせいか、今朝はやけに殊勝だ。
「啓太もごめんね。なるべく迷惑かけないようにするから」
そんなこと言われたら、なんて返していいのかわからない。うん、とあいまいにうなずいて残りのごはんをかき込んだ。
というか、卵二個使いのデラックス卵かけごはんを一センチのすき間から流しこんだ。
どこかふわふわとした足取りで学校にむかったものの、授業が手につくわけもなく、仲良しの駒沢淳に「なにかあったの」と聞かれたところで答えるわけにもいかず、また不意に腹立たしさがこみあげてきてぎゅっと歯を食いしばったり、まったく落ち着きのない一日だった。
「ねえ、だいじょうぶ? ほんとに変だよ?」
昇降口でくつを履き替えながら、淳が心配そうにぼくの顔をのぞきこむ。
淳とは一年生のとき同じクラスになって、たまたま部活も同じで、それからずっと仲良しだ。バトミントン部。選んだ理由も同じ。
運動部なのにゆるいから。
ぼくはスポーツがそんなに得意じゃない。だからガチのサッカー部とか野球部とは無理。あれは運動神経のいいイケてるヤツがやるものだ。いつも女子のギャラリーがいて、きゃあきゃあ言っているんだ。
ぼくはそっちじゃない。わかってる。モブだもん。まちがってもそっちに行こうなんて思わない。
モブにはモブの生息地がある。必死になってそっちに行ったところで、水は合わない、空気は合わないで辛くなるだけ。
ちゃんとわきまえてる。モブの生息地で、ゆるーく生きていく。
かといって、文化部はなんかやだ。美術部とか科学部とか、ほぼ帰宅部。ちょっとバカにされている。
「何部?」
「科学部」
「ああ、へえ」
うすら笑い。
その点、バトミントン部は運動部。一応。地区予選は一回戦負け。ぎりぎりだいじょうぶ。中の部活だから日焼けもしないし、埃をかぶることもない。遅くまでやることもないから塾に行くのも余裕だ。
なんとなく淳には同じ匂いがして「どうしてバド部にはいったの」と聞いたら、淳はにやっとして言ったのだ。
「だってちょうどいいじゃん」
それ以来淳にはちょっと心をゆるしている。
だからぼくの家庭の問題もそれとなく話してある。まいるよねー、なんて深刻にならないように。
淳が心配してくれるのはありがたいのだが、だからといって、夕べのことを話せるかといえば、それはまた別の話だ。先のことが決まったら話すかもしれない。悪いけど。仲良しだからといって、話せないこともあるんだ。
そんなこともあるんだな。ぼくははじめて知った。淳はそんなあいまいなぼくになにも言わなかった。
ちょっとした罪悪感と居心地の悪さを抱えながら、小さな橋のたもとで手を振って右と左に別れた。
長い長い一日を終えてやっと家に帰った。ねえちゃんはどんな診断を受けたんだろう。知りたいけれど、知るのは怖い。
「ただいま」
玄関を開けると、しょうが焼きの匂いがした。ナイスタイミングの帰宅だったらしい。ぼくもねえちゃんも大好きなヤツだ。きっとママが気を遣ったんだ。
先に自分の部屋に行ってカバンを置き、Tシャツとハーフパンツに着替えてリビングへ降りた。ドアを開けるとエアコンの冷気が心地いい。
話を聞くのが先か、しょうが焼きを食べるのが先か。
「先に食べちゃおう」
ママが答えを言ってくれた。テーブルについてあたたかいご飯と味噌汁を前にすると、落ち着いて食事をするのが昨日以来だったと気がついた。夕べは上の空で、朝ごはんも給食も食べた気がしなかった。
グウっとおなかが鳴った。ひさしぶりに空腹を感じた。いつの間にか、口は開くようになっていた。
ねえちゃんも部屋からおりてきて、三人で晩ごはんを食べた。とくに話すこともなく黙々と食べ終え、ねえちゃんが後片づけを手伝った。その後に話を聞かせてくれるんだろう。
ソファにすわってぼんやりとバラエティ番組を見ていた僕の前に、ねえちゃんがぺらっとした紙を一枚差し出した。
「これ、赤ちゃん」
ぼくは目を瞠った。
「……人じゃん」
それはテレビとかで見たことがある、グレーのモヤモヤした写真だった。エコーとかいうやつ。そこに写っていたのはくるりと丸まった明らかな人間だった。
「男の子なんだって。ほら、これがチンチン」
指で指されれば、なるほどそんなものが見てとれる。
「マジか」
ねえちゃんの腹の中に、これがいるのか。思わずその腹を凝視してしまう。
「動くんだよ」
そう言って、Tシャツの上から腹を撫でた。
ちょうどそのときだ。ねえちゃんの腹がぐねりとうねった。
「あっ、ほら!」
衝撃が走った。ねえちゃんの腹が生きている。生きて動いている。ぼくは息をのんだ。
マジか。理解の範疇を超えている。
「予定日は十月の半ばだって」
ママが言った。今、二十八週目、七か月。
あと三か月でぼくはおじさんになるらしい。
「元気でよかったわ、美結も赤ちゃんも」
「お医者さんに怒られちゃった」
ねえちゃんがぺろりと舌を出した。ここまで放置したら怒られるでしょうね。どちらも元気でよかったですよ、まったく。
「産んでからが問題なのよね」
ママが続ける。
「自分で育てるのか、養子に出すのか、里子に出すのか」
自分で育てるのはわかる。養子と里子ってなんだ。なにがちがうんだ。
「児童相談所が相談にのってくれるんだって」
え? それって虐待された子どもを助けるだけじゃないんだ。
待てよ。ねえちゃんも子どもだ。まだ未成年だし。高校生だし。産まれてくる赤ちゃんも子どもだ。
どっちも児童相談所案件なのか?
「ほんとは今日、区役所に行って母子手帳もらってくる予定だったけど、病院に時間かかっちゃってね。疲れたから明日にしたわ。明日母子手帳もらって相談してくる」
児童相談所に母子手帳。世の中ぼくの知らないことだらけだ。




