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いつも帰りが遅い。十一時を過ぎるのがあたりまえ。ぼくもねえちゃんもすでに部屋へ入っているから、顔を合わせることはない。土日も仕事だといって出かける。顔を合わせるのは平日の朝に、儀礼的におはようというくらい。毎朝交通指導のおじいさんに、おはようございますと言うのと同じだ。
ここ一年半か、二年くらい。「おはよう」以外のことばを最後に交わしたのはいつだったろう。それくらい、パパはぼくらに興味がない。
パパは仕事が忙しいんだといっている。僕も最初は、そんなもんかと思っていた。が、そんな生活が二年も続いたら、いくら中学生でもさすがにおかしいと思う。
なぜパパは家にいない。
「不倫してるのよ」
いつか、ねえちゃんがこっそりとぼくに言った。
「ええ? 不倫って?」
聞き返したぼくに、ねえちゃんはしたり顔で言ったのだ。
「女よ。女がいるのよ」
ねえちゃんは、パパのスマホの通知画面に「会いたい」とか「好き」とか「昨日の夜は」とかいうヤバめのメッセージを見たといっている。「昨日の夜」どうしたんだ。そんなのママには言えない。
ぼくだって「不倫」くらい聞いたことがある。具体的なことはわからないけれど、パパにカノジョがいるってことだろ。
いや、わかんない。なんでそんなことするんだ。ママが大事じゃないのか? ぼくは? ねえちゃんは?
中学生になってさすがに親子で出かけることはなくなったけれど、でもぼくともねえちゃんとも、ママとすらいっしょにいるよりもその彼女といたいってこと?
パパにとってぼくらってその程度のもの?いなくなってもかまわないもの?
ねえちゃんの勘違いであってほしい。
そんな期待はかなわなかった、たぶん。現にママはほとんどパパと口をきかなくなってしまったし、ねえちゃんも露骨にパパをシカトする。そんな現実にがっかりしたぼくも、話しかけることはやめてしまった。どうせ、返ってくるのは生返事だし。
家庭内は最悪に険悪だ。
ぼくの家、真山家は崩壊寸前。かろうじて四人家族の形を保っているだけだ。
確かめることはできなかった。ひとことパパに聞けばいいのだけれど、「そうだ」と肯定されてしまえばその場で一発アウトだ。その途端、ギリギリ保っていた形も完全に崩壊する。
だからといって「ちがう」といわれても、たぶんぼくはごまかしたんだなと思ってしまう。それはそれでアウトだ。自分の不都合を、ウソでごまかす父親なんてどうあってもゆるせるわけがない。
どっちにしろ、そんな恐ろしいことはできなかったのだ。
だからますますパパは家を空ける。
この破綻した家族が元にもどることがむずかしいのは、子ども心にもわかる。
不倫したから破綻したのか。破綻したから不倫したのか。どっちが先だったんだろう。
いつのころからか、ママはぼくら三人とパパの洗濯物は分けるようになった。柔軟剤も別。パパのは「超消臭。汗も脂も」とかいう強力そうなやつだ。
ぼくの服が甘いフローラルな匂いなのはちょっと困る。学校ですれちがいざまに、「真山くん、いい匂いがするね」なんて女子に言われたら恥ずかしくってしょうがない。
じゃあ、パパのといっしょに洗うかと言われれば、それはそれでいやだ。ママのチームに入れてほしい。
「どうして別なの?」と聞いたら、パパは臭いからね、とママがいった。末期だ。
こんな状態だから、離婚もそう遠くないと思ってしまう。ママがそう決めたのなら受け入れる。このままでママがしあわせじゃないなら仕方がない。ぼくはずっとママの味方をする。そう決めている。
マザコンというならいえばいい。なにが悪い。
中学校の入学式のときはこんなじゃなかった。三人でなかよく笑いながら写真を撮ったのに。居合わせたほかの家族と、「入学式」の立て看板の前で、写真の撮りあいをしたのはパパだった。
あの家族はもう壊れてしまった。残念だけど。
今はねえちゃんをバカ呼ばわりしているけれど、あのころはねえちゃんだってまじめだった。勉強だってちゃんとしてたし、部活の吹奏楽もがんばっていた。クラリネットに選ばれたと張り切っていた。高校も吹奏楽の強いところに入るんだって言っていたのに。
ねえちゃんがやさぐれたのは、パパのせいだ。おかしくなりつつある家庭の空気を敏感に感じ取ってしまったのだ。反抗期も相まって、なにもかも投げやりになって、勉強もしなくなった。高校もどこでもいい、といって下がった成績で入れる中の下レベルの公立高校に入った。
高校に入ってからも部活なんかやるわけもなく、放課後はカラオケだゲーセンだ、と遊び歩いている。
そんな中で同級生の和馬とつき合いはじめたのが去年の秋くらい。
家にいても、ずっとスマホを手放さない。SNS。ゲーム。ライン。
たまにぼくと話す。学校の愚痴。友だちの愚痴。和馬ののろけ。
「あんたはがんばりなよ」
そう言う。託されてもこまる。
自分だって、やさぐれていないでがんばればいいのに。
ママはパートに行く。ねえちゃんとぼくの学資のためだ。二人とも大学に行けるように、給料がいいからと、介護施設で働いている。
ぼくには家庭の経済事情はわからないけれど、もしかしたら離婚後の収入のためかもしれない。
おかげでぼくは学習塾にも通えている。ぼくが目指すのはAランクの公立高校だ。それから国立大学へ進学して、国家公務員上級試験に合格する。そして官僚になるのだ。
そうすればママの老後は安心だ。パパをあてにしてはいけない。親孝行なぼく(ママ限定)。ねえちゃんは自分で何とかしろよな。
そんなふうに殺伐とした家庭内で、さらなる火種をまくことをためらったねえちゃんの気持はよくわかる。
が。
「和馬くんには言ったの?」
「……う、うん」
ママが聞いたのに、ねえちゃんの答えは煮え切らない。
「言ってないの?」
「きっ、きっ、きっ」
どうした、ねえちゃん。
「きっ、聞くには聞いた」
「聞く?」
質問と答えが合っていない。
「あ、赤ちゃんができたらどうするって聞いた」
また遠回しな。
「そんなわけねぇだろうって言われた」
それで言い出せなくなっちゃったのか。ママのこめかみがぴくっとした。
「なに? その無責任な言いかた」
「ひっ、避妊はちゃんとしたんだよ」
「ちゃんとしたらできるわけないじゃないの!」
「うぇ……」
ねえちゃんのべそがぶり返す。中三男子、避妊の話をされてもこまります。
だいたい和馬、ロクなヤツじゃないな。チャラいヤツだ。ねえちゃんといっしょのところを、二回ほど見かけたことがある。
髪茶色いし、前髪長いし、シャツの襟ぐずぐずだし、へらへらしてるし、頭悪そうだし。
顔はまあまあ。アイドルの誰かみたいだ。ぼくよりずっと背も高い。なにより大人の声をしている。ちょっとカッコいいかもしれない。ちくしょー。
ねえちゃん、趣味いいな。いや、悪いのか? ほんとにあいつが好きなのか? とりあえず、ティッシュの箱をねえちゃんの前に置いた。
ねえちゃんは、勢いよく五枚引き抜くとぶうっと盛大に鼻をかんだ。
「とにかく」
ママは、はあっとため息をついた。
「和馬くんと親御さんと相談しないと。それから病院」
病院と聞いて、ねえちゃんはぽかんと口を開けた。
「病院?」
「そう! 病院! ちゃんと診察してもらわないと!」
「診察?」
ねえちゃんは「こだま」かっていうくらい首をかしげている。
「そうよ! 赤ちゃんが元気かどうか見てもらって、予定日も聞かなくちゃ」
ねえちゃんの目がこれでもかっていうほど大きく開いた。
「よ、よ、予定日」
「そう。出産予定日」
出産? うそだろ。子どもを産むの? ねえちゃんが? ぼくは息をのんだ。
高校生だよ?




