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第23話 「ゼロは『無』じゃない。ゼロは『始まり』だよね」


 『となりのキーボード』を投稿してから、二週間が経った。


 梅雨が明けた。

 開かずの間の窓から入る風が、湿気を含まなくなっている。蝉はまだ鳴いていないが、空の色は確実に夏に近づいていた。


 二台のパソコンが並ぶ長机。いつもの配置。

 詩織は新作の執筆に没頭している。八万字を超えて、完結が近いらしい。

 私は——自分のパソコンで、管理画面を開いていた。


 久しぶりだった。

 投稿してからの二週間、意識的に管理画面を見ないようにしていた。数字に振り回される生活に戻りたくなかったから。


 でも今日は——見たかった。

 理由は、昨夜スマホに届いた通知。「あなたの作品に感想が投稿されました」。


 感想の数が、9件になっていた。


 PV:312。ブックマーク:18。評価:★5が7件、★4が3件。感想:9件。


 三百十二人。十八人が棚に入れてくれた。九人が感想を書いてくれた。


 詩織の『猛毒のレシピ』の数字と比べたら——塵のようなものだ。あちらは累計PV三十万超え、ブクマ六千超え。桁が二つ違う。


 でも、私にとっては一つ一つが重かった。三百十二という数字の裏に、三百十二人の人間がいる。十八人が「また読みたい」と思ってくれた。九人が言葉を返してくれた。


 感想を順に読んでいく。


 一件目は投稿翌日に来た、あの「上手い文章ではないけど嘘がない」。

 二件目は「三年前に筆を折ったけど、もう一度書いてみたくなった」。

 三件目から八件目は、この二週間で少しずつ届いたもの。どれも丁寧で、真剣で、私の文章の具体的な箇所に触れてくれていた。


 そして——九件目。昨夜届いたもの。


 これが、私を管理画面に向かわせた理由だった。


 『この作品を読んで、なろうに初めて小説を投稿しました。

  PV:0です。誰にも読まれていません。

  でも、投稿ボタンを押した時の震えが、この作品に書かれていた通りで。

  怖かったです。でも、嬉しかったです。

  「下手でもいい。遅くてもいい。自分の言葉は、自分にしか書けないから」

  この一文に背中を押されました。

  ありがとうございます。』


 画面を見つめた。


 「この作品を読んで、なろうに初めて小説を投稿しました」。


 私の三万字が——誰かの「最初の投稿」のきっかけになった。

 PV:0の作品が、世界のどこかに生まれた。

 顔も名前もわからない誰かが、深夜か早朝か昼休みかわからないけれど、なろうの投稿画面を開いて、震える指で——投稿ボタンを押した。


 私が書いた言葉に、背中を押されて。


 数字では測れない。ランキングには反映されない。私のPVもブクマも、この人が投稿したことで一つも増えない。


 でも——私の言葉が、誰かの最初の一歩になった。


 それは、かつて私が詩織にしたことと——似ている。


 いや、違う。

 私は詩織にテクニックとマーケティングを与えた。タイトルの付け方、投稿時間の最適化、クリフハンガーの設計。武器を渡して、「戦え」と命じた。


 この読者に、私は——ただ「書いてもいいんだ」という許可を与えただけ。

 「下手でもいい。遅くてもいい」。


 テクニックではなく、許可。承認。

 どんなSEO対策よりも、どんなマーケティング戦略よりも——「書いていいんだよ」という一言が、一人の人間の指を動かした。


「リオさん、また泣いてる」


 詩織が横から覗き込んだ。


「泣いてない」


「泣いてるって。目が赤い」


「……花粉症よ」


「もう七月だけど」


「通年性の——」


「はいはい」


 詩織が笑った。でも、からかう声ではなかった。優しい声だった。


「感想、読んでたの?」


「……九件目。これ読んで」


 画面を見せた。詩織が読む。一行ずつ、丁寧に。


 読み終えて——詩織も、少しだけ目を赤くした。


「……すごいね。リオさんの文章を読んで、投稿した人がいる」


「うん」


「PV:0だって」


「うん」


 詩織が私の顔を覗き込んだ。真剣な目で。


「リオさん。覚えてる? 最初に私のPVがゼロだった時、何て言った?」


 覚えている。忘れるはずがない。

 あの日——開かずの間で、タブレットの画面を突きつけて。


「……『投稿から三日経過してPVゼロ。ユニークユーザーもゼロ。この世でこの物語を知っているのは、書いたあんたと、たまたま見つけた私だけ。これを無と呼ばずに何と呼ぶの?』」


 一字一句、覚えている。残酷な言葉だった。今思えば——ひどいことを言った。


「今、この人のPV:0を——リオさんなら、何て呼ぶ?」


 私は考えた。

 PV:0。誰にも読まれていない作品。世界のどこかに、今この瞬間、静かに存在している。

 

 二ヶ月半前の私なら「無」と呼んだ。

 今は——。


「……始まり」


 声に出した。


「始まりと呼ぶ。この人の物語の、書くことの、最初の一ページ」


 詩織が微笑んだ。泣き笑いのような顔だった。


「うん。ゼロは『無』じゃない。ゼロは『始まり』だよね」


 同じ数字。同じPV:0。

 でも意味が全然違う。


 数字が変わったのではない。数字を見る人間が変わったのだ。


  ◆


 昼休み。自習室を出て、図書館の一階のカフェスペースでパンを食べた。

 窓の外は七月の青空。入道雲が遠くに見える。


「ねえ、リオさん」


「何」


「『砂漠のダイヤモンド』って、覚えてる?」


 懐かしい言葉だった。あの日——最初に開かずの間に押しかけた日。


「覚えてるわよ。あんたのことをそう呼んだ。『砂漠に捨てられたダイヤモンド。私が磨いてやるから黙って従いなさい』って」


「偉そうだったねえ」


「……若気の至り……よ」


「でも——あれ、リオさん自身にも当てはまると思う」


「私?」


「リオさんも砂漠にいたんだよ。数字っていう砂漠の中に、自分を埋めて隠してた。書きたいっていう気持ちを、砂の下に閉じ込めて」


 パンを噛む手が止まった。


「私がPV:0の砂漠にいたように、リオさんはスプレッドシートの砂漠にいた。どっちも——誰にも見つけてもらえない場所にいた」


「……一人で這い出してきたわけじゃない。あんたが隣にいたから」


「私は何もしてないよ。リオさんが自分で書き始めて、自分で投稿ボタンを押した」


「あんたの文章が——私の砂を溶かしたのよ」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。ポエムみたいだ。


 詩織が目を輝かせた。


「それすごくいい言葉。小説に使っていい?」


「勝手にしなさい」


「使う。ありがたく使う」


 砂漠のダイヤモンドは、二つあった。

 片方は鋭く、美しく、読む者の脳にこびりつく劇薬のような輝き。

 片方は不格好で、拙くて、でも嘘がない——温かい輝き。


 どちらも砂の下にいた。

 どちらも、隣にいる誰かに見つけてもらった。


 詩織は私に見つけてもらった。

 私は——詩織に見つけてもらった。


 二つのダイヤモンドが、今は並んで光っている。

 同じ机の上で。同じ西日の中で。


  ◆


 午後。自習室に戻って、書く。


 詩織は新作の最終盤に入っている。集中している時の彼女は、話しかけても聞こえない。キーボードの音だけが規則的に響いている。


 私は——三作目の原稿に向かっていた。

 まだ白紙だ。二週間、何も書けていない。

 でも、焦ってはいない。


 今日は——少し、違う感覚があった。


 九件目の感想を読んでから、頭の中で何かが動いている。

 PV:0の作品を投稿した、名前も知らない誰か。

 その人は今、何を感じているだろう。

 投稿した翌朝、管理画面を開いて、PV:0を見た時——何を思っただろう。


 私はキーボードに指を置いた。


 何かを書く。まだわからない。

 でも——指が動いた。


 『ある朝、一人の少女が画面を見つめていた。

  数字はゼロだった。

  誰にも読まれていない。

  けれど彼女は、ゼロの向こう側に、まだ見ぬ誰かの影を感じていた。』


 四行。

 これが、三作目の一行目になるのかはわからない。明日消すかもしれない。


 でも——書けた。指が動いた。


 九件目の感想の人が、私の背中を押してくれた。

 その人は、私の文章に背中を押されて投稿した。

 そして今、その人の存在が——私の次の文章を動かしている。


 言葉が、人から人へ渡っていく。

 投稿ボタンの震えが、連鎖していく。

 PVでは測れない、ブクマでは可視化されない、静かな波紋。


「リオさん、書いてる?」


 詩織が顔を上げた。私の画面が白紙ではないことに気づいたらしい。


「……四行だけ」


「見ていい?」


「まだダメ。——でも、動いた。指が」


「よかった」


 詩織がにっこり笑って、また自分の画面に向き直った。


 二台のキーボードが鳴っている。

 片方は八万字の最終盤を疾走する奔流。片方はたった四行の細い水脈。


 でも——同じ方向に流れている。


 窓の外で、夏の日差しが傾き始めた。

 七月の光は、春の光よりも強くて、直線的で、影がくっきりしている。


 PVを見なくなって三週間。管理画面を開かない日が続いていた。

 今日は久しぶりに開いた。でも——数字を追うためではなかった。

 感想を読むために。言葉を受け取るために。


 書いている時間が楽しい。

 読まれているかどうかは「書き終わった後のおまけ」。

 春日井が言った通り。「書く行為自体が報酬」。


 でも——おまけの中に、時々、こういう感想が混じっている。

 「あなたの文章を読んで、初めて投稿しました」。

 そのおまけだけは——おまけと呼ぶには重すぎて、数字では測れなくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「ねえ、リオさん」


「何?」


「今、幸せ?」


 唐突だった。でも——答えはすぐに出た。


「……悪くないわね」


「素直じゃないなあ。最高って言って」


「……」


「ねえ」


「……最高よ。満足?」


「えへへ。満足」


 詩織が笑って、また書き始めた。


 私も四行の続きを考えた。

 五行目は——まだ浮かばない。でも、明日には浮かぶかもしれない。


 急がなくていい。

 一日一行でも、一週間で四行でも。

 自分の速度で、自分の言葉で。


  ◆


 閉館アナウンスが流れた。パソコンを閉じる。


 図書館を出ると、夕焼けが広がっていた。

 入道雲がオレンジ色に燃えている。


「きれい」


「ええ」


「リオさん。数字じゃないものを『きれい』って言えるようになったね」


「昔から言えたわよ。言わなかっただけ」


「嘘。——でも、いい嘘だね」


 駅まで並んで歩いた。影が二つ、長く伸びている。


「ねえ、リオさん。三作目、何書くの?」


「わからない。今日四行書いたけど、明日消すかも」


「消さないでよ。読みたいから」


「……考えとく」


「リオさんが何を書いても、私が一番最初に読む。それだけは決まってるから」


「……知ってるわよ」


 改札の前で立ち止まった。


「じゃあ、また明日」


「また明日」


 詩織が改札を通り、振り返って手を振った。

 私も手を振り返した。


 一人になった。

 夕焼けの空を見上げた。


 きれいだった。

 数字では測れない。ランキングには載らない。

 でも——記憶の中で、ずっと1位の空。


 ポケットの中のスマホが震えた。

 なろうの通知——ではない。


 詩織からのLINE。


 【詩織】今日の四行、楽しみにしてるね。


 短い一文。

 でもそれだけで——明日も書ける気がした。


 改札を通り、ホームに立った。

 電車を待ちながら、頭の中で五行目を探していた。


 まだ見つからない。

 でも——探している時間が、楽しかった。

最終話の前に、一つだけ。

この物語で、リオのエッセイを読んだ誰かが

「初めて投稿しました。PV:0です」と書いてくれました。

フィクションの中の出来事ですが、

もし現実にも同じことが起きたら——

この物語を読んで「何か書いてみようかな」と思った方がいたら——

それは、私にとって★10個分の価値があります。

明日、最終話を投稿します。

最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

そしてもし、この物語が心に残ったなら——

★と感想で、教えてください。

「ここにいるよ」と。

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