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第22話 「書いてる本人が一番最後に気づくの」


 三万字に到達したのは、七月の最初の月曜日だった。


 梅雨が明けかけている。開かずの間の窓から、久しぶりの青空が見えた。

 二台のパソコンが並ぶ長机。左が詩織、右が私。もうこの配置が当たり前になっていた。


 詩織は新作の執筆に没頭している。隣のキーボードがリズミカルに鳴っている。五万字を超えたらしい。化け物だ。


 私は——自分のパソコンの画面を見つめていた。

 テキストエディタの左下。30,112文字。


 三週間前は五千字だった。毎晩少しずつ書き足して、週末に一気に伸ばして、気づけば三万字。

 でも今日、私が画面を見つめていたのは文字数のせいではない。


 最初から、読み返していた。


 中学時代の記憶から始まる。投稿サイトとの出会い。初めてのコメント。初めての罵倒。筆を折った夜。スプレッドシートに逃げ込んだ理由。


 そこまではエッセイだった。自分の過去を、自分の言葉で書いた回想録。


 でも——一万五千字あたりから、文章の質が変わっている。


 「私」が、いつの間にか「彼女」になっていた。


 一人称の回想録が、三人称の物語に変質している。登場するのは、数字に取り憑かれた少女と、言葉を持て余している少女。二人が出会い、衝突し、傷つけ合い、やがて——並んで座る。


「……あれ」


 声が出た。


「どうしたの?」


 詩織が手を止めて振り向いた。


「いや。自分の原稿を最初から読み返してたんだけど——途中から小説になってる」


「知ってるよ」


「え?」


「前に一万字の途中版を読ませてもらった時から気づいてた。一万字あたりから、エッセイの文体じゃなくなってるなって」


「何で言わなかったのよ?」


「言ったら、リオさん意識しちゃうでしょ。無意識に書いてるのが一番いい状態だから、黙ってた」


 この子は、いつの間にこんなに大人になったんだ。

 一ヶ月半前、私の顔色を窺いながら恐る恐るキーボードを叩いていた少女が、今は——私の創作を見守る側にいる。


「で、読み返してどうだった?」


 私は画面をスクロールした。


 三万字の中に、二人の少女がいる。

 一人は数字で世界を測ろうとする。もう一人は言葉で世界を描こうとする。対立し、共鳴し、壊し合い、支え合う。数字の少女は、言葉の少女の隣で、初めて自分の言葉を見つける。


 そして最後のシーン。二人が並んで座っている。それぞれのパソコンの前で。何も言わず——それぞれの一行目を、書き始める。


「私たちの話を書いてる、と思った」


「……意識してなかった。自分の過去を書いてるつもりだったのに、いつの間にか——あんたが出てきて、あんたとの日々が物語になっていた」


「それがフィクションだよ、リオさん。自分の体験が知らないうちに物語になっていく。書いてる本人が一番最後に気づくの。私も最初はそうだった。PV:0の頃に書いてた純文学、あれ全部——自分の話だった」


  ◆


「ねえ、読ませて」


 詩織が言った。完成版を、全部。


「……笑ったら殺す」


「笑わないよ」


「下手だからね。先に言っておく」


「うん」


「途中で読むのやめないでね。最後まで読んで」


「……それ、リオさんが最終話の前に書いた手記と同じお願いだね」


「うるさい。いいから読んで」


 パソコンを詩織の前にスライドさせた。

 そして椅子から立ち上がり、窓際に移動した。

 読んでいる間、横にいる勇気がなかった。二回目でも慣れない。一万字の時も同じことをした。今回は三万字。三倍長い。


 窓の外を見る。校庭は夏服に変わった生徒たちで明るい。テニス部のボールが弾む音が遠く聞こえる。


 背後で、スクロール音が始まった。

 マウスホイールのカリカリという小さな音。詩織が読んでいる。


 五分。十分。


 スクロール音が時々止まる。止まった後、また動く。読み返している箇所がある。


 十五分。二十分。


 三万字を詩織の速度で読むと、約三十分。

 それ以上かかるということは、じっくり読んでいるか、何度か戻っているか。


 三十分。


 スクロール音が、頻繁に止まるようになった。一箇所に長く留まっている。


 四十分。


 音が止まった。長い沈黙。

 振り返ろうか。振り返れない。


 四十五分。


「……リオさん」


 詩織の声。少し——掠れていた。


 振り返った。


 詩織は画面を見つめたままだった。眼鏡を外していた。目が赤い。

 机の上に、眼鏡が置かれている。レンズが曇っていた。——泣いて、曇ったのだ。


「泣いた?」


「泣いてない。……嘘。泣いた」


「どこで?」


「全部」


「全部って——三万字全部?」


「最初の一行を読んだ瞬間から、涙が出た。『私は、一人の天才を壊しかけた。これは、その告白だ』——この一行で。あとはずっと泣いてた。途中で眼鏡が曇って外した」


 私は——困った。泣かれると、どうしていいかわからない。


「そんなにひどかった?」


「ひどくない。全然ひどくない」


 詩織が立ち上がった。眼鏡を持ったまま、私の前に来た。


「リオさん」


「何?」


「この小説——すごく下手」


「……知ってるわよ」


「文章のリズムが不安定で、比喩が時々滑ってて、視点がブレてるところが何箇所もある。あとエッセイからフィクションに移行する境目が少し唐突で、読者は一瞬混乱するかもしれない」


「……全部わかってるわよ」


「でもね」


 詩織が私の目を真っ直ぐ見た。涙の跡が頬に残っている。


「この三万字の中に、リオさんが全部いる。嘘が一文字もない。テクニックでごまかしてる箇所が一つもない。——だから全部泣いた」


「……」


「上手い小説は山ほどある。でもこんなに開けっぴろげで、正直な小説は——初めて読んだ」


 私は言葉を探した。ありがとうと言うべきなのか。でも、それだけでは足りない。


「ここ」


 詩織が画面を指差した。


 『二年間、数字の裏側に隠していた感情。検索クエリの表側だけを見ていた私は、裏側にある本当の問いに気づいていなかった。』


「この部分を読んだ時——リオさんがどれだけ苦しんでたか、初めてわかった気がした」


「……」


「あとここ」


 スクロールした。後半の、フィクションに移行した部分。


 『彼女をプロデュースした一ヶ月半は、彼女を壊しかけた一ヶ月半でもあった。タイトルを変えさせた。プロットを変えさせた。ヒロインを変えさせかけた。編集者の赤字を受け入れさせた。全部、数字のために。でも彼女は壊れなかった。最後に自分の言葉で立ち上がった。私が一番怖かったのは、彼女が壊れることじゃなかった。彼女の隣にいられなくなることだった。これは告白だ。プロデューサーの告白ではなく、一人の人間の、ただの告白だ。』


 詩織がしばらく黙っていた。


「これ……フィクションなんだよね?」


「フィクションよ。三人称だし」


「でも、リオさんでしょ。この『数字の少女』は……」


「……否定はしない」


「リオさんの声が聞こえる。文章の中に、リオさんがいる。いつもの鋭くて冷たいリオさんじゃなくて——怖がってて、傷ついてて、でも必死に手を伸ばそうとしてるリオさんが」


 私は目を伏せた。泣きそうだった。


「リオさん。これ、ここで終わり?」


「うん……最後のシーン、二人が並んで座って、それぞれの一行目を書き始めるところで終わってる」


「じゃあ——投稿して。なろうに」


「……」


「リオさんの声を聞きたい人がいるはず。最初のエッセイを読んだ人たちが待ってる」


「エッセイの続きとして出すには、フィクション部分が——」


「ジャンルなんてどうでもいい。この文章は、読まれるべきだから」


 詩織が、真剣な顔で言った。


「リオさんが私の原稿を見つけた日、『あんたの文章には毒がある』って言ってくれたね。——今度は私が言う番だよ」


 詩織が私の手を取った。


「リオさんの文章には、『傷』がある。読んだ人間の古傷に触れて、開かせてしまう、そんな優しくて残酷な傷が。——リオさんにしか書けない」


  ◆


 その夜。自室のデスクで、投稿の準備をした。


 タイトルを考える。

 『検索クエリの裏側で——数字の悪魔が言葉を取り戻すまで』はエッセイのタイトル。三万字の小説には、別のタイトルが要る。


 何を書いたのか。数字の少女と言葉の少女。仮面をつけた人間が仮面を外すまで。書けなくなった人間がもう一度書くまで。そして——一人では書けなかったものが、隣に誰かがいることで書けるようになる話。


 『となりのキーボード』


 SEO的には最悪。検索に引っかからない。ジャンルがわからない。読者の欲望を刺激しない。


 でも——これが、今の私の言葉だ。


 あらすじ。


 『書くことをやめた少女が、書くことしかできない少女の隣に座った。数字と言葉。管理と創造。仮面と素顔。正反対の二人が、同じ机で同じ空気を吸いながら、それぞれの一行目を探す話です。フィクションです。でも、嘘は一つもありません。』


 投稿時間。深夜一時。最初のエッセイと同じ時間。験担ぎだ。マーケティングの人間が験担ぎ。笑える。


 でも——投稿ボタンを押す前に、もう一つだけやることがあった。


 私はテキストエディタを開き、原稿の末尾にカーソルを置いた。

 最後のシーン——二人が並んで座り、それぞれの一行目を書き始める——の後に、一段落だけ書き足す。


 『数字の少女は、もう「プロデューサー」ではなかった。

  仮面は外れていた。いつ外れたのか、自分でもわからない。

  彼女の隣で書くうちに、仮面のことを忘れていた。

  忘れていたことにすら気づかなかった。

  でも今——画面に映る自分の文章を見つめて、わかる。

  この文字を打っているのは、プロデューサーではない。

  数字の分析官でもない。

  ただの、書く人間だ。

  下手で、遅くて、隣の少女の百分の一も書けない。

  でも——自分の言葉を持っている。

  それだけで、十分だった。』


 30,280文字。


 これで、本当に完成だ。


 深夜一時。投稿画面を開く。

 指が震えている。三回目の投稿。三回目の震え。


 この震えは、たぶん何回投稿しても消えない。消えなくていい。震えるということは怖いということ。怖いということは大切だということ。


 カチッ。


 【投稿完了】


 詩織にメッセージを送った。


 【リオ】投稿した。二作目。

 【詩織】おめでとう! 起きてたよ、待ってた。

 【リオ】PV:0でも泣かないから。

 【詩織】前も同じこと言ってたね。

 【リオ】前は泣かなかったわよ。

 【詩織】嘘つき。枕濡らしてたくせに。

 【リオ】……なんで知ってるのよ。

 【詩織】わかるよ。共犯者だもん。


 共犯者。


 最初にその言葉を使った時、「共犯」は数字を稼ぐための共謀だった。今の「共犯」は——一緒に書くこと。それだけ。


 新しい契約。

 印税の分配率も、マネジメント料も、違約金条項もない。ただ——書いたものを、隣の人間に読んでもらう。それだけの契約。


 世界で一番シンプルで、世界で一番贅沢な契約。


 ベッドに入った。天井を見つめた。


 プロデューサー失格。

 書き手としては——採点不能。まだ誰にも評価されていない。


 でも——仮面を外して、何も持たない手で白い画面に向かっている。その手は震えているけれど、自分の手だ。


 明日は火曜日。

 放課後、開かずの間に行く。

 二台のパソコンを並べて、二人で書く。

 詩織は新作を。私は——次に何を書くか、まだわからない。


 でも、隣からキーボードの音が聞こえれば、きっと書き始められる。


 目を閉じた。

 眠れた。ぐっすりと。

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