第24話(最終話) 「明日も書こうね」
夏休みが始まった。
工事中とかで、学校は閉まっている。開かずの間にも入れない。
だから私たちは、市立図書館に場所を移していた。冷房の効いた自習室。窓から夏の日差しが斜めに入ってくる。
二台のノートパソコンが、机の上に並んでいる。
左が詩織。右が私。
場所が変わっても、配置は変わらない。これがもう、私たちの形だった。
八月の最終週。夏休みが残り三日になった木曜日の午後。
詩織の新作は先週完結した。九万字。美しい、静かな物語だった。
私の三作目は——まだ四行だった。
あの日書いた四行。
『ある朝、一人の少女が画面を見つめていた。数字はゼロだった。誰にも読まれていない。けれど彼女は、ゼロの向こう側に、まだ見ぬ誰かの影を感じていた。』
この四行の続きが、三週間経っても書けていなかった。
焦ってはいない。焦ってはいないのだが——引っかかるものがあった。何か書きたいことがあるのに、形にならない。断片は浮かぶのに、一行目が見つからない。
いや。一行目は書いた。四行書いた。でも——これは、本当に書きたいものの一行目ではない気がしていた。
何か、もっと——根本的なことを書きたい。
何かが胸の奥にあって、出口を探している。
それが何なのか、三週間ずっと考えていた。
◆
「リオさん、今日も白紙?」
詩織が手を止めて聞いた。彼女は完結後の番外編を書いているらしい。新作が終わっても書く手が止まらないのは、もう体質なのだろう。
「白紙じゃないわよ。四行ある」
「三週間ずっと四行だよ。前は五時間で一行書けたのに」
「あの一行に五時間かかったことを、あんたは忘れてるわけ?」
「覚えてるよ。——でもあの時のリオさんは、書けなくても画面に向かってた。今は画面を見てない」
図星だった。
パソコンは開いているが、私の目は窓の外を見ていることが多かった。入道雲。蝉の声。アスファルトの蜃気楼。
「何か考えてるんでしょ?」
「考えてるというか……思い出してる」
「何を?」
「全部を」
私は椅子の背にもたれた。天井を見る。図書館の白い天井。開かずの間の黄ばんだ天井とは違う。でも——見上げる角度は同じだ。
「あの日——開かずの間の引き戸を開けた日から、今日まで。全部」
◆
思い出していた。
二ヶ月半前の放課後。
旧校舎の三階。湿気たカビと古紙の匂い。
重い引き戸を開け放った瞬間、舞い上がった埃が西日の中でキラキラと踊った。
本の城壁の向こうにいた、一人の少女。
手入れされていない黒髪。分厚い眼鏡。制服のリボンは曲がり、スカートのプリーツは死にかけていた。
「あんたの文章は、砂漠に捨てられたダイヤモンドね」。
あの日の私は、商品を探しに行った。市場価値のある才能を。数字に変換できるコンテンツを。
PV:0の原稿を突きつけ、「存在しないのと同じでしょ」と言った。
タイトルを変えさせた。三十文字以内。検索に引っかかるキーワードを詰め込め。
プロットを壊した。テンプレに従え。ストレス→転機→カタルシス。
クリフハンガーを教えた。壁ドンで実演した。投稿時間を計算した。
数字が動いた。PV:47。PV:89。離脱率94%→62%。初ブックマーク。初感想。
TOP100入り。パクリ疑惑。炎上。TOP10。書籍化オファー。1位。
そして——壊れかけた。
詩織の指が止まった日。「これ以上削ったらこの小説が死ぬって、指が知ってる」。
私が代筆した夜。詩織の文体を模倣して、プロの編集者すら騙せるレベルで。
「私の文章は私のもの。リオさんが勝手に触っていいものじゃない」と言われた瞬間。
春日井との面会。「書くことを楽しむこと。それだけは、どんな数字よりも大切なはずです」。
高田とのやり取り。書籍化の白紙。
詩織の最終話。『一人で立つ地面は、こんなにも冷たくて、こんなにも広かった。』
私の手記。『言葉は数字じゃない。』
ランキングの崩壊。そして——再読率420%。静かな波紋。
深夜一時の投稿ボタン。PV:0。PV:3。PV:18。初感想。
「上手い文章ではないけど嘘がない」。
三万字の小説。詩織に読んでもらった日。「リオさんの声が聞こえた」。
プロデューサーの仮面を外した夜。『となりのキーボード』。
そして——九件目の感想。「あなたの文章を読んで、初めて投稿しました。PV:0です」。
全部が、一つの物語のように繋がっている。
「……ねえ、詩織」
「何?」
「書きたいものある——私たちの話」
詩織の手が止まった。
「私たちの話?」
「そう。PV:0の文学少女を見つけて、マーケティングでランキング1位にプロデュースして、そして——数字の檻を壊すまでの話。全部」
詩織が私を見つめた。数秒の沈黙。
「……それ、私が新作の次に書こうと思ってた話と同じだよ」
「え?」
「私たちの話。フィクションとして。——被るね」
「被るわね」
「……一緒に書く? リオさんはリオの視点で、私は私の視点で」
「面倒くさそうね」
「書くのは、いつだって面倒くさいよ。でもこれは——私たちにしか書けない」
それは事実だった。
この物語を書けるのは、世界で二人しかいない。数字の悪魔と、毒の魔女。
私は画面に向き直った。
白紙のテキストエディタ。三週間ぶりに——いや、三週間の四行を消して、本当の白紙に戻した。
点滅するカーソル。
一行目。
この物語の一行目は、何だ。
PV至上主義で始まった話。数字に取り憑かれた少女が、言葉を持て余している少女に出会う話。その始まりは——。
決まっている。
あの日。放課後。埃っぽい図書室。
私が引き戸を開けた瞬間。
それ以外であるはずがない。
指をキーボードに置いた。
カチャ、カチャ。
『重い引き戸を、私は容赦なく開け放った。』
書けた。
一行。
……あれ。
これは——。
「リオさん、書き始めた?」
「書き始めた。——けど」
「けど?」
「この一行……どこかで」
詩織が私の画面を覗き込んだ。
『重い引き戸を、私は容赦なく開け放った。』
詩織が——目を見開いた。
二行目を打った。
『錆びたレールが悲鳴を上げる。舞い上がった埃が西日の中でキラキラと踊って——』
止まらなかった。
三行目。四行目。五行目。
指が動いている。三週間止まっていた指が、嘘のように滑らかに動いている。
書きたかったのは、これだった。
四行の物語じゃなかった。「ゼロの向こう側」の話じゃなかった。
私が本当に書きたかったのは——最初から、私たちの物語だった。
あの引き戸を開けた日から、今日までの全てを。
PV:0の原稿を突きつけた残酷さも、タイトルを変えさせた傲慢さも、テンプレを強制した暴力も。
そして——詩織の文章に泣かされた夜も、投稿ボタンを震えながら押した深夜も、「上手くないけど嘘がない」と言ってもらえた朝も。
全部を。全部書く。
「ねえ、リオさん」
詩織が私の隣に座った。
「この物語のタイトル、私が決めていい?」
「いいよ。あんたの作品のタイトル変えさせた、罪滅ぼしにもならないけど」
「いいタイトルを思いついたの」
彼女は私の手を取り、自分の指で私の掌に文字を書き始めた。
指先の感触がくすぐったい。
『PV至上主義の私が売れない文学少女をランキング1位にプロデュースする』
私は目を見開いた。
「……は? 何よそれ」
「そのままの意味だよ。私たちの話」
「センスないわね。長すぎるし、説明的だし、まるで……」
言いかけて、私は気づいた。
まるで、Web小説のタイトルそのものだ。
かつて私が「検索されやすいように」「中身がわかるように」と詩織に強制した、あの恥ずかしいタイトルのお作法。
彼女はそれを、私たちの人生のタイトルに選んだのだ。
「いいタイトルでしょ?」
詩織が悪戯っぽく笑う。
「検索クエリを全部詰め込んだの。『PV』『文学少女』『ランキング』『プロデュース』。……リオさんが大好きだった言葉ばかり」
「はあ。……過去が殴ってくる。でも、私らしい……この物語らしいか」
「それだけじゃないよ。私たちの体験を、なるべく多くの人に知ってほしい。だから——検索される言葉を使うの」
この物語は——読まれるべきだ。
PV:0の痛みも、1位の虚しさも、書籍化を捨てた解放も、深夜の投稿ボタンの震えも。
一人でも多くの「書きたい」を抱えた人間に、届いてほしい。
ただし、嘘はつかない。この物語そのものを、タイトルにする。
「分かった」
一文字ずつ。ゆっくりと打ち込んだ。
『PV至上主義の私が売れない文学少女をランキング1位にプロデュースする。』
「副題もつける」
もう一行。私から、彼女に向けて。
『〜検索クエリの裏側で彼女は猛毒を愛撫し続ける〜』
詩織が立ち上がった。画面を食い入るように見つめている。
「最後のマーケティング?」
「——もうマーケティングじゃない。これは手紙」
「手紙?」
「この物語を読んで何かを感じてくれる人への。書くことを始めたい人への。PV:0を怖がっている人への。——あの九件目の感想をくれた人みたいな、誰かへの。それから、数字しか愛さなかったバカに、ずっと搬送してくれた。彼女への」
詩織が黙った。
しばらく画面を見つめて——ゆっくりと、頷いた。
「あらすじはどうするの?」
「書く」
あらすじ欄にカーソルを置いた。
三行で読者の脳を殴れ——と、かつて教えた。
今は殴りたくない。でも、届けたい。だから——正直に書く。
『「市販の風邪薬みたいな小説が溢れてるこのサイトで、あんたの文章だけが劇薬なの」
女子高生マーケター・神楽坂リオが見つけたのは、投稿サイトの最果てに埋もれた「毒」。
書いたのは図書室の幽霊こと文月詩織。才能は本物、だが戦略はゼロ。
リオは詩織に宣言する。
「タイトルは30文字以内。冒頭3行で読者の脳を焼け。エゴサは呼吸と思え」
——徹底的なSEO、投稿時間の最適化、タグハック、相互評価の設計。
リオの「攻略」が回り始めた瞬間、ランキングは嘘のように動き出す。
日間1位。週間1位。書籍化オファー。欲しかった数字は、すべて手に入った。
……はずだった。
「1位を取ったら、本当に書きたい結末を書いていい?」
これは数字しか信じない少女と、数字では測れない「毒」を持つ少女が、ランキングの頂点から転落し、自分の書きたいもので世界を壊すまでの共犯の記録。
※本作にはWeb小説マーケティングの実践テクニックが多数登場します。
※ただし後半は劇薬です。用法用量にご注意ください。』
書き終えた。
「……できたね。タイトルとあらすじ」
詩織が隣から覗き込んだ。最初の一行から最後の一行まで、ゆっくりと読んだ。
「いつ投稿する?」
「朝七時」
「ゴールデンタイムだ」
「最後くらいね。一番読者が多い時間に出す。逃げも隠れもしない」
「マーケティング? ううん、違うね」
「違うわよ。朝の光の中で読んでほしいだけ。この物語は——朝の話だから」
詩織が笑った。「それ、私が新作の投稿時間を決めた時と同じ理由だ」
「知ってるわよ。真似したもの」
「リオさんが真似?」
「悪い?」
「悪くない。——最高」
◆
閉館アナウンスが流れた。
パソコンを閉じる。荷物をまとめる。
出口に向かう途中、詩織が立ち止まった。
「ねえ、リオさん」
「何」
「この物語——全何話にするの?」
「まだ決めてない。書きながら決める」
「最後の話は、何を書くの?」
私は少し考えた。
最終話。この物語の結末。
派手なクライマックスは、もうない。1位も書籍化も全部通り過ぎた。
最後に残るのは——何だろう。
「……今日のことを書く」
「今日?」
「夏の終わりの図書館で、二人が並んで座って、それぞれの新しい物語を書き始める話。——それで終わり」
「何も起きないの?」
「何も起きない。ただ書いてるだけ」
「……それで面白いのかな」
「わからない。でも——嘘じゃないでしょ」
「嘘じゃないね。今が一番、嘘じゃない」
図書館を出た。
外は夕暮れだった。入道雲が夕日に染まって、オレンジと紫のグラデーションを作っている。
「きれい」
「ええ」
駅まで並んで歩いた。影が二つ、長く伸びている。
夏の風が吹いている。暖かくて、少しだけ湿っていて、蝉の声を運んでくる。
「明日も書こうね」
「当たり前でしょ」
「明後日も」
「ええ」
「ずっと?」
「……ずっとは約束できない。でも——明日は書く。明後日も、たぶん書く。その次も。一日ずつ」
「一日ずつ、か。リオさんらしい」
「らしいって何よ」
「不器用で、正直で、ちょっとだけ臆病」
「うるさい」
改札の前で立ち止まった。ここで方向が分かれる。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
詩織が改札を通る。振り返って、手を振った。
私も手を振り返した。
彼女の姿が、夕方の人混みに消えていく。
一人になった。
スマホを取り出した。
テキストエディタを開く。
今日書いた文章が、そこにある。
『重い引き戸を、私は容赦なく開け放った。』
この一行から、全てが始まる。
全部書く。嘘なく。計算なく。
PV至上主義で始まった物語が、言葉で終わる。
いや——言葉で、始まり直す。
スマホをポケットにしまった。
夕焼けの空を見上げた。
きれいだった。
数字では測れない、ただきれいな空だった。
明日、書こう。
明後日も書こう。
一日ずつ。一行ずつ。
私の名前は神楽坂リオ。
かつて数字の悪魔だった、ただの書き手。
これは——PV至上主義の果てに見つけた、たった一つの答えの話。
数字の先にあったのは、数字ではなかった。
言葉だった。
隣にいる人の温度だった。
白い画面に向かう、指先の震えだった。
それだけが——本当のことだった。
※
この物語は、Web小説の頂点を目指した二人の少女の記録であり、
やがて数字の檻を壊して、世界にたった一つの「毒」を生み出すまでの、
二人の共犯の記録である。
**【完】**




