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第19話 「書く行為自体が、僕にとっては報酬なんです」


 春日井からLINEが来たのは、書籍化を白紙にした翌週の水曜日だった。


 夜の十時。私は自室のデスクで、二千字の断片と格闘していた。

 昨夜書いた一行目——『私は、一人の天才を壊しかけた。これは、その告白だ』——の続きが、どうしても出てこない。


 スマホが震えた。


 送信者:春日井アキラ


 面会の時に交換した連絡先だ。あれ以来、一度もやりとりがなかった。


 『こんばんは。お元気ですか。

  最終話と、プロデューサーの手記。読みました。

  遅くなりましたが、感想をお伝えしたくてご連絡しました。

  長くなるので、お時間のある時に読んでください。』


 そして——長文が続いた。


 まず、手記について。


 『正直に言います。僕はこの手記を読んで、嫉妬しました。

  Web小説の裏側を、これほど誠実に言語化した文章を、僕は見たことがありません。

  タイトルの付け方、投稿タイミング、クリフハンガー。僕も無意識にやっていたことを、あなたは全て意識的に設計し、そしてそれを読者に開示した。

  「言葉は数字じゃない」という結論に至るまでの過程が、痛いほど伝わりました。

  あの二千字は、文月さんの一万五千字に負けない力がある。それは保証します。』


 嫉妬。

 春日井アキラが、私の二千字に嫉妬した?

 累計12万ポイント、書籍化済み、アニメ化企画進行中の——あの春日井が。


 続きを読む。最終話について。


 『あの結末は、なろうの歴史に残ると思います。大げさではなく。

  テンプレの文法で読者を最後まで連れてきて、最後の最後で「ここは出口じゃない、入口だ」と突きつける構造。

  読者が怒るのは当然です。でもその怒りは、自分がテンプレに依存していたことへの怒りなんです。

  文月さんの文章は、読者に「あなたは本当にこの結末を望んでいたのか?」と問いかけている。

  それは——とても勇敢なことです。』


 そして、最後に一行。


 『僕に何かできることがあれば、言ってください。

  同じものを書く仲間ではないけれど、同じ場所で書いている人間として。

  春日井アキラ』


 私はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。


 春日井は——最初から最後まで、善意の人間だった。

 私が「監視かもしれない」「取り込みかもしれない」と警戒していた間も、この人はただ——作品を読み、作品について考え、作品に向き合っていた。


 私がマーケティングの裏で計算している間、春日井は書いていた。

 私が数字を追いかけている間、春日井は言葉を追いかけていた。


 その差が、今ここにある。


 返信を打った。


 『春日井さん。ありがとうございます。

  正直、あなたの言葉を受け取る資格が私にあるのかわかりません。

  でも——嬉しいです。文月にも伝えます。


  一つだけお願いがあります。

  今度、文月と二人で、もう一度お会いできませんか。

  今度は——計算なしで。』


 返信は、すぐに来た。


 『もちろん。いつでも。

  計算なしのお話、楽しみにしています。』


  ◆


 日曜日。午後一時。

 前回と同じカフェ。同じ窓際の席。


 でも、空気は全く違っていた。


 前回は、詩織がガチガチに緊張していた。私は春日井の一挙一動を査定していた。面会は一時間で終わり、別れ際に名刺を渡された。


 今回——。


「お久しぶりです」


 春日井が笑った。穏やかな、いつもの笑顔。

 カフェラテを注文し、席に着く。

 あの日と同じ仕草。両手でカップを包むように持つ。


「今日は——計算なし、でしたよね」


「はい。計算なしです」


「じゃあ、僕も計算なしで話していいですか」


「どうぞ」


 春日井がカップを置いた。


「まず——怒られるかもしれませんが、正直に言います」


 詩織と私が身構える。


「最終話を読んだ後、僕は三日間、自分の作品を書けなくなりました」


「……え?」


「文月さんの文章の密度に当てられたんです。あの最終話を読んだ後に、自分のテンプレを書こうとすると——手が止まる。『これでいいのか』って声が頭の中で鳴って」


 春日井が苦笑した。


「三日間書けなくて、四日目に机に座って——結局、自分のテンプレをまた書きました。でも、その時の感覚は以前とは違った。自覚的に書いている、という感覚。『これは確かにテンプレだ。でも僕はこのテンプレの中で自分ができる最善を尽くす』って、初めて意識した」


「……それは、いいことなんですか?」


 詩織が聞いた。


「わからない。でも、無自覚に書いていた頃よりは、誠実だと思います」


 沈黙。


 カフェのBGMが流れている。日曜の午後の、穏やかな時間。


「春日井さん」


 私が口を開いた。


「LINEに書いてくださいましたよね。私の手記に嫉妬した、と」


「はい。あれは本心です」


「聞きたいことがあります。——春日井さんは、なぜ書けるんですか」


「なぜ?」


「三年間、毎日更新を続けて、1位を取って、書籍化して。それだけの時間と圧力の中で——なぜ、書くことを嫌いにならなかったんですか」


 これは——計算ではなく、本当に知りたいことだった。


 春日井は少し考えた。


「嫌いになりかけたことはありますよ。何度も」


「何度も?」


「編集者に直されて、読者に叩かれて、ランキングに振り回されて。何のために書いてるんだろうって、わからなくなる夜はたくさんあった」


「でも、やめなかった」


「やめなかった。……理由は、たぶんすごくシンプルで」


 春日井がカフェラテを一口飲んだ。


「書いてる時だけ、頭が静かになるんです。普段は色んなことを考えすぎて、脳がうるさい。でも書いてる時だけ——一つのことに集中できる。それが気持ちいいんです。瞑想に近いかもしれない」


「……それだけ?」


「それだけです。読まれるかどうか、評価されるかどうかは——正直、二の次で。書く行為自体が、僕にとっては必要なことで……報酬なんです」


 私は黙った。


 書く行為自体が報酬。

 数字でも、承認でも、書籍化でも、読まれることですらなく——書くこと自体。


 二年前の私は、それを見失った。

 「面白くない」「才能がない」と言われた時、書く行為の中にあった喜びを、外部の評価で上書きしてしまった。数字で測れないものを、数字で否定されて、壊れた。


「神楽坂さん」


 春日井が私を見た。


「手記に書いてありましたよね。二年前に書くことをやめた、と」


「……はい」


「今は——書いていますか?」


「書き始めました。まだ、二千字しか書けていませんが」


「二千字。それは——すごい」


「一万五千字を一日で書く人間が隣にいるのに?」


 詩織が慌てて「速さは関係ないよ!」と割り込んだ。


 春日井が笑った。


「文月さんの言う通りです。速さは関係ない。——むしろ、二年間書けなかった人が二千字書いたという事実の方が、重い」


「……」


「僕は毎日五千字書きますが、それは習慣です。惰性に近い。でも神楽坂さんの五千字は——二年分の氷を溶かして流れ出した水です。濃さが違う」


 その言葉が、不思議と胸に沁みた。


「……ありがとうございます」


「読ませてもらえませんか。いつか」


「……まだ無理です。形になっていないので」


「形になったら。楽しみにしています」


  ◆


 二杯目のコーヒーを頼んだ頃、話題は自然と「これから」に移った。


 春日井が口を開いた。


「ひとつ僕から提案があるんです。聞いてもらえますか」


「なんでしょう?」


「僕の活動報告で、文月さんの作品を紹介したい。許してもらえますか?」


 私の目が鋭くなった。


「……それは、計算じゃないんですか?」


「計算と言えば計算です。でも、純粋に、読んでよかった作品を、読みたい人に届けたいという気持ちもある。——両方です」


 正直だった。

 嘘のない、フラットな言い方。


「僕のフォロワーの中には、テンプレ以外の小説を読みたいと思っている人が一定数います。そういうテンプレに飽きた読者層に、直接届きます。ランキング経由じゃなく、信頼経由で」


 マーケティングの言葉で言えば、「インフルエンサー・マーケティング」。


「大げさなことをするつもりはありません。ただ、近況として活動報告に書くだけ。『最近読んだ中で印象的だった作品』として、『猛毒のレシピ』と、文月さんの新作を紹介したい」


 詩織が私を見た。

 「どうする?」という目。


 前回の面会後、私は「春日井の好意を宣伝効果に変換しようとしている自分」に嫌悪を感じた。

 今回は——。


「春日井さん。一つだけ確認させてください」


「はい。いくつでも」


「それは、私たちのためですか? それとも、春日井さん自身のためですか?」


 春日井が少し考えた。


「両方です。——文月さんの作品を紹介することで、僕のフォロワーの中に『こういう小説も読みたかった』という層が見える。それは僕にとっても、自分の読者を理解するヒントになる」


「Win-Winだと」


「そう言うと計算っぽく聞こえますが……正直、面白い作品を人に薦めたいだけです。友達に本を貸す感覚に近い」


 私は詩織をもう一度見た。

 詩織が小さく頷いた。


「……お願いします。ありがたくお受けします」


「ありがとうございます」


 春日井が微笑んだ。


  ◆


 三杯目のコーヒーが来た頃。

 話は、もっと個人的な方向に進んでいた。


「春日井さんは、テンプレを書いていて——苦しくないんですか?」


 詩織が聞いた。

 前回の面会では聞けなかった質問。


「苦しい時はあります。でも——嫌いじゃない、かな」


「嫌いじゃない?」


「テンプレって、制約でしょう。制約の中で最善を尽くすのは、パズルに近い面白さがあるんです。俳句が五七五の制約があるから美しいのと似ている」


 詩織が目を見開いた。


「……リオさんが教えてくれたことと、似てる」


「え?」


「リオさんに最初に教わったんです。三十文字以内のタイトル。一段落三行まで。漢字と平行のバランス。——制約の中で書くことを」


「文月さんのあの最終話は、テンプレの制約の中で鍛えられた構成力があったからこそ、あれだけの破壊力を持てたんだと思いますよ」


 春日井が言った。


「純文学だけを書いていた頃の文月さんには、あの最終話は書けなかったはずです。テンプレを通過したからこそ、テンプレを超える文章が書けた」


 私は——胸が熱くなるのを感じた。


 私がやったことは、全てが間違いだったわけではない。

 タイトルを変えさせたこと。プロットをテンプレに直させたこと。クリフハンガーを教えたこと。

 それらの制約が、詩織の毒を鍛え、濃縮し、最終的に——あの最終話を生み出す力になった。


 泣きそうになった。

 でも、カフェで泣くわけにはいかない。


 別れ際、春日井が言った。「神楽坂さんの二千字、楽しみにしています。焦らなくていいですから。——あなたの言葉も、届くべき人に届くべきです」


  ◆


 帰り道。駅前のベンチに並んで座った。


「いい人だったね。前回もそう思ったけど、今回はもっと」


「ええ。計算なしで会えてよかった」


「リオさんが変わったんだよ。前回は全部分析してたでしょ。今回はただ話してた」


 夕日が傾いている。


「ねえ、リオさん。リオさんの原稿、なろうに投稿したらいいんじゃない?」


 心臓が跳ねた。


「二千字しかないのよ」


「エッセイでいいじゃない。春日井さんも言ってた。『届くべき人に届くべき』って」


「怖い」


「うん。怖いよね。——でも私が隣にいるから。PV:0でも泣いていいよ」


 帰宅後。テキストエディタを開いた。

 二千字の断片を読み返し、もう少しだけ書き足した。

 中学時代の話。初めてコメントをもらった夜。そして——「才能がない」と言われて画面を閉じた日。


 あらすじも書いた。


 『二年間、書くことから逃げていた人間が、一人の作家に出会って、もう一度書き始めた記録です。上手くはないです。でも、嘘は一つもありません。』


 投稿は——まだしない。

 もう少しだけ、書き足してから。


 でも——「投稿する」という決意は、もう固まっていた。

 春日井の言葉と、詩織の「隣にいるから」が、私の背中を押している。


 パソコンを閉じて、ベッドに入った。


 明日、もう少し書こう。

 書けたら——投稿しよう。

 深夜の、誰も見ていない時間に。

 マーケティングゼロで。


 怖い。

 でも——怖いということは、大切だということだ。

 投稿ボタンを押す時の震えを、私はもう一度知りたい。

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