第20話 「二年間、書くことから逃げていた人間が、もう一度書き始めた記録です」
五千字を超えたのは、木曜日の深夜だった。
テキストエディタの左下に表示される文字数カウンター。5,024。
日曜日に春日井と会ってから四日間、毎晩少しずつ書き足してきた。
中学時代の記憶。初めて投稿サイトに小説を上げた日。初めてもらったコメント。そして——「才能がない」「やめろ」と言われて画面を閉じた夜。
フィクションなのか、ノンフィクションなのか、自分でも区別がつかない。でも書くたびに、胸の奥のしこりが少しずつ溶けていく感覚があった。
そして——詩織に出会った日のこと。
『彼女の文章を初めて読んだ時、私は自分が失ったものの名前を知った。
それは「書きたい」という衝動だった。
二年間、数字の裏側に隠していた感情。
検索クエリの表側——クリック率、SEO、コンバージョン——だけを見ていた私は、裏側にある本当の問い(クエリ)に気づいていなかった。
読者が本当に検索しているのは、「面白い作品」じゃない。
「自分の気持ちを代わりに言葉にしてくれる誰か」だ。
私は、それを忘れていた。』
書き終えて、画面を見つめた。
拙い。詩織の文章と比べたら、砂利道を素足で歩くような、ぎこちない文章だ。比喩は凡庸。リズムは不安定。
でも——嘘は一つもない。
時計を見た。深夜零時を過ぎている。
詩織が言っていた。「投稿したらいいんじゃない?」
春日井が言っていた。「あなたの言葉も、届くべき人に届くべきです」
今夜だ、と思った。
理由はわからない。今夜投稿すべきだという直感が、腹の底にあった。
なろうの投稿画面を開いた。
タイトル。
何にする。
三十文字以内——いや、もうそのルールに従う必要はない。
自分の作品に、自分のタイトルをつける。何を書いたのか。何が言いたかったのか。
詩織の文章には毒がある。その毒を、私は管理しようとした。数字で測り、テンプレで薄め、市場に合わせて調整した。でも最後に——その毒を、ただ美しいと思った。管理する対象ではなく、愛おしいものとして。
検索クエリの表側だけを見ていた私が、裏側にある本当の問いに気づいた。
タイトルを打ち込んだ。
『検索クエリの裏側で——数字の悪魔が言葉を取り戻すまで』
三十文字を超えている。SEO的には最悪。検索には引っかからない。
でも——これが、私の言葉だ。
ジャンル:エッセイ
キーワード:Web小説 マーケティング 創作
あらすじ。
『二年間、書くことから逃げていた人間が、一人の作家に出会って、もう一度書き始めた記録です。Web小説のマーケティング手法と、その裏側にある葛藤について書いています。上手くはないです。でも、嘘は一つもありません。』
投稿時間。
ゴールデンタイムの十八時〇二分——ではなく。
今。深夜一時十七分。
誰も見ていない時間。新着一覧は深夜帯の大量投稿に押し流されて、すぐに埋もれるだろう。PVは限りなく0に近いだろう。
でも——それでいい。
投稿ボタンにカーソルを合わせた。
指が、震えている。
詩織の声が聞こえる。
『PV:0でも泣いていいよ。私が隣にいるから。』
春日井の声も聞こえる。
『焦らなくていいですから。』
そして——中学二年の夏の、自分の声。
初めて投稿ボタンを押す直前の、あの震え。怖くて、でも期待していた、あの瞬間。
二年ぶりに、帰ってきた。
カチッ。
【投稿完了】
画面に表示された四文字を見つめた。
心臓がうるさい。手のひらに汗をかいている。胃の奥がぎゅっとなる。
これが——投稿ボタンを押す時の震えだ。
画面を見る。
PV:0
ゼロ。
深夜一時の新着一覧に、私の原稿は静かに流れ出した。
不思議と、怖くなかった。
ゼロの向こうに、いつか誰かがいるかもしれない。その「かもしれない」を信じて押した。それだけで十分だった。
詩織にメッセージを送った。
【リオ】投稿した。深夜1時に。マーケティングゼロで。PV:0。
既読がつくのに三十秒。起きていたらしい。
【詩織】おめでとう。
【詩織】やっと、リオさんも「こっち側」に来たね。
こっち側。書く側。言葉を世界に差し出す側。PV:0の恐怖と向き合う側。
【リオ】怖かった。
【詩織】知ってるよ。でも、押したんでしょ。
【リオ】押した。
【詩織】えらい。
スマホを置いた。ベッドに入った。
久しぶりに、ぐっすり眠れた。
◆
朝、六時半に目が覚めた。目覚ましが鳴る前に。
ベッドの中でスマホを手に取る。
なろうの管理画面を開く。指がほんの少しだけ震えていた。
画面が切り替わる。
PV:3
三。
ゼロじゃなかった。
深夜一時に、最適化なしで投稿した五千字のエッセイを、三人の人間が読んでいた。
たまたま深夜に新着一覧を巡回していたのか、「プロデューサーの告白」を読んで私の名前を検索したのか。理由はわからない。
でも——三人が、読んだ。
私は布団の中で、スマホを胸に押し当てた。
詩織がPV:47を見た時、「47人が読んでくれたの?」と震えていた。あの気持ちが——今、わかる。三人が、私の言葉に触れた。それだけのことが、こんなにも温かい。
通学の電車内で再確認。PV:5。二人増えた。朝の通勤・通学時間帯——かつて私が「ゴールデンタイムの一つ」と呼んだ時間帯に、誰かが私の文章を開いている。
感想欄。空っぽ。
ブックマーク:0。評価:0。
読まれたけれど、棚に入れるほどではなかった。あるいは、評価するほどの価値を感じなかった。
痛い。思っていたより、痛い。
「PV:0でも泣かないから」と言ったのに。PV:5でブクマ0は、ゼロよりある意味きつい。「読まれたのに、響かなかった」という可能性が浮かぶから。
でも——詩織はこの痛みの中で、二年間書き続けていた。PV:0のまま、誰にも読まれないまま、開かずの間で一人で。それに比べたらPV:5は奇跡だ。
◆
放課後。開かずの間。
二台のパソコンが並んでいる。詩織は新作の原稿を書いている。
私はパソコンを開いたが、管理画面を確認する手が止まっていた。
「見ないの?」
詩織が横目で聞いた。
「……見るわよ。今見る」
管理画面を開く。
PV:12。ブックマーク:0。評価:0。感想:0。
十二人。朝から昼にかけて七人増えた。でも、ブクマも評価も感想もゼロのまま。
「……十二人に読まれて、反応ゼロ」
声に出てしまった。
「リオさん」
詩織が手を止めた。真剣な顔で。
「数字の話、していい?」
「……あんたに数字の話をされるなんて、世も末ね」
「離脱率、見た?」
「離脱率?」
「エピソード別のPVを見て。五千字、一話完結でしょ? 全部読まれてるか確認して」
言われるままに、解析画面を掘り下げた。
滞在時間。
平均滞在時間:11分48秒
五千字を普通に読むと約五分。十一分四十八秒——ほぼ全員が、二回以上読んでいる。
「……最後まで読まれてる。しかも、読み返してる」
「でしょ。十二人全員が最後まで読んだ。ブクマはしなかった。評価も入れなかった。でも——最後まで読んで、もう一度読み返した」
詩織が静かに言った。
「ブクマや評価がつかないのは、反応の仕方がわからないだけかもしれない。エッセイだから。小説とは読後感が違うから。あるいは——言葉にできないほど刺さったのかもしれない」
「……」
「最終話を投稿した後、最初の十五分間コメントがゼロだったの覚えてる? あれは読者が読んでいる最中だったから。反応がないことが、届いている証拠になることもあるよ」
自分が教えた理論を、自分が慰められるために使われている。滑稽だけど——救われた。
◆
その夜。自室のデスクで、一日の最終確認。
管理画面を開く。
PV:18。ブックマーク:1。★5:1件。感想:1件。
——動いた。
ブクマが1件。評価が★5で1件。そして——感想が1件。
指が震える。感想欄を開く。
短い文章だった。
『プロデューサーの告白を読んで、この方の名前を検索しました。
読み終えて、しばらく動けませんでした。
「彼女の隣にいられなくなることが、何よりも怖かった」という一文が、今もまだ胸の中にいます。
上手い文章ではないと思います。でも、嘘がない文章だと思います。
書いてくれて、ありがとうございます。』
上手い文章ではない。でも、嘘がない。
泣いた。
声を出さないように、枕に顔を押し付けて。
数字の悪魔が、PV:18の感想一件で泣いている。
二ヶ月前なら鼻で笑っていた数字だ。「こんなの誤差よ」「統計的に意味がない」と言っていただろう。
今は——世界が変わるほど重い。
一人が棚に入れてくれた。一人が星を五つくれた。一人が言葉を返してくれた。
「書いてくれて、ありがとう」。
その一言が、12万ポイントよりも重い。
スマホを取り、詩織にメッセージを送った。
【リオ】感想が来た。1件。
【リオ】「上手い文章ではないけど嘘がない」って。
返信。
【詩織】!!!!
【詩織】初感想おめでとう!!!!!
【詩織】泣いてる?
【リオ】泣いてない。
【詩織】嘘つき。
【リオ】……うるさい。
【詩織】えへへ。おめでとう、リオさん。
【詩織】リオさんの毒も、ちゃんと届いたね。
リオさんの毒も。
私にも毒がある。
詩織のような鋭利で美しい劇薬ではないけれど。不格好で、拙くて、嘘がないだけが取り柄の——でも、私にしか作れない毒。
世界でたった一つの毒。
それが今夜、一人の人間に届いた。
スマホを置いて、天井を見つめた。
二ヶ月前、この部屋で、スプレッドシートを開いて「Project:カタツムリ」と名付けた。詩織の才能を数字に変換するプロジェクト。
今夜、同じ部屋で——自分の言葉が一人の人間に届いた。
プロジェクトの名前はもうない。数字の目標も、ランキングの計算もない。あるのは——PV:18と、感想:1と、泣きはらした枕。
それだけで。今は、それだけで十分だった。




