第18話 「私は、もうマーケターじゃない」
金曜日。放課後。開かずの間。
高田への返答期限の日だ。
二台のパソコンは閉じたまま、長机の上に置かれている。
今日は書く日じゃない。決める日だ。
詩織と向かい合って座っていた。
窓から差し込む西日が、埃っぽい空気をオレンジ色に染めている。いつもの光景。でも、空気の重さだけが違う。
「決めましょう」
私が口を開いた。
「選択肢は二つ。一つ目——最終話を削除して、テンプレ通りのハッピーエンドに差し替える。生徒会長と結ばれて、ざまぁが成立して、読者が満足する結末。書籍化は予定通り進行する」
詩織は黙って聞いていた。
「二つ目——最終話をこのまま残す。主人公が一人で歩き出す、あの結末を。その場合、高田さんの言葉を借りれば、書籍化の契約は白紙に戻る」
沈黙。
窓の外で、部活帰りの生徒たちの声が遠く聞こえる。
「私の意見を先に言うわ」
詩織が頷いた。
「マーケターとしては、一つ目を選ぶべき。書籍化は一度逃したら、次がある保証はない。初版一万部のメジャーデビューなんて、なろう発の新人には破格の待遇。これを蹴るのは、客観的に見て——愚かな判断」
言葉にすると、その重みが改めて胸にのしかかった。
一万部。全国の書店。ISBNコード。印税。
一ヶ月半かけて積み上げてきた全ての成果が、この選択にかかっている。
「でも」
私は一拍置いた。
「私は、もうマーケターじゃない」
詩織が顔を上げた。
「あんたの最終話を消すくらいなら、書籍化なんていらない。——それが、私の答え」
言い切った。
声は震えていなかった。自分でも驚くくらい、静かな声だった。
詩織は何も言わなかった。
しばらく、窓の外を見ていた。
夕日が傾いて、彼女の横顔に影が落ちている。
「リオさん。私のことは気にしないで、本当のことを言って」
「本当のことを言ってるわよ」
「ほんとに? リオさんが一ヶ月半かけて積み上げたもの、全部なくなるのに?」
「なくならない」
私は即答した。
「あんたの最終話は残る。私の手記も。なろうのサーバーが飛ばない限り、あの文章はずっとそこにある。——書籍にならなくても」
詩織の目が潤んだ。
でも、泣かなかった。唇をきゅっと結んで、堪えていた。
「……私も、同じ答え」
「知ってたわよ。聞くまでもなかった」
「じゃあなんで聞いたの?」
「二人で決めたかったから。一人で勝手に決めるのは——もうやめたの」
詩織の文章を勝手に書き換えた夜のことを思い出していた。「私の文章は私のもの」と言われた時の、胸の痛み。あれ以来、私は——「二人で決める」ということを、選ぶようになった。
◆
私はスマホを取り出した。
高田の番号を呼び出す。
コール音が三回鳴って、出た。
「神楽坂さん。返答ですか」
「はい。結論が出ました」
「聞きましょう」
「最終話は残します。書籍化の件は——白紙でお願いします」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
カフェのBGMのような音が聞こえる。高田は外にいるらしい。
「……そうですか」
怒声は来なかった。
高田の声は——静かだった。怒りではなく、諦めに近い響き。
「残念です。本心から、残念に思います」
「ありがとうございます」
「念のため確認しますが、これは文月先生ご本人の意思でもありますか?」
「はい。二人で決めました」
「わかりました。では、契約は白紙撤回とさせていただきます。書類は来週お送りします」
事務的な言葉が並ぶ。でも、その声の奥に——何か別のものが混じっている気がした。
「高田さん。一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「違約金の件ですが——」
「発生しません」
即答だった。
「正式な出版契約は締結前でした。今回はあくまで打ち合わせ段階でしたので、違約金は発生しません。表紙イラストの発注費用については、こちらで処理します」
私は息を呑んだ。
高田が——守ってくれている。
違約金が発生しないのは、法的にはその通りかもしれない。でも「こちらで処理します」という一言は、高田個人の判断だ。イラストレーターへの発注費は安くない。それを出版社の経費として処理するということは、高田が自分の評価を下げる可能性すらある。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません。ビジネス上の判断です」
プロの言葉だった。感情を混ぜない、冷静な物言い。
でも——その冷静さの裏に、わずかな温もりがあった。
「最後に一つだけ」
高田が言った。
「あの最終話の雨のシーン。個人的に、と前置きしましたが——やはり、あれは素晴らしい文章です。書籍化は流れましたが、作品の価値は変わりません。文月先生に、そうお伝えください」
『一人で立つ地面は、こんなにも冷たくて、こんなにも広かった。』
あの一文を、高田は覚えていた。
編集者として「削れ」と言った人間が、個人として「素晴らしい」と言っている。
その矛盾が——高田という人間の正直さだった。
「……伝えます、必ず」
「それでは。——お元気で」
電話が切れた。
スマホを耳から離した。
手が、少しだけ震えていた。
◆
詩織が私を見ていた。
「……何て言ってた?」
「書籍化は白紙。違約金はなし」
「違約金、ないの?」
「正式契約前だったから。高田さんが——配慮してくれた」
詩織が目を伏せた。
「いい人だったんだね。最後まで」
「ええ。プロだったわ」
私たちはしばらく黙っていた。
書籍化が消えた。
全国の書店に並ぶはずだった本。ISBNコード。印税。サイン会。重版。
全部、なくなった。
でも——。
「ねえ、リオさん」
「何?」
「私、泣くと思ってた。書籍化がなくなったら、きっと泣くって」
「泣いてないじゃない」
「うん。泣いてない。……だって、胸が軽いんだもん」
詩織が驚いたような顔をしていた。自分自身に驚いている顔。
「書籍化が決まってから——ずっと息苦しかった。自分の文章を削られるたびに、肺が小さくなっていく感じがした。高田さんの赤ペンが入るたびに、呼吸が浅くなっていった。でも今——」
詩織が大きく息を吸い込んだ。
埃っぽい図書室の空気。古い本の匂い。湿気と、西日の温もり。
「——息ができる」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の中で何かが震えた。
作中作の最終話。七瀬結衣が、生徒会長に背を向けて扉を開いた瞬間の台詞。
『外は雨だった。傘はなかった。でも——息ができた。』
詩織は——自分のキャラクターと同じ言葉を、同じ実感で言っている。
七瀬結衣が支配から解放されたように、詩織が商業主義の重圧から解放された。
フィクションと現実が、重なっている。
「……これからどうするの?」
詩織が聞いた。
物語は完結した。書籍化もなくなった。ランキングは急落している。
「あんたは、次の物語を書く。テンプレじゃなく、最初から自分の書きたいものを」
「リオさんは?」
この質問が来ることは、わかっていた。
「……私も、書く」
詩織が目を丸くした。
「昨日——手記を書いた後、もう少しだけ書き足したの。自分のことを。中学時代のこと。書くことをやめた日のこと。そして——あんたに出会った日のこと」
「リオさんが……書くの?」
「まだ二千字しかない。一行目に五時間かかった。——あんたの百分の一も書けない。でも」
私は自分の手を見た。
この手は、スプレッドシートを操作するための手だった。他人の文章を分析し、最適化し、数字に変換するための手。
でも昨夜——この手で、自分の言葉を書いた。
「書きたい。あんたの隣で」
詩織の顔に、久しぶりの——本物の笑顔が浮かんだ。
「開かずの間、二人で使うの?」
「文句ある?」
「ないよ。——むしろ、ずっとそうだったらよかったのに」
「えっ?」
「最初から。リオさんがプロデューサーじゃなくて、ただの書き手として隣にいてくれたら——もっと早く、ここに辿り着けたかも」
「……そうかもね。でも遠回りした分だけ、あんたの毒は濃くなった」
「うん。それは——本当にそう」
翌日から、二台のパソコンが長机に並んだ。
左が詩織。右が私。
片方は奔流のように書ける。片方は一日三百字がやっと。
でも——同じ方向を向いている。
数字の鎖が、外れた。
その感覚は——1位に立った時よりも、ずっと軽くて、ずっと静かだった。




