第7話:写しと本物の境界
祠の奥――
そこには、水神がいた。
形はない。
ただ水があった。
床を這い、空間を満たし、光を反射し、周囲のすべてを“鏡”のように映していた。
水の中には、人々の顔が映っていた。
泣き叫ぶ子供。笑って首を傾げる男。怯えた女の顔。
そして、何より多く映っていたのは、俺自身だった。
何百、何千といる“俺”。
少しずつ違う表情、違う感情――それらすべてが“写し”だ。
「ここが“水神様”の正体かよ……!」
俺は震える手で、封印具を握りしめた。
鏡。鈴。そして、注連縄。
今ここで、すべてを使って――
この“水に宿った人の心”を、封じ直す。
そのときだった。
水面が波立ち、写しの俺がもう一度、姿を現した。
本物と寸分違わぬ顔。
けれど、すべての感情が“過剰”だった。
憎しみ。絶望。虚無。恐怖。
それらが混ざり合い、溢れていた。
「お前は、俺じゃない」
「違うよ。“俺こそが、お前だ”」
写しが笑う。
「お前は、逃げたいと思った。母親からも、学校からも、自分自身からも。
認められることより、否定されるほうが楽だった。
だから俺が生まれた」
声が耳を揺らす。
言葉が、胸を抉る。
確かに俺は弱かった。
葵に言われた通り、誰かに選ばれることが怖かった。
自分で“自分”を選ぶことから、逃げてきた。
だからこそ――
「それでも、俺は俺を選ぶ!」
俺は鏡をかざす。
写しの姿が映る。水面がひび割れ、音が鳴り響いた。
チリン。
鈴の音が、空間に結界を張る。
写しが叫ぶ。
「やめろ! お前はお前を認めたくないはずだ!」
「違う。認めるよ。俺は弱くて臆病で、時々最低で、でも――ちゃんと生きてる!」
俺は注連縄を掲げて、井戸の周囲に結界を結んだ。
床に撒かれた水が、煙のように逃げ惑う。
水神が咆哮する。
あたり一面が水に沈みそうになる。
だが、俺の中にいた“写し”が――裂けた。
水が跳ね、祠の中にいたすべての“俺”が消えていく。
苦しげに手を伸ばす“写し”が、最後にこう呟いた。
「……ああ、俺は……ただ、救われたかったんだ」
静かに、水が祠の床に染み込み、音もなく消えていった。
封印は――完了した。
***
気がつけば、夜が明けていた。
祠の空は透き通っていて、夏の朝焼けが差し込んでいた。
手には、割れた鏡の破片が握られていた。
水はすべて乾き、音もなく消えていた。
俺は静かに立ち上がった。
もう、“写し”の気配はない。
そのとき。
祠の奥に、葵が立っていた。
「……封印、できたね」
彼女の姿は、もう輪郭が曖昧だった。
水の中に、ほのかに光る“残像”のようになっていた。
「ありがとう、翔真くん。
これで……私は、やっと、眠れる」
「待てよ……!」
思わず駆け寄る。
けれど、手は彼女に触れられなかった。
「もう、私の役目は終わったの。
あなたが、自分自身で“選んでくれた”から」
「それじゃ、また会えるのか……?」
「ううん、きっともう会えない。
でもね――あなたが自分のこと、ちゃんと選び続ける限り。
“写し”は、二度とあなたを呑まないよ」
その言葉とともに、彼女は祠の奥――水の奥へと静かに消えていった。
祠に吹き込む朝の風が、注連縄を揺らしていた。
夏の終わりは、すぐそこに来ていた。




