第6話:水の中の自分
逃げている間中、背後に“自分の足音”がついてきた。
違う。俺のじゃない。
もう一人の俺――“写し”の足音だ。
振り返っても姿は見えない。
だけど、気配がまとわりついてくる。
水たまりの中、窓ガラスの中、排水溝の奥……すべての“水”が、俺を映し返してくる。
そこにいるのは、俺じゃない俺。
目が合うたび、じわりと心の輪郭が曇っていく。
考えることが、感情が、自分のものじゃないような感覚に侵されていく。
写しが、俺の内側に入り込もうとしている。
***
自宅に戻った。
祖母はいなかった。どこへ行ったのか、連絡も取れない。
部屋の中は静まり返っていて、湿気が不自然に重い。
風呂場の鏡が、うっすら曇っていた。
湯気ではない。内側からの濁りだ。
気づけば、鏡の中に“笑っている自分”が映っていた。
さっきまで俺は、そんな顔をしていなかったのに。
「やあ、俺。ずいぶん疲れてるみたいだね」
写しが、喋った。
「もう楽になったらどうだ? こっちはよく知ってる。お前の中の、誰にも言えないこと」
「……うるさい」
「ほんとはこの村が怖いんじゃない。“自分の中にあるもの”が怖いんだろ?」
写しの声は、俺の声と同じだった。
だからこそ、耳の奥に直接突き刺さってくる。
「昔、死にたいと思ったこと、あるだろ?」
「やめろ……」
「母親に本音を言えなかった。恋人を作る勇気もなかった。誰かに選ばれることが怖かった。
……そんな弱いお前は、もう終わりにしよう」
鏡の中の“俺”が、手を伸ばしてくる。
その手が、鏡を越えて現実に突き出される。
水面のように揺れるガラス。そのまま、“俺”が出てこようとして――
――パリーン!
鏡が砕けた。
その破片の向こうに立っていたのは、葵だった。
「ごめん、間に合ってよかった」
彼女の手には、小さな鈴があった。
それを鳴らすと、耳の奥でキーンと響く音が水面を割るように広がっていった。
写しの声がかき消されていく。
「それ……は……」
「“境界”を保つための鈴。あなたの“心”と“写し”を分ける最後の防波堤よ」
俺は、その場に崩れ落ちた。
恐怖もあった。でも、それ以上に――
自分の中にある“弱さ”を、他人に見られた気がして、恥ずかしかった。
「情けないよな、俺……」
「ううん、違うよ。人はみんな、心の中に“写し”を持ってる。
でもね、強さっていうのは、それを“見つめた上で選ぶこと”なんだよ」
葵の声は、どこか優しくて、でも寂しかった。
「……その鈴と鏡、注連縄を使って、井戸の封印を完成させて。
でも――私、そこまでは一緒に行けないの」
「え……?」
葵はうつむいて、静かに言った。
「私はこの村の“水”そのものだから。
井戸に近づけば近づくほど、水神と混ざってしまう。」
そのとき初めて、彼女の手が水に溶けかけていることに気づいた。
「……嘘だろ。葵、そんな……」
「大丈夫。大丈夫だよ。
だから――翔真くん、お願い“あなた自身”を選んで。
“写し”じゃなくて、“本物のあなた”で封印を完成させて」
その言葉を最後に、彼女は一歩、後ろに下がった。
そのたびに輪郭が水に滲み、姿が透けていく。
「……約束だよ」
そう言って、彼女は消えた。
***
夜。
俺は、封印具を持って、あの祠へ向かった。
写しが完全に形を持つ前に――俺自身を取り戻すために。
その途中、村中の水がざわめいていた。
雨どい、水道管、池、川――すべての“水”が、俺を見ていた。
“本物の俺”と“写しの俺”――
今、最後の境界が壊れようとしている。
祠の前に立ったとき、そこにはすでに“写し”がいた。
俺とまったく同じ顔、同じ声。
でも、その目は空っぽで、そして――満たされていた。
「終わりにしよう、翔真」
写しが手を差し出してくる。
握れば、すべてが楽になるのかもしれない。
考えなくていい。悩まなくていい。誰かに選ばれることも、拒まれることもない。
だけど俺は、封印具を胸に握りしめて言った。
「――俺は、俺を選ぶ」
その言葉と同時に、写しの顔がひび割れた。
水がはじけるように、その体が崩れていく。
最後に残ったのは、俺と同じ声で漏らした言葉。
「……楽になりたかっただけ、なのに」
祠の奥から、水神のうなり声が響いた。
封印の儀。
ついに、最後の戦いが始まる。




