第5話:封印の儀
俺の影が、水たまりに引きずり込まれようとしていた。
何とか身を引いて距離を取ったが、足元の水はまるで生きているかのように揺れ続けている。
「もう始まってる……時間がない」
葵は静かに呟いた。
水神の“目覚め”が刻一刻と近づいているのだ。
「翔真くん。あなたに“封印の記憶”を渡す。痛みがあるかもしれないけど、必要なこと」
そう言って、葵は俺の額にそっと指を当てた。
その瞬間、意識が裏返った。
***
視界がぐにゃりと歪み、気がつけば――そこは百年前の寒水村だった。
白装束の巫女たちが祠を囲み、中心には葵がいた。
唇を噛みしめるようにして唱える祝詞。
祭壇には、三つの封印具――**鏡、鈴、注連縄**が供えられている。
村人たちが遠巻きに祈り、しかし誰も葵には近づこうとしない。
彼女だけが“写し”と向き合い、井戸に封じようとしていた。
祠の奥で、水神の“写し”が立ち上がる。
それは葵と同じ顔をしていた。
笑っている。静かに、狂気のように。
葵は三つの封印具を手にし、叫ぶ。
「――水に、帰れ!」
儀式は成功した。
だが、代償として彼女自身も、水に囚われた。
この村の“水”に。
***
意識が戻ると、葵が目の前で微笑んでいた。
「……全部、見えた?」
「……ああ。あれが“封印の儀”……」
つまり、封印を完成させるには、三つの封印具が必要になる。
・鏡――水神を写し出す“器”
・鈴――音で写しを分離させる“境界”
・注連縄――封じた後に結界を保つ“鎖”
「どこにあるんだ、それらは」
葵は少し顔を伏せて言った。
「最後に儀式を行ったのは、村の“御月家”。今はもう廃屋だけど、封印具はそこにあるはず」
御月家――聞き覚えがある。
数年前に一人暮らしの老婆が行方不明になってから、誰も近づかなくなったという旧家だ。
葵の言葉に従い、俺は御月家の屋敷跡を訪れることにした。
***
御月家は、森の奥深くにひっそりと建っていた。
屋敷というよりは、朽ち果てた神殿のような静けさがある。
鍵の壊れた門をくぐり、縁側から中へ入ると、埃と湿気が全身にまとわりつく。
屋内は、時間が止まっていた。
茶棚、仏壇、古いラジオ。
何もかもが“ある日のまま”置き去りにされていた。
襖の奥に、祠のような部屋があった。
畳の中央に置かれた小箱の中には――
あった。三つの封印具が。
鏡は曇り、鈴は音を失い、注連縄は乾ききっていた。
けれど、確かに“力”を感じた。
「これで……!」
そのとき、背後から声がした。
「それを持っていくのかい?」
声の主は、村役場の青年だった。
数日前、図書室で忠告してきた男。
「……どうして、ここに」
「君が来ると分かっていた。だって――封印を妨げろって言われてるから」
その目に光はなかった。
皮膚が、ところどころ水でただれている。
彼の足元から、じわりと水が広がっていた。
「もう、逃げられないよ。君も、僕も――もう“写し”になってるんだ」
――写しに、なってる?
そのときだった。
視界の端で、もう一人の自分が立っているのが見えた。
暗がりの中、同じ顔。同じ服。同じ表情。
けれど――その目だけが、異様に笑っていた。
水たまりに映っていた“あれ”が、ついに形を持ったのだ。
葵の声が脳裏に響く。
「急いで、封印を整えて! 本物の“君”が呑まれる前に――!」
俺は、鏡と鈴と注連縄を懐に抱き、御月家を飛び出した。
その背後で、“俺の写し”が小さく笑った気がした。




