第4話:井戸の奥にいるもの
翌朝。
シーツを絞れるほどの水分に包まれて目覚めた俺は、もう「夢だった」と言い訳することをやめた。
この村の“水”は、確実に俺を見ている。
見ているだけじゃない。――引き込もうとしている。
祖母に相談しても無駄だ。
それどころか、ここ数日は俺との会話を避けるようにしている。
目が合ってもすぐ逸らす。まるで、俺が“水神に選ばれた”とでも思っているような怯え方だった。
そんな中、俺の頭にはある名前が浮かんでいた。
“葵の巫女”。
郷土資料に書かれていた百年前の巫女。
そして、今俺の前に現れる“葵”という名の少女。
同じ存在であるとしか思えない。
俺はもう一度、あの古井戸のある祠へ向かうことにした。
***
山道の途中、空気が変わった。
ぬるりとした湿気。鳥も虫も鳴いていない。
立ち並ぶ木々の間を、風の代わりに水の匂いが流れている。
そして、井戸の前に立ったとき。
――蓋が、開いていた。
昨日まで固く封じられていた井戸が、誰かに開けられていた。
ロープが切られ、木蓋が片側に倒れている。
その口は真っ暗で、底はまったく見えない。
俺は覗き込んだ。
その瞬間――手が伸びてきた。
水に濡れた白い腕が、井戸の底から俺の手首を掴んだ。
冷たい。深い。逃げられない。
「――おかえりなさい」
声が、井戸の中から聞こえた。
引きずり込まれる。
腕力で振りほどこうとするが、まるで水圧のように重く、動けない。
そのとき、誰かが俺の背後から肩を掴んだ。
「目を閉じて!」
葵の声だった。
とっさに目を閉じると、ふっと手首の重みが消えた。
恐る恐る目を開けると、井戸の蓋は閉じられていた。
「……危なかったね。あと数秒遅れてたら、“水の奥”に落ちてた」
葵が祠の前に立っていた。
その表情は、初めて会ったときよりもずっと真剣だった。
「教えてくれ。お前は……“葵の巫女”なのか?」
問いに、彼女は頷いた。
「そう。私は、百年前にこの村で“水神様”を封じた巫女。
でも、完全には封じられなかった。だから、こうして今もここにいる」
「……生きてるのか? 幽霊なのか?」
「たぶん、どっちでもないよ。私は“この村の水に宿った記憶”。だから、鏡にも映らないし、影も落ちないの」
ぞくりとする説明だったが、妙に納得できた。
それくらい、この村の“水”は何かを持っている。
「水神様って……何なんだ」
その問いに、葵は一拍置いてから口を開いた。
「人の感情そのもの、かな。
“水神”っていうけど、実態はないの。人の心に潜んで、映ったものを形にするだけ」
だから、水神様は鏡のように“写す”。
欲望、憎悪、殺意、妬み、後悔――
人の中にある“最も深いもの”を映し、それを現実に浮かび上がらせる。
そして、その“写し”が本物を呑み込んだとき――人は水に還る。
百年前、水神が暴走したとき、村では何人もが“自分自身に溺れて”死んだという。
「それを止めるために、私は“井戸”に水神様を封じた。でもね、封印は時間で薄れる」
「……じゃあ、また暴走するのか?」
「うん。それが“今”だよ。」
村で起きている連続溺死。
川で、風呂場で、水たまりで――“水”に映った“自分ではない何か”が、本物を引きずり込もうとしている。
葵の瞳が、俺をじっと見つめた。
「だからお願い。封印を完成させて。」
「俺に……できるのか?」
「できる。“選ばれた”から、この村に呼ばれたんだよ、翔真くん」
選ばれた。
思い当たることなんて何もない。でも――
あの夜、風呂場の鏡に“自分ではない自分”を見たときから、俺の中で何かが壊れはじめている気がしていた。
葵は言った。
「“写し”が完全に本物と入れ替わるまで、あと数日。
それまでに封印を整えないと、村が水に呑まれる」
そう言った彼女の声が、どこか遠くなっていく。
目の前がにじんで、世界がぐらりと傾いた。
足元――水たまりが、俺の影を引っ張っていた。
気づくと、周囲のすべての“水”が震えていた。
風もないのに、井戸も、草も、祠の柱さえも濡れ始めていた。
“水神”が目を覚まそうとしている。
まだ、間に合うのか――?




