第3話:水に呼ばれる声
水の中に、自分ではない“何か”がいた。
それがはっきりとわかったのは、風呂場に“葵”が現れた夜のことだった。
彼女は風呂場の鏡に映らなかった。
けれど、濡れた足跡はちゃんと残っていた。
それを祖母に話すと、返ってきたのは怒鳴り声だった。
「――水の話は、二度と口に出すな!」
滅多に感情を表に出さない祖母が、鬼のような形相で怒鳴るのを、初めて見た。
そしてぽつりと、こんなことを言った。
「“あの子”のことを、掘り返すんじゃないよ……」
“あの子”? 誰のことだ?
もしかして――葵のことなのか?
聞き返す前に、祖母は部屋に閉じこもってしまった。
重い空気が部屋の隅にまで沈み込み、風鈴の音だけがやけに甲高く響いた。
***
翌日、俺は村の図書室に足を運んだ。
寒水村の郷土資料が眠る小さな一室。
埃だらけの木棚を片っ端から調べていくと、ある古文書が目に留まった。
《水神様のこと》
《百年前、封じられし祟り神》
そこにはこう記されていた。
――その神、水の神にして人の心を映す鏡なり。
――人の欲、憎しみ、嘘、嫉妬……そのすべてを水面に映し、形を変えて人を呑む。
さらに、こんな記述も。
《水神封印ノ儀 大正十一年 葵ノ巫女、命ヲ賭シ神ヲ鎮ム》
“葵”の名前があった。
巫女――まさか、あの少女が……?
古文書は、途中でページが破れていた。
ちょうど「封印の方法」に触れようとする部分が、ナイフで切り取られたかのように。
そのとき、背後で声がした。
「その本、触らない方がいいよ」
振り向くと、見知らぬ青年が立っていた。
黒い作業着に帽子。村役場の腕章を巻いている。
「君、外から来た子だよね? 日向くんっていう?」
「……そうですけど」
「忠告しておくよ。村の“水の神様”には、深入りしないほうがいい」
青年の目は真剣だった。
だけど、その目の奥に“何かを諦めた人間”の色が見えた。
「昔、この村には“巫女”がいてね。水神様を鎮める儀式をしていたんだ」
「……“葵”って、巫女の名前ですか?」
「――どこで、その名を」
青年が目を見開いた。
だが、答えはくれなかった。ただこう言った。
「……封印はね、“完全”じゃなかったんだよ」
そう言って立ち去る彼の背中に、聞こえるか聞こえないかの声が乗った。
「……また、水が……目を覚まそうとしてる」
***
その夜、俺は夢を見た。
ざぶん、ざぶん、と波音が響く。
水の中にいるのか、空にいるのか、自分でもわからない不思議な感覚。
目の前に、井戸がある。
封印されていたはずの蓋が外れ、ぽっかりと口を開けている。
そして、そこから這い出てきたのは――
俺自身だった。
水に濡れた俺が、笑っている。
でも、その目は空っぽだった。
感情のない何かが、“俺”の形を借りてそこにいた。
「水はね、映すんだよ。人の奥底を」
声が響いた。
いつかの少女、“葵”の声だった。
「でもね……映ったそれが、元の持ち主に戻ろうとしたら、どうなると思う?」
俺は答えられなかった。
代わりに、笑う“俺”が一歩、こちらへ踏み出してきた。
その瞬間――目が覚めた。
体中が汗でびしょびしょだった。
いや、違う。これは――水だ。
シーツの上に、水のしずくが点々と落ちていた。
天井から……? 雨漏りか?
いや――部屋のどこにも、水がこぼれた形跡はない。
じゃあこの水は、いったいどこから?
そのとき、部屋の隅。
小さな水たまりが、勝手に“ぽちゃり”と揺れた。
まるで生きているように、俺を見上げていた。
そう。
水が、俺を見ている。
――呼ばれている。
夢ではなかった。
いや、夢と現実の境目が、もう消えかけているのかもしれない。
この村の“水”は、ただの自然現象なんかじゃない。
水神様は、目を覚まそうとしている。
そしてきっと、“俺”を必要としている。
俺が、この村に来た理由。
“たまたま”なんかじゃ、なかったんだ。




