異世界ゼミ[5]
「では、まず1ページ目……」
ブブブブブ ブブブ ブブブブブ
二条学長の声を遮るように振動音が響く。おそらく誰かのスマートフォンだろうけど、こういうとき――講義や会議の前は機内モードにするか電源を切っておくのが常識だろう。意識の低い生徒がこの場にいることにげんなりする。これから一緒に研究をしていく相手だというのに。
「あ、すみません。わたしですね」
そう言って、スラックスの尻ポケットからスマホを取り出す二条学長。それはまだ震え続けている。
「いつ呼び出されるか分からないので電源が切れないんです。少し待っていていただけますか?」
そういう事情なら仕方ない。そもそも学長という立場なのだから当たり前だろう。一瞬学生かと疑ってしまって申し訳なく思うが、杞憂でよかったと思う。
ゆっくり教室を出ていく学長を見送って、手元の資料に目を落とす。
ぱらりぱらりとページをめくると文字量の多さに驚いた。しかし、しっかり作られた資料だということに喜びも湧き上がる。俄然ゼミでの活動が楽しみに思えてきた。
異世界ゼミという名称だけではよく分からないが、そもそも未来史ゼミも名称だけでは内容を推測することは難しい。二条学長が新しく創設したゼミなのだから、きっと研究の幅も多岐に渡ることだろう。
自然と口元が緩む。目標のゼミに入ることは叶わなかったけど、ここでなら僕の求めるものが見つかるかもしれない。
「なにニヤニヤしてんの?」
「いや……楽しみだなと思って」
夏澄くんからの問いかけにも、素直な気持ちで応えることができた。
「わっかる~! ほんとに夢みたいだよな」
「ああ。どんな研究ができるのかわくわくする」
確かに夢みたいだ。悪夢のような結果通知から一転、どんどん期待が膨らんでいく。
「やっぱさ、俺的に異世界ってのは」
「おまたせしました」
音もなくドアを開けた二条学長が教室に入ってくる。夏澄くんがなにか言いかけていたので、またあとで聞いてみようと思う。
「すみません。緊急の呼び出しを受けてしまって……急ぎ学長室に戻らなければならなくなりました。まだ十分に説明もできていないというのに……」
「そんな、仕方ないですよ」
九条さんが声をかける。仕方ないとはいえ、残念ではある。
「ありがとう、九条さん。また日を改めてお話させてください。とはいっても明日もミーティングを組ませていただいていますので、そこで」
明日?
冊子をめくって、四月のスケジュールのページを確認する。確かに、明日も二限のコマにミーティングの文字が並んでいた。
「織部くんには本日スケジュールをお渡ししたので、欠席される場合はメールをお願いします。私のアドレスは最後のページにありますので。では、このあとの時間は四月末に行われる〈二年次ゼミナール年間活動方針研究発表会〉に向けて皆さんでお話をしていただけると嬉しいです。進捗は明日お聞きしますね」
ビジネスバッグを手に取り、二条学長は扉に手をかける。
「駆け足の説明ですみません。夏澄くん・スミレくん・九条くんはすでに資料を読んでいると思いますので、織部くんのフォローをお願いします。とはいえ織部くんは優秀ですので余計なお世話かもしれませんが。では」
つらつらと流れるように言葉を述べ、最後にひらりと手をふって、二条学長が教室から出ていった。さすがに僕を含めて四人とも呆気にとられていたけど、そんな場合ではないと意識を取り戻す。気になる言葉はいくつかあったけれど、おそらく一番の問題は〈二年次ゼミナール年間活動方針研究発表会〉だ。
開いたままになっていた四月のスケジュールを確認する。月末、二十九日・昭和の日に〈二年次ゼミナール年間活動方針研究発表会〉という文字列を見つけた。
年間活動方針研究発表会。文字通りの意味だとすれば、一年間の活動方針及び研究の発表会だと捉えるのが正解だろう。であれば、問題は細分化される。個人の活動方針か、ゼミ全体での活動方針か、もしくは両方か。明日までにこの解答を用意すればいい。
道筋が見えたところで、提案をしようとする。幸い三人も事態を飲み込めたようだ。
「ところで夏澄くん、さっき言いかけたのは」
僕が問いかける前に、夏澄くんが先ほどの勢いそのままに言葉を紡ぎ始める。
「ところで皆は異世界転生派? 異世界転移派? 俺としてはやっぱ強くてニューゲームがいいから、転生のほうが好ましいんだけどエクストラスキル持ちで転移もしくは召喚ってのも夢があるよな! 今のまま強くなるのも超カッケーし!」
「転生先にもよるけど、その世界の世界観に見合った人物として過ごすほうが幸せなんじゃないの? だからアタシは断然転生派。やっぱ破滅の未来を回避して領地経営で周りをギャフンと言わせてやるわよ。商学部として腕が鳴るわ」
「あー、そっか……世界観ね。なっるほど! でもジャージで世界を股にかけ、俺の功績でジャージが流行るみたいなのもロマンじゃないかな?」
「ジャージの勇者とか最悪なんだけど」
「うわー、スミレちゃんきついなぁ! あ、九条さんはどう? 転生? 転移?」
「私はどちらでもなくて、招待……というんでしょうか。ある日、手紙が届いて魔法学校に……みたいなかたちで。ハイ・ファンタジーやロー・ファンタジーとの境界が難しいところですが、現実の延長線上に異世界があるという考えが理想です」
「誰もが一度は夢見るあれ! わかる~。それもまた異世界だよな!」
「現実世界でも空想やファンタジーのエッセンスが加わって世界が切り離されていれば、それは一種の異世界ってこと……ふぅん、いいじゃん。なんか九条さんっぽい」
「はい! わぁ、こんなふうに自分の好きなものをお話するのはじめてだったのでドキドキしました……!」
「じゃ、織部くんは?」
突然目の前で繰り広げられたわけの分からない討論に、僕はただ唖然としていた。異世界? 転生? 転移? それはつまり、いわゆる天国や地獄のことなのか。それとも異世界なら救われます的なあやしい宗教の話か? 僕は金髪が嫌味なく似合う男からの問いかけに対して、えと、あー……といった無意味な言葉にならない音を返すことしかできなかった。なにか、なにか言わないと。その一心で、パニック気味な脳をフル回転させて必死に言葉を絞り出した。
「……異世界って、なに?」
――シン、と教室内が静まり返る。
僕は質問を間違えてしまったのかもしれない。口の中が急速に乾いていくのを感じる。
でも、だってそうだろ。こう聞くしかないじゃないか。話を聞く限り異世界というものの認識が僕と三人とで大きくズレている。僕の思っていた『異世界は世界各国の異文化なり文化交流を研究する』なのに対して、三人の思う異世界はまるで――
「異世界ってのは、ファンタジーや空想を描いた作品における世界設定だよ。現代とは全く違う別の世界! 中世ヨーロッパ風だったり、近未来だったり。それに魔法が使えたりな! そんで、その世界について研究するのが異世界ゼミ」
「本来、そういった世界を描くお話はハイ・ファンタジーやロー・ファンタジーとして定義されていたのですが、近年ロー・ファンタジーに類するかたちで生まれた作品のジャンルです」
「九条さん、ナイス補足! 最近だとなっちゃおう系とか聞いたことない? 個人サイト発の話もあるけど、書店では特集されて結構並んでるし、アニメ化されたりもしてるしさ! 俺のオススメは……」
「夏澄のオススメは今聞いてない。つまり、そういうこと。このゼミでの研究対象は異世界(、、、)。だから転生や転移の話をしてたの。わかった?」
わかった…? わかるはずがない。僕の思考はショート寸前だ。
つまり三人の説明はこういうことだ。これから僕らは三年かけて御伽噺やファンタジーの世界について研究する。さっきの会話はそれに付随する考え方として転生や転移というものについて話し合っていたのだ、と。
なんだそれ。
そんなものを研究していったい何になるんだ?
膨らんでいた期待がガラガラと音を立てて崩れていく。
……僕は異世界なんていうものを研究するためにこの大学に入ったのか?
怒りとショックで目の奥がチカチカと点滅し、視界が一瞬白く染まる。
ああ、だめだ。だめだ。このかんじはだめだ。よくない。こんなんじゃ僕は――




