異世界ゼミ[3]
十時四十分。五号館。顔合わせの場所に指定された教室の前。
引き戸タイプの扉の右端、縦向きに取り付けられたバーに手をかけようとしてためらう。後ろに一歩、いや……二歩。扉から離れて大きく深呼吸した。
扉の先にいる学生とこれから三年間を過ごすわけだ。期日内に申請すれば他のゼミに変更可能とはいえ、その選択肢をとる学生はほぼいない。今の時点で自分の選択に責任を持てない人間が、将来的に責任のある立場になれるだろうかという考えなのだろう。かくいう僕もそう思っているわけだけど。
――いつか、為すべきことのために。
通学時に折り合いをつけた気持ちをもう一度思い出す。うじうじするな。はぁっと勢いよく息を吐き出してから、もう一度扉に近づいてゆっくりとバーに手をかけた。
ガラガラガラガラ
「おはようございます」
まず教室中に響くように、それでいてあまり大きくない声で挨拶をする。後ろ手にドアを閉めながら教室内をぐるりと見回した。三人掛けの長机を使ってロの字型に座席が組まれている。教室にいるのは三名だった。
教室の奥、窓際の席に座ってぺこりと会釈をしてくれたのは艶やかな黒髪を編み込んで後ろでまとめている女の子。薄紫のカーディガンと白いワンピースがよく似合う大和撫子だ。彼女の名前は同じ学部なので知っている。文学部の九条露さん。といっても専攻は違うので、名前くらいしか知らない。
そして、手前の席に座っているのはスマートフォンとにらめっこしているギャル。一瞬……それも横顔しか見ていないがギャルだった。ギャルといっても絵に描いたようなガングロモンスターではなく、綺麗めなギャルだと思う……。けど、明るく染めた髪をふわふわに巻いて肩を出しているのは紛れもなくギャルだろう。ギャルという認識で間違ってないはずだ……。ギャルだよな、うん……。
僕がギャルに狼狽えたのも束の間、九条さんとギャルの席を繋ぐように組まれた席に座る金髪の青年がひらひらと手を振りながら話しかけてきた。
「男子! よかった~! このままハーレムなのかと思って内心ドキドキしてたんだよ! あ、ここ座れば?」
お言葉に甘えてひとつ席を空けた隣に座る。チラリと横目で見ると彼は大きく膨らんだリュックを床に置いていた。何が入っているんだろうと気にはなったが、関係ないことなので思考の端に追いやる。僕はトートバッグから筆記用具とノートを取り出して、自分の体と背もたれの間にバッグを置くことにした。
左前方、視界の端に映るギャルはやっぱりギャルだった。でも、しかめっ面でスマホを見ているからこっちが構えてしまっただけで、顔立ちはどちらかといえばかわいらしい人な気がした。今現在の表情があまりにも険しいのでわかり辛いが。
「時間的にこの四人で決まりかな? わくわくすんね!」
楽し気に話す金髪の男――相当整った顔立ちをしている彼に微笑みかえす。どんな遺伝子配列になればその顔になるんだろう。
「そうなのかな。僕もなにも知らなくてさ……」
「えっ」
綺麗な顔にやや驚いた表情が浮かぶ。……なにか変なことを言っただろうか。不思議に思って聞き返そうとしたとき、教室の扉が開く。ガラリ。
「ああ、みなさんお揃いですね」
聞いたことのある声に振り返ると、そこには
「が、学長……?」
この大学の学長――二条凪教授がいた。
ゆるくパーマのかかった黒髪、スッとした目鼻立ちに細見のリムの眼鏡が似合う。濃灰のスーツも相まって大変見目が良い。どうみても三十代も半ばにしか見えない年齢不詳の人物……それが学長である二条凪教授だ。文学部西洋文学科に所属していたと記憶している。
どうして彼がここに? もしかして新設のゼミだから様子を見に来たのかとも思ったけれど、わざわざそんなことをするだろうか? 僕の訝し気な視線に気づいたのか、二条学長がにこりと微笑む。
「おはようございます、織部くん。よかった……来てくれたんですね」
それに、と続ける。
「夏澄くん、田中くん、九条くん……。うん、みなさん揃ってますね。では顔合わせを始めます。ようこそ! 二条・異世界ゼミへ!」
二 条 学 長 の ゼ ミ ! ?
二条学長の言葉に驚く。信じられないが、このゼミの担当教員は二条学長ということになる。あっけにとられ固まる僕の隣を通り過ぎた学長が、向かいの机に足を運ぶ。ギギギギと首をまわして再びその姿を捉えると、彼は皮製のビジネスバッグを机に横たえたところだった。
そこで更なる疑問が浮かぶ。どうして僕以外の学生は平然としているんだ? 学長だぞ?
隣に座る金髪の彼――おそらく夏澄くんか田中くん。田中くんっぽい。田中くん(暫定)は瞳をキラキラさせて二条学長を見つめているし、スマホと友達だったギャル――夏澄さん(暫定)はスマホを机に伏せてなんともいえないしかめっ面をしている。春の陽光を背にした九条さんはにこにこと微笑んでいるし……まさか、僕だけ知らされてない?
このパターンは想定外だ。この教室にいる学生は、この時間からみんなよーいドンでスタートをきるものだとばかり思っていた。僕だけ担当教員を知らないということは、それだけで出遅れている……それにきっとこれだけじゃないと直感が告げている。すでに担当教員を知っているということは、つまりゼミでの研究内容も知っているということではないだろうか。
背中にじとりと嫌な汗が滲むのを感じる。梅乃杜大学でのゼミは数多のカリキュラムのなかでも特に重要視されている。だというのに、出遅れてしまった。太ももの上に置いた手のひらをぎゅっと握り込む。どうにか遅れを取り戻さないと……。
「……べくん…………おりべくん!」
名前を呼ばれて顔をあげる。隣の田中くん(暫定)が口元に手を添えて話しかけてくれていた。想定外の事態に軽くパニック状態だった頭が冷静さを取り戻していく。
「二条学長が呼んでるよー」
「あ、ああ。ありがとう……。学長、すみません。少し驚いてしまって」
慌てて学長に向き直ると、彼はA4サイズの封筒を手にしていた。
「いえ、いいんですよ。仕方ないことかもしれません。こちらがゼミの申請書です。中には申請後に渡す手筈だったゼミの概要を記した資料も同封しています。織部くんからの申請がなかったのでてっきり振られてしまったのかと思いましたよ」
椅子から立ち上がり、封筒を受け取りに行く。しかし、申請書があったことも知らなかったので訊ねることにした。
「申し訳ないんですが申請書があったことを知らなくて……。どこかに受取に行かなければならなかったものでしょうか?」
「おや……ゼミの通知書に同封した案内と共に入っていませんでしたか?」
記憶をたどってみるが、僕宛に届いた封筒にはゼミの選考結果の用紙と新設ゼミの御案内の二種類しか入っていなかった。封を開けた日は悔しいやら悲しいやらで荒れていたが、それはしっかり覚えている。
「…………入っていませんでしたね……」
「それは失礼しました。こちらのミスです。申し訳ありませんでした。では改めて、こちらの申請書に記入していただけますか?」
そう言って封筒に手を差し込み、一枚の用紙を取り出す。真っ白の封筒の上にそれを重ねて差し出された一式を受け取った。
学籍番号・名前・ゼミの名前など記入欄は少ない。ざっと目をとしていると横からボールペンが割り込んできた。
「これ使えば?」
ギャルもとい夏澄さん(暫定)から差し出されたボールペンとその主を視線で往復する。
「ん!」
ずいっとさらに差し出されたボールペンを断る理由もないので、受け取ることにした。
「ありがとう。たすかるよ」
「べつに。早く書いちゃいなよ」
「そうする」
やたらと書き心地のいいボールペンを手に書類を埋めていく。九割ほど書き込んで、僕の手は止まった。
申請するゼミの名前である。
梅乃杜大学のゼミ名は【担当教員名・研究内容】の順で記されるので、二条・○○ゼミとなるのだが……。
「イセカイゼミ……?」
ぽつりとつぶやいた。確か、イセカイゼミと言っていた気がする……しかし、漢字での表記が分からない。ごく狭い範囲での地理的な伊勢海? それとも世界の住居的な居世界? はたまた世界の民族衣装について研究する衣世界だろうか。二条学長の担当学科は西洋文学なのでイタリアに注視した伊世界かもしれない。頭の中でいくつか候補を絞ってから、こちらに優しい視線を向けている学長に小声で問いかけた。小声の理由は他の三名はもう知っていることだろうし、少し恥ずかしかったからだ。
「イセカイゼミの漢字表記を伺いたいんですが……」
「異世界……異なる世界で異世界ですよ」
「異世界。なるほど……ありがとうございます」
異世界。さしずめ世界各国の異文化なり文化交流を研究するといったところだろうか。だとすれば僕は僕なりの視点で研究できるものがありそうだ。それになにより二条学長のもとで学べるというのは――正直、ラッキーだ。
「お手数おかけしてすみませんでした。こちら申請書です」
記入を終えた申請書を二条学長に手渡した。受け取った申請書を上から指で辿って確認する学長の横顔をじっと見る。特に不備はないはず、だ。
「確かに。受け取りました。とはいっても、教務課に提出してはじめて正式な受理ではありますが。ふふ、このあと教務課に向かう用事もありますのでその際に届けておきますね」
間接的に学長をパシリにしてしまった気がしたけど、ここはお言葉に甘えさせていただく。そしてギャルこと夏澄さん(暫定)にボールペンを返して席に戻る。




