おとなりの異世界[6]
僕は、好きだったんだ。
好きだから、憧れた。
好きだから、学んだ。
好きだから、追いかけた。
好きだから、悲しかった。
好きだから、逃げた。
だって、努力しても悲しい人生なんて虚しすぎる。
公任は才能溢れる人だった。そんな彼でも世を儚んだ。そんな歌が遺った。
僕の憧れが辿りつけなかった場所に行くためには、僕は彼以上の努力を捧げないといけない。憧れを憧れとするには憧れた存在を越えなければならない。自分の才の行く先が悲しいものであってはならない。彼に憧れた僕は成功しなくてはならない。僕が成功しなければ憧れに泥を塗ることになる……なんて、ただ悲しかったという気持ちを隠すために、理由を並べたてた。
そんなこと、ないのに。
彼の人生を勝手に評価して、勝手に決めつけて、勝手に彼の人生から逃げた。
彼の生涯は彼のもので……僕は彼が遺したものに触れたとき生まれて初めて心を動かされたのに。ああ、生まれて初めて……そう、生まれてはじめて。
その気持ちに蓋をしてガムシャラにうわべだけ取り繕って、僕はいつか何かを為したいから努力する……なんて言い訳をして過ごした日々。その空虚さに、思わず渇いた笑いが出る。
なんの目的もないまま、ああはなりたくない、ぼくは違うんだなんて自分に言い聞かせて逃げた。憧れを絶望にすり替えて、夢を嘘で隠して、他者を否定して、一人でいいと一人がいいをあべこべにした。
ただ一つの好きから逃げた先にあったのは、嘘でうわべだけを固めたボロボロの僕。
ふと、思う。
僕が見失った気持ちをずっと信じていた目の前の彼女はなんて美しいんだろう、と。
思春期の教室で本を抱えていた彼女と、思春期の教室で机に向かっていた僕。似ていると少しでも思った自分が恥ずかしい。彼女は自分にとって大事なものを失くさず、ずっと大切に抱えていたんだ。
好きを反面教師にして、空っぽの目標に向かおうとした僕とは違う。
「好きを信じるのって難しいね」
「え……?」
「僕、好きだった」
口にして思う。好きだったんだ――好きと口にするのはいつぶりだろう。
「藤原公任が遺したものが好きだった。だから、古典に興味をもったんだ」
小学一年生の時にねだって買ってもらった百人一首の解説書。小学三年生の時にお小遣いを貯めて買った古文のワーク。漢詩に興味を持って、一人で漢文の勉強を始めた。中学生になってからは古文の授業が一番好きだった。つっかえることなく読めるようになってからは古典文学を読み漁った。ひとつ読み終わるたびに色々な人の解説を読んで、解釈の違いにわくわくした。これも全て勉強の一環だと思っていた……けど、僕は好きだったんだな。
「ちゃんと古典文学好きだよ」
好きじゃないと、わくわくしない。
春の匂いに誰かを想い、夏の日差しに心躍らせ、秋の風の涙して、冬の寂しさに口を閉ざす。四季折々、またはその概念を飛び越えて、だれかの心を写したことばたち。
そのひとつひとつに触れるたび、一人きりのぼくは心を躍らせていた。
ぽろり。九条さんの透き通る瞳から雫がこぼれる。
「えっ!? なんで九条さんが泣くの?」
「え、わ、あれ……」
ぽろぽろ溢れる涙を白い指で押さえながら、九条さんはこてんと首を傾ける。
「よかった、とおもって」
スン、と控えめに鼻を鳴らす。
「……だって、好きな気持ちに嘘つくのは自分を傷つけることと同じですから」
とびきり優しいけど、とびきり寂しい声。
もしかして、九条さんも嘘をついたことがあるんだろうか。その時、彼女の涙を拭ってくれる人はいたのだろうか。
僕は九条さんの両手を彼女の目元からそっと外す。そして、自分の親指でそっと九条さんの目じりに触れた。そのまま優しく雫をすくう。
「……擦っちゃだめだよ」
「ふふ、ありがとうございます」
「ううん、こちらこそありがとう」
「?」
僕の代わりに泣いてくれて、ありがとう。
そう言いたかったけど……照れ臭かったので、もう一度「ありがとう」と伝えた。彼女はそれ以上なにかを聞くことはなかった。けど、急に頬を染めて「ちょ、ちょっと待っててくださいね」と言って立ち上がる。ぱたぱたと彼女が向かった先はおそらく洗面所だ。微かな水音と物音が聞こえて、急に僕の顔も熱くなった。
――いや、なにをしているんだ僕は……っ!!!
女の子の部屋で意固地になって、勝手に感傷に浸った挙句泣かせて……というかそもそもなんで女の子の部屋にいるんだ……!!! あああっと手で顔を覆う。額に触れた指先がほんのり湿っていて、僕はさらにいたたまれない気持ちになった。
しばらくして九条さんが小さなタオルを手に戻ってきた。「おかえり」「ただいま」なんてやりとりをして、いや『おかえり』『ただいま』ってなに? と冷静になる。
沈黙に耐えきれず、草の味に助けを求めようとカップに手を伸ばしたとき、体育座りで小さくなっていた九条さんがつぶやく。
「好きと好きの掛け算がぴったりハマるといいですね」
「掛け算?」
よくわからなかったので聞き返す。なにとなにをかけるんだ?
「古典文学×異世界、ですよ。二条学長も仰っていたじゃないですか」
自分のなかで好きと異世界が繋がっていなかったので面食らう。なんなら古典文学が好きと自覚したのもついさっきなので、だいぶ想像し辛かった。
「ははは……異世界についてはまだ勉強中だから好きかどうかは分からないんだけど」
正直まだまだ未知数だ。だけど。
「うん、でも……そうだね。きっと異世界のことも好きになったほうがいい」
だって、そのほうがきっと楽しい。
九条さんをはじめとしたゼミのメンバーがそれを証明しているんだから。
「あ、おかわりもありますよ」
お茶をいただこうと行き場をなくしていた僕の手が目ざとく見つけられた。
観念して、だいぶ冷めてしまった薬草茶を一気に飲み干す。
不思議と九条さんお手製の薬草茶はさっきよりもおいしく感じた。




