おとなりの異世界[5]
「え……?」
「だって……好きですよね……?」
九条さんの確信を持っているような問いかけにドキリとする。
僕は日本文学科で主に古典文学について学んでいるけど“好き”だなんて一言も口にしたことはなかった。
「昨年、水曜四限の文学論2を選択していたんです。講義が終わってからどうしても気になることがあったので立花教授の研究室に伺って……そちらで織部くんの課題を拝見しました」
「ど、どういうこと!?」
初耳だった。思わず声が大きくなる。
「課題と上手く向き合えなくて悩んでいたんです。そうしたら立花教授が『本当は見せちゃだめなんだけど、内緒ね。日本文学科の織部くんのレポート読んでみるといいよ』って」
僕は頭を抱える。その姿を見かねてか、九条さんは慌てて言葉を付け足した。
「お断りしようとしたんですけど、私も切羽詰まっていて……!」
「……どのレポート?」
文学論2は大量にレポートを書いた記憶がある。ものによっては自信があるものもあるし、時効だなと思った。
「〈初めて触れた『作品』〉です!! エッセイの課題の!!」
「はぁぁぁ~~~~~…………」
よりによってそれかぁーーー……。
文字通り、人生のなかで初めて触れた“作品”をテーマに書いたエッセイ。『初めて』『触れた』『作品』そのどれもに幅があるので、人の数だけ可能性のある難しいテーマだった。
僕は、その課題だけ提出してから読み直していない。
「織部くんのレポートは瑞々しい言葉で百人一首に触れた日のことが綴ってありました。エッセイの課題だったからというのもあったかもしれませんが、気取らない無垢な文章で……読んだ時に、なんて純粋な人なんだろうって思ったんです。それに題材選びも印象的で! 私の周りの人は小説だったり、絵本だったり……初めて幼少期に触れた本を挙げていました。かくいう私も小説でしたけど。でも、織部くんはひとつの短歌……でしたよね」
九条さんの感想にひぇと心の中で叫ぶ。気恥ずかしさを押し殺して問いかけに答える。
「藤原公任の句だね。百人一首にも選ばれた有名な句だよ」
母に読み聞かせしてもらった絵本でも、祖父に誕生日プレゼントでもらった小説でも、クラスのみんなが夢中になっていた児童書でもない。
たった一枚。
73mm×52mmの札。
それが文字通り、初めて触れた作品だった。
「その頃からきっと古典が好きなんですね」
「……べつに好きなわけではないよ」
驚くほど自分の声は冷えていた。
「だって……!」
「たまたま初めて言葉を意識した作品が古典だっただけだ。九条さんにとって本の世界が初めて触れた好きなものなのかもしれないけど、みんながそうなわけじゃない。そうやって勝手に好きなんて枠組に当てはめられるのはいい気がしないな」
否定しているのに食い下がってくる九条さんに苛々して強い言葉を使ってしまう。ああ、くそ、なんだって僕はいつもこんな物言いになってしまうんだ。
「じゃあ……」
一息置いて九条さんは口を開く。
「じゃあ、なんでわざわざ日本文学科を選んだんですか?」
「それは……ッ!!」
それは梅乃杜大学に入って未来史ゼミのメンバーになりたかったから――日本文学科が一番最適だと思ったから。あれ、と思う。
──なんで日本文学科が一番最適だと思ったんだ?
それは、それは……。
僕の胸中での動揺はお構いなしに、九条さんは優しく言葉を述べる。
「純粋な言葉を紡げるのは、純粋に言葉を好きだから。そのきっかけをくれたものを好きじゃないなんてこと、ないと思います」
「……」
「織部くんは、古典文学が好きなんですよ。そのなかでも藤原公任さんは特別です。どうして見えないフリを……嘘をつくんですか……?」
「……っ」
震える声の問いかけに、頭が殴られたような衝撃を受ける。
――僕は、嘘をついてる……?
あの日、初めて取った札。
たまたま目の前にあったから、下の句が聞こえた瞬間に手が動いた。
嬉しくて父さんと母さんのことも忘れて手に持ったままじっと見つめて、ゆっくり声にだした。
なんて意味なのかもわからなかったけど、ひどく胸がどきどきしたことは覚えてる。
……僕は、好きだったんだ。




