おとなりの異世界[4]
不法侵入者、住居侵入罪、プライバシーの侵害、懲役三年以下または十万円以下の罰金、裁判、起訴、そもそも女性の部屋だしのぞきやらのわいせつ罪も追加されて僕の人生はここで終わり――だらだら流れる冷や汗と頭の中を駆け巡る最悪の想定は疲れた脳にとってすでにキャパオーバー。
めちゃくちゃ混乱していた。
九条さんも驚きの表情を浮かべていた。けど、すぐにいつもの優しい笑みを浮かべる彼女に戻る。
「合宿、終わったんですね」
「あ、うん」
え?
「いやあのもっと驚くとか叫ぶとか、いっそ通報されても仕方ないんだけど……」
んんー、九条さんは唸る。そして、でも……と前置きして言葉を続けた。
「織部くんに会いたいなって思っていたので、驚きませんでした」
は?
「……あ、せっかくですし、少しお話しませんか?」
……は?
◇
九条さんに連れられてダイニングに向かう。僕の家をまるっと反転させたような部屋のつくりは、この場所が隣の住居であることをはっきりと表していた。
猫足の白いローテーブルに、ラベンダー色のふんわりとしたラグ。花柄のクッション。どこを見ても女の子の気配を感じ、なんだか落ち着かなくてそわそわする。視界の端で九条さんはお茶の準備をしてくれている。いや、なんでこんなことになったんだ……?
「お待たせしました」
コトリ、と目の前のおかれたのはガラス製のティーカップ。ソーサーもガラス製だ。
「特製の薬草茶です。疲れがとれますよ」
内側が少し湯気で曇っている茶器と揃いのティーポットを傾けながら、九条さんがお茶の説明をしてくれる。曰く、キク科シカギク属の1種の耐寒性一年草を乾燥させたものをベースにスコッチ種のスペアミント、セイヨウニワトコをすこし――ニワトコってなんだっけ。つい最近聞いた気が……ああ、杖の材料になる木だ。
「仕上げはこれです。ペパーミントシロップをティースプーン一杯。月夜にぴったりな……とっておきの魔法です」
薄緑のリボンが巻かれた瓶を開けてティースプーンを差し込む。ひとさじ掬って、そのまま僕の前に置かれたティーカップに沈めた。
「どうぞ」
勧められて一口飲む。
草の味がした。
「……会心の出来です」
僕と同じようにお茶を飲んだ九条さんの言葉から察するに良い出来らしい。なるほど……。
「お隣さんだったんだね。気づかなかった」
話題を変えようと気になっていたことを聞く。当たり障りのない、それでいて今聞けること。
「引っ越してきたのは三日前……顔合わせの日なんです。昨日は荷物が追加で届いたので荷ほどきをしなければいけなくて。本当は合宿に参加したかったんですけど」
「え……昨日だけで荷物を全部片づけたの? あの本も?」
「はい! でも持って来すぎてしまって……。本棚にはいりきらなかったんです」
はずかしそうに頬をかく九条さん。彼女の声はとても優しくて、本が愛しくてたまらないのだろうということが伝わってきた。それにしても持ってきすぎだろうと思う。ざっと見ただけでも何百冊かはありそうだった。僕は胸中に沸いた疑問を投げる。
「……どうして、九条さんはそんなに本が好きなの?」
……どうして、そんなに本が好きなのに異世界ゼミなの?
さすがにもう一つの疑問は胸にしまいこむ。けど、後者の考えに至るのは当たり前だろう。文学を専門に扱うゼミは他にもあるのだ。
九条さんは手に持ったカップをソーサーに戻した。カチャリと静かな音が響く。
「本の世界が、私の現実だったから……でしょうか」
現……実……? 確かに本を読んで過ごす時間は現実だ。
でも九条さんの言い方はなんだか違うことを表現しているように思えた。
「続けてもいいですか……?」
きっと合点のいかない微妙な顔をしてしまっていたのだろう。自分で聞いておきながら、九条さんに問い返されてしまい、慌てて返事をする。
「あ、ごめん。どうぞ」
ふふっ、とはにかんで「私は……」と彼女は語り始めた。
「小さなころからずっと本を読んで過ごしていました。ずっと……本当にずっとです。学校でも、家でも、私にとって本の世界が現実よりも現実でした。ページをめくるたびに世界が広がっていく。ある世界では魔法を使い、ある世界では怪盗に……かと思えば、探偵に。ユニコーンやペガサス、エルフにドワーフ。ゴブリンと友達になるときだってありました。未知の食べ物を味わって、知らない匂いを嗅いで、目を閉じればその世界に私はいました」
黙って話を聞く僕に、九条さんは困ったように眉毛を下げた。
「ちゃんと、クラスで話をする人はいましたよ……? でも、空想やファンタジーは子供っぽいもの。そんな当たり前が苦しかった。だって、私は今もその世界を歩いているのに……って。みんなが恋をしている頃、私はドラゴンと対話していました。『あなたはどうしてひとりぼっちなの?』って」
ああ……ドラゴンへの問いかけは、彼女自身への問いかけだったのだろうか。教室のなかで一人黙々と本を読む彼女の姿が、一人で勉強していた僕に重なる。
「あの本棚には私のもうひとつの世界を収めているんです。ひとつひとつが私の日記のようなものです。宝物です」
九条さんは部屋の奥に視線をやって、優しく微笑む。
そして僕に向き直り、桜色の唇をゆっくり開いた。
「……ずっと一人で旅をしていました。でも、やっぱり寂しくて。強がっても寂しくて。私の冒険を聞いてほしい。考えた魔法を試させてほしい。一緒に、歩いてほしい……って。だからとっても嬉しかったんです! 異世界ゼミに入ることができて! 好きなものを好きと言える場所に出会えて本当に嬉しかったんです!」
――好きなものを好きと言える場所。
その言葉を聞いて、僕はストンと胸のつかえがひとつ落ちていくのを感じた。
どうして、夏澄くんはあんなにも楽しそうに異世界の話をするのか。
どうして、スミレさんはあんなにも強く在れるのか。
どうして、九条さんは優しく微笑むのか。
きっとみんな自分の好きなものをずっと大切にして、そしてやっとこの場所に出会えたんだ。
――だとすれば、僕は?
――僕だけ……からっぽじゃないか。
ザー……ザー…………。
シャワーの水が流れていくような音がする。ぐるぐると小さな渦をまいて排水溝に流れていく。僕のこれまでが水に溶けて流されていくような、そんな感覚。
幻聴だと分かっていても。ザー……ザー…………。とても不快でうるさい。
「じゃあ、私からも質問です」
九条さんの言葉にハッとする。
頭に響いていた水音が消えた。
「織部くんはどうして古典文学が好きなんですか?」




