ヒチマジムン
雨戸の隙間から漏れる光で目を覚ました。
一瞬⋯あれ、ここは何処だと思いかけたが、あぁ⋯俺は沖縄に居るのだ。と思い直した。
そして枕元には琉球犬がいるのだ、と思い出した。
ピンと立った耳に焦げ茶色の虎模様の変な犬が、布団の脇に鼻を突っ込んで腹を上下させて寝ている。何故か俺に一番懐いている⋯のだが、逆にここまで易々と俺に懐くということは、元々飼い犬なのだろう。今頃飼い主が心配しているに違いない。火の玉を咥えようとする変な犬だが、従順で大人しい。犬も本当の飼い主を求めていることだろう。
「⋯起きろ」
隣で寝息を立てている蓮を軽く揺すると、うっすらと目を開けた。
「⋯やっぱ行くんすか」
「⋯こんな山中に放置して餓死されたら寝覚めが悪いだろ」
半身を起こして大きく伸びをすると、蓮は諦めたように立ち上がった。
「首輪付けてないし、見込み薄って気がしますけどねぇ⋯」
「首輪が千切れて迷子になったのかもしれない」
昨夜も遅かったので俺も眠い。だが仕方がない、不測の事態だ。保護してしまったからには、交番に届けるまでの手間は致し方ない。
「ビキ兄ィらしいというか⋯」
―――俺らしさとは。
「⋯道案内頼む」
「お二人は?」
「置いていこう。どうせまだ起きない。⋯帰りにマックモーニングでも買って帰ろう」
犬の背を撫でると、ひょいと首を上げて尾を振った。
靄のかかる早朝の山道を、レンタカーでゆっくりと走る。⋯こいつは『あ、そこ右に入るんだった!』とか『わ、すみません!この先行き止まりです!』とか突然言うのでうっかり速度を出せないのだ。⋯後部座席の犬も、どの程度車に慣れているか分からないし。
「⋯⋯なんか、おかしいですね」
「⋯⋯ああ」
靄が濃くて何処を走っているのか分からない。地図アプリを確認してみると、画面全体に不鮮明なノイズがかかり、現在位置の周辺のみ表示されている。
「これは⋯?」
しくじった。完全に。無理やりにでも奉を叩き起して連れてくるべきだった。間違いなく『怪異』に巻き込まれている。
「いやぁ⋯沖縄って凄かったんですねぇ!何度も来てるのに知らなかったですよ!」
蓮がやけくそ気味に笑った。
「コナンの周りの小学生ってこんな気持ちなんですかねぇ!」
「⋯⋯悪かったよ」
断言できる。俺は沖縄には住めない。
「俺は大学を出たら東京に出る」
「東京は東京で色々出るんじゃないっすか?アンサーさんとかメリーさんとか」
「そういう全国区のやつは置いといてな⋯」
全国区のやつは対策が広く知られているから、運悪く出くわしたとしてもどうとでもなる。だが、俺が今対峙しているのは⋯一体何なんだ?
「⋯この辺、タヌキとかは出るか?」
「沖縄にタヌキはいません。キツネもいないですからね?」
「うぅむ⋯」
道迷いの妖と云えばタヌキやキツネと相場が決まっているのだが⋯沖縄ではこちらの定石は通用しない。俺達を取り巻くこの『怪異』は何なのか、何が目的なのか、分かりようがないということだ。
ただ確かなのは、俺たちは今、靄の中に閉じ込められているということのみ。
「⋯困ったな、犬」
車を停めて、後部座席の犬を振り返る。犬は大きめの耳をぴんと立てて、車窓の一点を凝視している。やがてその視線の先に、靄が凝集したような暗がりがあることに気がついた。
「なんだあれは⋯洞穴?」
「いやいや、おかしいっすよそりゃ。靄の真ん中に穴があるとか⋯んん!?」
穴と見なしていた辺りの真ん中に、三葉虫がいる。⋯いや、よく目を凝らすと茶色の襞と思われた溝は皺と⋯笑っているように弧を描く双眸。目の奥は節穴のようだが、これは⋯顔?⋯いや木製の仮面か!?
一つ言えることは⋯子供が見たら泣くタイプの仮面だ。
「ウシュマイ⋯!!」
蓮が押し殺したような声で呟いた。
「⋯⋯なにそれ」
「んー⋯俺もよくは知らないんですけど、お盆の頃になると沖縄では近所を巡って『アンガマ』という踊りを踊るんです。その時に踊り手が被る一対の仮面のうちの一つ⋯」
「なるほど⋯不吉な圧を感じる⋯」
「まぁ⋯ただの爺さん仮面なんですけど」
不吉な圧とか言っちゃったよ。
「で、あれはそのウシュマイなんだな」
「似てるけど、そうと断言はできないですよ⋯第一、こんな人気のない山の中で相方の『ンミ』なしに踊るようなもんじゃないです」
「ンミ、とは」
「婆さんです」
「だろうな⋯爺さんの番いだもんな⋯」
第一、俺には靄の中央にぽっかり空いた暗がりに薄気味悪い爺ぃの仮面が浮かんでいるようにしか見えない。たとえこれがウシュマイだったとしても怪し過ぎるだろう。
少し様子を伺っていると、やがてウシュマイが浮かんでいた洞穴のような暗がりから、ぬるりと両腕が現れた。
「んん!?」
⋯蓮に縁ちゃんの口癖が感染っている。
「両手に何か持っているな」
赤い器と、白い器。
古びた両方の器には、飯が盛られている。赤い器には赤飯、白い器には白飯⋯俺達に何をさせたいのか。
「どちらかを食えってことですかね⋯絶対嫌なんですけど」
「学校の怪談であったな、そんなやつ」
「⋯⋯赤い紙と青い紙と黄色い紙を選ばされるやつですか」
「あぁ⋯どれを選んでもろくな目に遭わない」
ハンドルを握りしめたまま、暗がりに浮き上がる気味の悪い仮面と睨み合う時間が続いた。⋯車を停めたのは失敗だったかも知れない。靄は時間が経つ程に深く、濃くなっていく。もう1m先は見えない程だというのに、ウシュマイは不自然な程にくっきりと存在している。⋯掌にじっとりと汗が滲む。
―――携帯が鳴った。
携帯に飛びつきロックを外すと、発信は『奉』。⋯突破の糸口が。
「⋯起きたか」
『マックグリドルのベーコンエッグ。セットでハッシュドポテトとコーヒーな』
「起きてたんだな貴様。俺たちが出る時に」
この糸口は⋯!!
「今マックグリドルどころじゃねぇんだよ⋯」
『またか』
「まただよ」
深いため息が聞こえた。⋯なんだ、俺が悪いのか?
『どんなのだ』
「蓮の話だと、ウシュマイ⋯らしい」
『ウシュマイとンミの面は祖霊を表している。守り神でありこそすれ、害をなすものではないんだがねぇ⋯』
「知らんけど。そいつが白飯と赤飯を両手に持っている」
電話の向こうの奉が、ふと押し黙った。⋯やがて、小さなため息が漏れた。
『あーあ⋯』
「⋯⋯なんだよ、俺たちは何に、何をされているんだ!?」
『いや、まぁ⋯別にそんな大層なものじゃないが⋯ねぇ』
「さっきから歯切れが悪いな」
再び、僅かな静寂を挟んで奉がため息をついた。
『マックグリドルは、もう少し待つことになりそうだねぇ』
仰け反りそうになった。よほど厄介なものに巻き込まれたのかと身構えていたらこの堕落神、マックグリドルの調達を心配していただけか。
「あのな、俺らは今、犬連れて怪奇現象の真っ只中なんだよ。マックグリドルどころの騒ぎじゃないからな。大体あれそんなに旨いか?俺ちょっと苦手なんだが」
『煩いねぇ。廃版になってないってことは一定数いるんだよ、好きな層が』
「マックグリドルの話は後だ。これは何だ?」
―――ヒチマジムン、だねぇ。
「なんだそれは」
『知らないだろうねぇ。俺もよくは知らん。知る必要も感じない』
この状況で突然興味を失うな!
「俺は知る必要を身に染みて感じている。己の不勉強に悔恨の念が溢れ出して歯ぎしりが止まらねぇんだよ」
『うるさいねぇ⋯とりあえず、頭に下着を被れ』
―――なんて?
「え、俺今おちょくられた?」
『ヒチマジムンは不可視の怪異でねぇ。その仕業や危険性については⋯そうだねぇ、ぼんやりしている』
「ぼんやり!?今まさにウシュマイにハッキリとお椀を差し出されているんだが!?」
『その椀は、絶対に選ぶなよ』
「選ばん!大体想像つくよ!⋯選んだらどうなる、悲惨な死に方をするのか」
『白飯を選べば海の泡、赤飯を選べば赤土を食わされる』
―――これやっぱり狸だろう。
「⋯おい蓮、もう一度聞くぞ。沖縄に狸は居ないんだな?」
「居ませんて。⋯動物園以外は」
『実に狐狸の仕業的だが、ヒチマジムンは獣ではない。どちらかというと悪霊の類だねぇ』
「ウシュマイとは関係がないのか」
『関係ない。ある意味、最も縁遠い⋯まぁ、そういうことだ。沖縄の霊は基本的に不浄を嫌う。道が分かればフールに誘導したり、石敢當に逃げ込んで食い止めることが出来るが、その手段は靄で封じられている。その代替手段として知られている、歴とした対ヒチマジムンの手段だ』
「下着ったってなぁ⋯」
途方に暮れて、奉が『ヒチマジムン』と呼ぶ怪異を眺める。
「⋯仮に俺が今、下半身を丸出しにしてトランクスを頭に被り車から飛び出して靄が晴れたとしてだ」
「靄が晴れた先に女子大生のツアー客とかが現れたら⋯えらいことになりますね」
そう言って蓮は、左腕につけた白いミサンガを額にかざした。
「俺はコレでいきます!ビキニは下着分類でいいっすよね!」
―――裏切り者め。
「なぁ、未成年。一時的に俺がそのミサンガを借りる、というのは」
「え嫌です」
「俺、逮捕されるんだが」
「女子大生にフルチン状態見られるの嫌です」
「⋯⋯⋯くっ」
諦めかけてジーンズに手を掛けた瞬間⋯蓮の言葉が天啓のように頭の中で弾けた。
「―――ビキニは、下着認定でいい⋯だったな」
一度ジーンズに掛けた手を傍らのリュックに突っ込み、『それ』をずるりと引き出した。
「ビキ兄ィ⋯嘘でしょう!?まだ鞄に入れてたんですか!?」
「⋯⋯⋯出し忘れ続けていただけだ!」
⋯蓮が肌身離さず身につけているミサンガは、静流のビキニから作られている。『必ず帰還する』呪物と化したそのビキニには、対となる『下』が存在するのだ。
「俺が貰えなかった、ビキニの下じゃないですか!」
「やる訳ねぇだろ狂ってんのか!?」
「意味無くビキニ持ち歩いてる方が狂ってますよ!ビキ兄ィが持ってても役に立たないでしょう!?」
「分からないだろそんなのは!!」
完全に使いこなしている蓮とは比べ物にならないかもしれないが、俺にも多少はご利益ないかなぁ⋯俺は彼氏だし⋯などという下心があったことは否定しない。だがそんな事より、俺にだって意地がある。
「他の男が自分の彼女のビキニを肌身離さず持っているやるせなさが、お前に分かるか!!」
もうヤケクソだ。俺は徐に『それ』を頭に被り、勢いよく車のドアを開けた。
「⋯⋯⋯は!?」
⋯⋯何故だ。
俺たちは今、車のドアを開けて外に出たのではなかったか。
何故⋯⋯。
何故俺たちは、洗面所で歯磨きをしている縁ちゃんと目が合った⋯⋯⋯?
「⋯なに、それ」
歯磨きの泡が、ぽたり、と口の端から零れた。⋯無理もない。
今の俺は、女物のパンティを頭から被った変態野郎だ。
「す、すみません⋯もう帰りてぇな、って思ってしまいました⋯」
「今、発動させるとはな⋯」
背後で、奉が爆笑しながら崩れ落ちる気配を感じた。
「ヒチマジムンは、どうも輪郭がはっきりしないマジムンでねぇ」
あの後、車と置き去りにしてしまった犬を回収する為に必死で山道を駆け下り、俺を不審者を見る目でチラ見するようになった縁ちゃんから逃げるように車に飛び乗りマックに走り、朝食を調達してきた。縁ちゃんもマックグリドル派だったらしい。⋯面と向かってマックグリドルをディスらなくてよかった。
「まず、不可視の妖と云われている。事故などで突然死し、先祖代々の墓に入ることができなかった霊の、成れの果て⋯だがどういう手段によってなのか、お前が差し出されたように、赤飯と白飯を差し出してくる。⋯それでいて風のように水面をも駆け回るとも云われるし、そうかと思うと天地を繋ぐ大きな柱のような姿をしていて下敷きになると死ぬだの、筵を持って歩く人間を連れ去り、遠くに置き去りにするだの⋯撃退法も複数ある。お前に教えた『下着を被る』以外だと、そうだねぇ⋯」
「おい待て、他の撃退方法もあったのか」
「ハチ、ハチと叫ぶ、シチチリ、シチチリと唱えながら下草を刈る真似をする⋯なんかだねぇ。紅白の椀を出された時の撃退方法として最も確実なのは下着被りだったんだよ」
「⋯撃退方法も含め、どうも狸のイタズラなんだよな⋯」
「大きな柱のような狸なんているんすか?」
「似たようなのはいたよな、奉。大分らへんに。『狸の塗り壁』とかいうのが」
そうだねぇ⋯と軽く笑い、奉はたべかけのマックグリドルを置いて頬杖をついた。
「伊江島で不発弾に群がる『あれ』に比べると、どれもこれも随分と可愛らしいものだねぇ⋯くっくっく⋯」
不発弾の爆発から、まだ丸一日も経っていない。⋯イチャイカジ、といったか。一家全滅した者や縊死した者が成り果てる悪意を帯びた風⋯。縁ちゃんがひょん、と顔を上げた。⋯ウサギが耳を立てるように。
「イチャイカジの下位互換、みたいな?」
⋯⋯下位互換て言うな。一応死人なんだから。
「くっくっく⋯恨みの深さがタチの悪さと比例しているなら、確かに下位互換だねぇ」
「んん、下着頭に被れば撃退できるレベル」
そのことはもう蒸し返さないでくれ。
「まぁ⋯そうだねぇ。本州では狸の仕業とされる『少し不思議な事象』が沖縄ではマジムンの仕業となる。それぞれのマジムンに固有の役割⋯というか障りがあるんだが、ヒチマジムンはそれらが抱えきれなかった雑多な事象を一手に担わされた、器用貧乏なマジムンという感じだねぇ」
「役割分担があるのかよ。マジムンに」
「というか、力がないんだねぇ。ヒチマジムンには」
マブイを抜くだの、疫病を流行らせるだの、そういった力を持つには怨恨が弱い。彼らには祖霊などの後ろ盾がないことも一因かもしれないねぇ。と言って奉はコーヒーを啜った。
「⋯仕業が雑多にあるのは、他の力あるマジムンの仕業から外れた日常のしょうもないバグは『じゃ、ヒチマジムンのせいってことで』と押し付けられたからなんですか?」
「どうだろうねぇ⋯ヒチマジムンについては情報が少ない。姿も、仕業も、撃退法ですら、まるで別々の妖のようだ。蓮が云うように雑多なバグをこいつに押し付けたのかもしれんし、元々は複数のマジムンだったものを無理やり統合したのかもしれん。もしくは」
―――本当に、狸の仕業かもねぇ。
そう言って奉は、食べ終えたマックグリドルの包み紙を紙袋に投げ込んだ。
「んん?今さっき、狸は沖縄に居ないって言ってなかった?」
縁ちゃんも包み紙を紙袋に投げ込んだ。⋯玉群家の伝統か。
「居ませんよ。動物園にしか」
「本州も九州も四国も、狸の伝承に溢れている。狸飽和状態よなぁ。⋯縄張り争いに破れた狸の一派が海を渡って、沖縄の地にこっそり根を下ろしていたのかも知れんよ」
くっくっく⋯と、何がおかしいのか、奉はまだ笑っていた。⋯足元には、結局警察に引渡しそびれた犬が、腹ばいになったまま、ちらちらと視線だけをあげて飯をねだってくる。湯掻いて塩を抜いたスパムと卵を置いてやると、ぶんぶんと尾を振って腰を上げた。
「もう飼い主じゃん」
んふ、と縁ちゃんが笑った。他人事だと思って。
朝食が終わったら、もう一度警察に向かう。
俺はこれ以上、懐かれてはいけない。




