46
その上、決して後ろと前をひっくり返して置けないから。ちなみに、カラスはraven。それを逆さから読んでnevar(決して)としている。どう? 合ってるかな?」
「その通りだよ。あ~、やっぱりジョシュアには出す甲斐がないな。すぐに答えが解っちゃうから」
兄さんはつまらなさそうに、机に突っ伏した。
「僕にだって解らないことはあるよ。兄さん」
「それは何?」
突っ伏したまま、ごろんと頭だけをこちらに向けて兄さんは言う。
「この、世界だよ。人間達がひしめきあう世界。なぜ、この世界があるのか? どうやって出来たのか? 生命や精神の素は何か?」
「……そんなの誰にも解らないよ」
「そうだね……」
僕はそう答えて、本を開いた。
「でもね、ジョシュア。あまり、深く考え過ぎてはいけないよ」
「……解ってるよ。兄さん」
「うん。ねえ、僕ひさびさに、ジョシュアのピアノが聴きたいな」
笑みを浮かべて兄さんは言った。
ランプを持って、僕達は地下にある防音設備を施した音楽室へと下りて行く。僕たちが楽器を習い始める前に父が作ってくれた部屋だ。床にはリノリウムが敷いてあり、柔らかな感触が足に伝わる。収納庫には練習用のヴァイオリンやチェロ、クラリネットが入っている。天井からランプを吊るして、僕は隅に置いてあるピアノの鍵盤蓋を上げて、布を取った。
「何かリクエストはある? 兄さん」
「そうだね……。夜だから、ドビュッシーの月の光が聴きたいな」
「オーケー」
僕は眼鏡を指で少し上げて、ピアノを弾き始める。月の光は今から三年前の一八九十年に、ドビュッシーがベルガマスク組曲の一つとして作曲したものだ。彼は詩人ポール・ヴェルレーヌの月の光という詩にインスピレーションを受け、これを作曲した。兄さんが初めてこの曲を聴いたとき、「包み込むような月夜の下で、ニンフが踊っているようだ」と言った。
だが僕は、あまりこういう曲を好まない。僕がいいと思う曲は、心の内面を激しく表現した曲――モーツァルトの怒りの日、サラサーテのツィゴイネルワイゼン、ヴェルディの怒りの日などだ。
たゆまなく変化していく感情を如実に捉え、表現されていく詩や音楽。唯一、人間に与えられた赦しのようにも思う。弾き終えた僕は、兄さんに視線を送った。
「ジョシュアの弾く月の光は、何だか物悲しく感じるね」
僕の目を見て、兄さんはそう言った。




