#5 異形頭
懇願に応えるように響いた紳士的なその声に、五十鈴は思わず顔を上げる。しかし相手の姿が目に入る前に、五十鈴のすぐそばを黒い風が通り抜けて行った。横目に映ったのは執事服だ。ハッと動きを追えば、上着の裾がまるで燕の尾のように、優美に靡いている。
「まったく、少々おいたが過ぎましたね。いけませんよ、いくら美味しそうだからって、あちらの世の者を食べようとしては」
続いて聞こえてきたのは諭すような台詞だ。『美味しそう』なんて不穏な言葉が混ざってはいたが、化け物に言っている言葉であるのは五十鈴にも分かった。
(味方……?)
五十鈴がそう思った瞬間――化け物の体が真ん中から割れて、床にごろんと転がった。
うっかりと見てしまったその断面は黒一色。そこからタールのような黒い液体が、ドロドロと流れ出しては床に広がった。その中に転がった化け物は、少しのうちは脚をピクピクと震わせていたが、だんだんとその足先が塵のように崩れ始めた。
それは足先だけに留まらず全身へと広がって行き、ボロボロと崩れて消えいく。ややあって、まるで最初からそこには何もいなかったかのように消滅した。その時には床に広がっていた黒い液体も消えている。
「あ、あううう……」
助かった、のだろう。そう理解した五十鈴は、何とも情けない声を零しながら、その場にへなへなと座り込む。安心したとたんに、全力疾走の疲労が一気に押し寄せてきたのだ。膝なんてガクガクで、すぐに立ち上がれそうにない。
「な、何だったんですの……?」
「この学校に住み着いていた異形ですよ」
五十鈴が呆然とつぶやけば、執事服の男からそんな答えが返ってきた。
つられて五十鈴は顔を上げ――そして目を瞠った。
何故ならそこにいたのも化け物だったからだ。
「え……?」
執事服を身に纏った成人男性の体の上に、たんぽぽの綿毛のような白くふわふわした丸っこいものがくっついている。首まではちゃんと肌色の、見慣れた人間のそれなのに首から上がおかしなことになっていた。
「何ですの、もう、本当に何なんですの~~……」
五十鈴は半泣きになりながら頭を抱えた。先程の化け物といい、目の前の異形頭といい、悪い夢でも見ているような気分だ。ただ一つ残念なのは、その夢から醒める気配が小指の皮ほどもないことだろう。醒めない夢はないと言うならば、今こそそうしてほしい。五十鈴が現実に理不尽さを感じていると、
「大丈夫ですか、お嬢さん。ああ、汗もかいて……よかったらこちらをどうぞお使いください」
異形頭は五十鈴の前で膝をつくと、白いハンカチを差し出した。たんぽぽの花の刺繍が施された素朴でかわいらしいものだ。
「――――っ」
それを見て五十鈴は、外見だけで相手を判断した自分を恥じた。しかも自分を助けてくれた相手である。それなのに悪夢だ何だと心の中で勝手に思い込んでしまった。五十鈴は心の中で謝りながら、差し出されたハンカチをそっと受け取る。
「ありがとうございますわ、たんぽぽの方……」
「いえいえ、ふふ。ああ、それと、私はたんぽぽではありませんよ」
「そうですの?」
「ええ、そうでございます」
そう言って異形頭は頷いた。彼は違うと否定はしたが、気分を害した風でもなさそうだ。どう見てもたんぽぽの綿毛だが、本人が違うと言っているならそうなのだろう。
五十鈴は「失礼いたしましたの」と謝って、それから、先ほどまで化け物が倒れていた場所へ視線を向けた。
「あの……先ほどのあれって、何だったんですの?」
「うーん、そうですねぇ。簡単にご説明いたしますと……まぁ、化け物です」
「あ、やっぱりそうなんですのね?」
「ええ。お嬢さんたちからすれば、それ以外の何者でもございませんから」
「わたくしたちからすれば……です?」
「ええ。私も含めて、御覧の通りですからね」
異形頭は胸に手を当てて、恐らく微笑んだであろう様子で、軽く頭を右手側に傾けた。どうやら彼自身も、自分が化け物に見えるということは理解しているらしい。あらまぁと五十鈴が目を丸くしていると、異形頭は立ち上がって、化け物がいた場所の方を向く。
「先ほどの化け物、あれは世の中の塵と言いますか……燃え残りと言いますか……ううん。上手な表現ができず、申し訳ないのですが……」
「あっ、えっと……えーっと……もしかして、産業廃棄物的なもの……です?」
「あ! それです、それです。素晴らしい!」
異形頭の言葉から、何となく連想した言葉を五十鈴が口にすると、彼はぱちぱちと拍手をした。
大げさなくらい褒められて、五十鈴はちょっぴり照れた。えへ、えへへ、と、両手で頬を押さえてにこにこしていると、異形頭もつられたようにくすりと笑った。
「お嬢さんは意外と肝が据わってらっしゃる」
「そんなことはありませんわ。さんざん悲鳴を上げて逃げ回りましたもの。『ごはん』なんて言って追いかけられたものですから」
「ああ……それは仕方のない衝動でしょうねぇ。こちらの世界の者にとっては、お嬢さんはとても美味しそうな香りをしていますから」
「えっ」
すると異形頭は五十鈴の方へ顔を向けて、うっとりとそう言ってのけた。思わず五十鈴の体がぴしりと固まる。
「…………」
五十鈴はすすす、と座ったまま後ろへ後ずさった。何となく距離を取った方が良い気持ちになったからだ。すると異形頭はハッとした様子で、大慌てで首を横に振った。
「し、失礼いたしました! もちろん私は、あの異形共とは違いますよ、ええ、本当に。美味しそうだなと思いますけれど!」
「信用が秒で崩れ落ちたご自覚はありまして!?」
「あります!」
異形頭は力強く、堂々と肯定した。しないでほしいとい五十鈴は思った。
「いやはや、面目ありません。これは我々のサガという奴でして……。ああ、ですが本当にご安心を。私は人間を食べたりはいたしません。そういう契約を結んでおりますので」
「け、契約?」
「ええ。書類にサインと実印付きで」
「実印がありますのね……」
見た目はどこか外国風なのに、そこだけはやけに日本的である。どんな印鑑を使っているのだろうと、ちょっと見てみたさはあったものの、好奇心から他人に「印鑑を見せてください!」は初対面じゃなくてもだめである。
「えっと、お話を戻して申し訳ないのですけれど……こちらの世界がどうのって、どういうことですの?」
「ああ、ええ。簡単にご説明をしますと、こちらの世界というのは、先ほどの異形が跋扈する場所なのでございます。異界、とも言いますね。お嬢さんの世界のすぐ隣にあって、何かの拍子に繋がってしまうことがあるのですよ」
「何かの拍子に……です?」
「ええ。ほら、夏になるとよく、テレビで心霊特集をやっているでしょう? あれの大半は作り話ですけれど、たまに交ざっている本物は、この異界からやってきたものなんですよ」
「まあ。あれって、そういうものでしたのね!」
五十鈴は胸の前で両手をポンと合わせた。確かに時々、偽物とは思えないような映像が入っていることがあるなと思っていたけれど、どうやら本当に『本物』だったようである。
「長年のもやもやがすっきりしましたの」
「ふふ、それは何よりでございます」
「はい! えっと、それじゃあ……こっちからあっちへ行けるなら、わたくしも元の世界へ帰れるのですよね?」
「もちろんです」
異形頭はしっかりと頷いた。そのはっきりした声に、五十鈴はほっと胸を撫でおろす。
しかし――……。
「ですが大変申し上げにくいのですが……タダでは帰ることができないのです」
異形頭は申し訳なさそうにそう続けた。




