#4 突撃あなたが今日のごはん
「こ、これは一体どういうことですの……?」
忽然と姿を消した果歩を探し、教室の外へ出てしばらく歩いた五十鈴はぽつんとつぶやき、夕焼けに染まった廊下に立ちすくむ。
どこを探しても友人はいないし、それどころか他の学生や先生達も誰一人見当たらない。
(この時間なのに学校には誰もいませんし、何の音も聞こえませんの……)
いくら下校時間とは言え、今ならまだクラブ活動を行っている生徒も多いはずだ。それなのに生徒の声も足音も――烏の鳴き声も虫の羽音すらも、五十鈴の耳には聞こえてこない。人のいない、静まり返った校舎内に零れるのは五十鈴の吐息だけ。どう考えてもおかしい。五十鈴の額から冷や汗がたらりと伝わった。
そもそもの話、ほんの一瞬前まで真正面にいたはずの果歩がいなくなったことだけでも奇妙なのだ。一体何が起こっているのか――五十鈴の心臓が嫌な音を立てて鳴り始める。
「…………これはたぶん、きっと、だめな奴ですわね?」
何となく、漠然と五十鈴はそう思った。
五十鈴は怖い話や作品を見ても特に怖いとは思わない。けれどもそれに近い状況が自分に降りかかっているとなれば、さすがに動揺はする。
そうしていると、先ほどの果歩の話がふっと頭の中に蘇る。
『そのお化けはね、今みたいな夕暮れ時になると姿を現して、美味しそうな人間を影の中に引っ張り込んじゃうらしいの! それで頭からむしゃむしゃ食べちゃうんだって』
五十鈴はごくりと唾を呑み込んだ。どうしてこんなタイミングで思い出してしまったのか。
(だ、大丈夫ですわ。だってわたくしがいるのは二階ですし、お化けさんだって現れていませんもの!)
そうですとも、と五十鈴は自分自身に言い聞かせる。考えてみれば、あの怪談話と合致しているのは時間帯だけだ。だから、頭からむしゃむしゃ食べるお化けなんて現れたりは――……。
――ギシ……。
ちょうどそう考えたタイミングで、五十鈴の後ろから、床板のきしむ音が響いた。反射的に五十鈴の肩がびくりと跳ねる。
(い、いえ! そ、そそそ、そんなに都合良く現れるなんてことは……)
ばくばくと鳴る心臓を手で押さえながら、五十鈴はそっと後ろを振り返る。
しかし、そんな緊張感を嘲笑うかのように、そこには何もいなかった。
「あ、やっぱりそうですわよね……!」
五十鈴はほっと表情を緩めた。この不可思議な状況のせいで、普段はあまり感じないような恐怖心が、ひょっこりと顔を出してしまっているようだ。もちろん手放しで安心出来る状況ではないものの、何も現れないならばそれに越したことはない。
五十鈴はそう思いながら、顔の向きを戻す。
すると目の前に、化け物がいた。
五十鈴の身長の倍以上もある背丈で、頭から黒いシーツをかぶったような漆黒の影。それが体を前へ折り曲げて、じっとりと五十鈴を見下ろしていたのである。
「ひぃえええぇぇえぇっ!?」
五十鈴は思わず叫び声をあげた。咄嗟に距離を取ろうと後ずされば、足がもつれて転びそうになる。それでも何とか踏み止まって、よたよたとした足取りで数歩分だけ離れると、五十鈴は『それ』をもう一度見上げた。
「な、な、な、何ですの、あなた……!?」
「ごは ん」
五十鈴が狼狽えながら言えば、化け物の口から不思議な響きを持ったバリトンボイスが発せられた。思わず五十鈴はぞっとした。耳から入ったその声に、まるで首の後ろを指先でつつかれたような、ぞわりとした感覚を覚えたからだ。
「ご、ごはん……?」
ぞくぞくとした感覚に肌が粟立ちながら、五十鈴はそっと後ろへ下がった。何となく嫌な予感がしたからだ。五十鈴は野生の熊に出くわした時のように、ゆっくりゆっくりと後ずさる。
「ご はん」
そんな五十鈴を見つめたまま、化け物はもう一度同じ言葉を繰り返した。ごはん――恐らく感じで書いて「ご飯」だろうか。先ほどから化け物は「ごはん」としか言わないので、もしかしたら別の意味が含まれている可能性もないわけではない。
けれども化け物は五十鈴をじっと見つめたまま「ごはん」と言った。どう考えても悪い想像しか浮かんでこない。
「ご はん」
「…………」
五十鈴はすうと息を吸って、肺に新鮮な空気を取り入れる。
「ご飯になるの嫌ですわーっ!」
そして自らに気合いを入れるように叫び、その場から脱兎のごとく駆けだした。
「ごはん にげた」
その時、化け物が初めて「ごはん」以外の言葉を紡いだ。どう考えても最悪の予想で確定である。美味しくいたがかれるのは嫌ですのと、五十鈴は青を通り越して白い顔で廊下を全力で走る。
「にげちゃ だめ」
「無茶なことを仰いますのー!」
走りながら、律儀に返事をする五十鈴。その耳に、バタン、と何かが倒れるような大きな音が飛び込んできた。背後からだ。五十鈴は、えっ、と思いながら顔だけ振り返る。
するとそこでは、あの化け物がうつぶせで床に倒れていた。
「あれ……!?」
五十鈴は思わず立ち止まりかけた、その瞬間、化け物の背中が――否、体全体がボコボコと波打ち始めた。まるで内側で、何かが皮膚を突き破ろうとしているかのように、激しく蠢いている。
その蠢きは徐々に大きく、そして荒くなり、やがてプツッと布が切れるような音がしたと思ったら、シーツのようなものを裂いて中から四本の脚が飛び出した。ねちゃり、と粘性のある黒い何かが糸を引いている。
五十鈴は頬をひくっと引き攣らせた。
「何ですの何ですの何ですのー!?」
混乱する五十鈴の頭に浮かんだのは昆虫の脱皮だ。
悲鳴を上げる五十鈴をよそに化け物は、新たに生まれた脚をぎこちなく動かして、トン、と床に下ろした。それから足先で、床板を数回、ちょんちょんと軽く叩く。まるで何かを確認するかのような動作だ。
それは、少しして一瞬だけ動きを止めて――突然スイッチが入ったように、五十鈴に向かって走り出した。
「ごは ん」
ばたばたと、激しい音を立てて化け物は五十鈴に急接近する。その動きはさながら蜘蛛のようだった。
「ひえぇ!? それはちょっと待っていただきたいですの! 四本脚なら、ぜひともそれっぽい動きをしてほしいですわー!」
五十鈴は少々場違いな言葉を叫びながら廊下を走る。
(どこへ逃げたらいいんですの……!?)
化け物に追いかけられている異常な状況では、頭が上手く働かない。頭の中に逃亡先の候補が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
そうして迷っているうちに、階段に辿り着いてしまった。上か、下かの二択を迫られた五十鈴は、先ほど果歩から聞いた怪談話を思い出した。
(確か、三階でお化けに会ったって言っていましたわ!)
今の状況は件の怪談話とよく似ている。それならば『上』は避けた方が無難だろう。そう考えた五十鈴は階段を下り始めた。タンタンと、上履きで踏み板を叩く音が反響する。少し遅れてビタンビタンと平べったいものが床にぶつかる音が追いかけてきた。時々ねちゃりと耳障りな音まで聞こえてくる。
(う、後ろを見ちゃだめですの……!)
振り返りたくなる気持ちをこらえながら、五十鈴はとにかく、自分についてくる音を引き離そうと速度を上げる。しかし運動部でもない五十鈴の体力は、すぐに限界を迎えた。
(息、苦し……!)
はぁ、と喘ぐように口から息が漏れた。呼吸のし過ぎで、喉がじくじくと痛む。全力疾走しているせいで、あっという間に息が上がってしまったのだ。
けれども、どんなに息苦しくても足を止めるわけにはいかない。ここで立ち止まったら、即ジ・エンドである。頭からむしゃむしゃ食べられて、苦しみなんて感じない世界へ真っ逆さまだ。何なら事切れるその瞬間まで、これ以上の苦しみが待っている可能性だってある。
――いやだ。
ぜったいに、それはいやだ。
「誰か……っ!」
絶望的なまでに人気を感じない校舎で、五十鈴は僅かな希望を求めて呼びかける。仮にもし誰かいたとしても、その人が化け物をどうにかできるとは思えない。
けれど、それでも、化け物以外の誰かに会いたい。五十鈴の胸にあったのは、その一心だった。
「助けて……!」
願うように零れた言葉。その声は五十鈴と化け物の足音に吸い込まれ、
「ええ、もちろんですとも、お嬢さん」
――消え去ることなく、誰かの耳へと届いた。




