#3 放課後の怪談話
「――でね! マリちゃんが、ここの三階でお化けを見たんだって!」
「ひゃあっ!」
吐息が顔にかかるくらい傍で声が聞こえたものだから、五十鈴は小さく悲鳴を上げてのけ反った。そのせいで座っていた椅子が、後ろへガタッと倒れそうになる。不安定に体が揺れて、五十鈴は慌てて机にしがみつき難を逃れた。
「あ、危なかったですの……!」
はー、と安堵のため息が零れる。
すると目の前から「五十鈴ちゃん、大丈夫?」との声が聞えて来た。五十鈴が驚いた原因の声だ。
五十鈴は机に突っ伏しながら、視線だけを上へと向ける。そこには仲の良い友人がいて、五十鈴を見て目を丸くしていた。
「……あら? 果歩さん? どうしてここに?」
彼女を見て五十鈴は不思議な気持ちになった。何故なら自分と友人が何をしていたのか、まるで覚えていなかったからである。
実は五十鈴にはこういうことが、一年ほど前から起こるようになっていた。どういうわけか高校へ登校して朝のホームルームが始まると、まるで夢の中に片足を突っ込んでいるような、とろりとした微睡みの中に陥ってしまうのだ。
五十鈴は学校が好きだし、授業だって真面目に受ける学生だ。中学生の頃なんて優等生と呼ばれて、周囲から生徒会長に推されたくらいである。
とは言えキリッとしている性格でもないため、自分には向いていないだろうと当時の五十鈴は思った。しかし「ちょっと」天然だがそこがいい……」という若干胡乱な評価が加わって、五十鈴は中学三年生の時に生徒会長となった。そのくらい真面目な生徒なのだ。
それなのに高校生になったとたんこれである。おっとりとした五十鈴も、五十鈴の両親もさすがにおかしいぞと病院で診察をしてもらったのだが、診断結果は「大変健康です」だった。念のためと紹介された違う病院で診てもらっても結果は同じ。分かったのは、医師が褒めてくれるくらい五十鈴が健康ということだけだ。
健康なのは嬉しいが、結局頭がぼうっとする理由については、何も分からずじまいである。そういうわけで五十鈴は今日もぼんやりしてしまっていた。
(ええっと、確か今日はいつもの時間に登校して、授業を受けて、それで――……)
五十鈴は朝から今までの記憶を、思い出せる部分だけでもと、一つ一つ摘まみ上げては集めていく。けれどもやっぱり覚えていない。大雑把に「こうだったと思う」記憶はあっても、まるでピントのずれた写真のように、はっきりと思い出せずにいた。
(これはとってもよくありませんの……!)
五十鈴はさあっと青ざめた。学生の本分はやはり勉強であるし、何よりもこんな授業態度を取っていれば、せっかく教えてくれている先生達にも申し訳ない。それに勉強以外だって、学校生活で常日頃ぼんやりしていたら、クラスメイトや友達にだって失礼である。良くない。大変、とっても良くない。
今だって、果歩に対してそうだ。五十鈴はあわあわと焦りながら、とにかく少しでも何か思い出せるきっかけはないかと、朧げな記憶の蓋が開ける方法を探して周囲を見回す。
五十鈴がいるのは自分の教室だった。そして座っているのは教卓の真正面から一つ後ろの席。授業中は先生と近いため、クラスメイト達からは二番目に避けられがちな位置の席だ。けれども背の低い五十鈴からすれば、黒板が見やすくてありがたい位置である。
(そうだ、時計……!)
果歩の後ろに見える黒板から視線を上へ動かすと、丸い掛け時計が目に入った。時計の針は夕方の四時をとっくに回っている。
(つまり今は放課後ですのね! 放課後は、放課後は……ああっ何も分かりませんわ!)
今の状況から察するに、きっと自分は友人と楽しくおしゃべりしていたのだろう。そんなことくらいしか五十鈴には推理出来なかった。
「五十鈴ちゃん、どーしたの? あっ、分かった! またぼうっとしてたんでしょ~?」
「あう……そ、その通りですの……」
図星を刺され、五十鈴はしおしおと小さくなる。すると果歩は「もー!」と拗ねるフリだけしてみせて、すぐにくすくすと笑いだした。
「まー、春だし、よけいに眠くなるもんねぇ。今日も授業中ずっと、五十鈴ちゃんってば、ぼーっとしてたんだよ? 先生に当てられた時はひやひやしちゃった!」
「ひい、そうでしたの!? 全然覚えていませんわ……。そ、その後はどうなって……?」
「先生の質問にばっちり答えてたよ~」
「よ、良かったですの……」
五十鈴はほっと胸を撫でおろす。やはり、その辺りの記憶は綺麗さっぱり消えているが、見ていた人が言うならそうなのだろう。
それならば安心だと五十鈴は思ったが――直後に、いや、全然安心出来ないなと思い直す。だってちゃんと答えられていたとしても、結局のところぼんやりしていたことに変わりはないのだ。しかも当の本人にその記憶がまるでない。
(春だけの問題じゃありませんけれど……春が過ぎたらもっとましになっていてほしいものですわ)
五十鈴は頬に手を当てて、ほう、と憂いるようなため息を吐いた。
「……五十鈴ちゃん、それ窓際でやってくれる?」
「え? 何がですの?」
「頬に手を当てて憂い顔する奴。ほら、深窓のお嬢様っぽくて良いなって!」
すると果歩が両手で拳を作っては、胡乱なことを言い出した。「お嬢様っぽくて」というか、一応五十鈴は、世間からはお嬢様と呼ばれている。そのことは果歩も知っているはずだが……と五十鈴が首をかしげていると、
「ところで五十鈴ちゃん。私たち、何をしてたのか覚えてる?」
と、顔を覗きこまれてそう訊かれた。
うっ、と五十鈴は軽く仰け反る。
「お、覚えていませんの……」
「やっぱりねー。んふふ。あのね、私達、怖い話してたんだよ~」
「怖い話?」
「そう! うちの学校の七不思議!」
果歩はウィンクをして、右手の人差し指をびしりと立てた。言われてみれば、先ほど五十鈴が我に返った時に、彼女はそんな話をしていた気がする。五十鈴は目を瞬きながら、頭の中に果歩の言葉を思い浮かべた。
「ええっと、確か……マリちゃんが三階でお化けを見た……んでしたっけ?」
「そうそう! そのお化けはね、今みたいな夕暮れ時になると姿を現して、美味しそうな人間を影の中に引っ張り込んじゃうらしいの! それで頭からむしゃむしゃ食べちゃうんだって。怖いよねぇ~」
「あらまぁ」
それは確かに物騒な怪談話である。けれども五十鈴の反応は鈍い。自分の「ぼんやり」に慌てていた先ほどと比べると、ずいぶん落ち着いた様子だが、それもそのはず。意外なことに五十鈴は、そういうホラーな話に関しては特に怖いと思わないタイプなのである。
「もー、五十鈴ちゃんってば、信じてないでしょ~?」
「そんなことはありませんわ。特に怖くないというだけですの」
「おんなじことだよ~」
果歩はがっかりした様子で肩を落とし、口を尖らせる。
「むう、どうしたら五十鈴ちゃんを怖がらせられるんだろう」
「べ、別に怖がらせていただかなくてもいいんですのよ?」
「だってぇ、一緒に怪談話で盛り上がりたいもん~!」
果歩は「くうっ」と唸り、両手で拳を作って悔しがっていた。五十鈴は苦笑しつつも「まぁまぁ」と彼女を宥める。そんなことをしながら、もう一度黒板の上に設置された時計を見上げた。
時刻は夕方の四時四十四分だ。何だか妙に気になる数字が並んでいるが、そろそろ下校した方が良い時間である。
「果歩さん、もうこんな時間ですし、そろそろ帰りましょう?」
そう言いながら、五十鈴は視線を戻す。
――しかし。
「――あら? 果歩さん?」
何故か目の前にいたはずの果歩の姿がそこになかった。
えっ、と五十鈴は目を見開く。
「果歩さん?」
もう一度名前を呼びながら周囲を見回す。しかし、そこにも果歩の姿はない。もともと二人だけだった教室内はやけにがらんとしていて、まるで最初から誰もいなかったかのように静まり返っていた。




