#49 ダンデと空腹
シュラムはダンデの兄のような異形だ。
ような、という言葉からも分かる通り、彼らの間に血の繋がりはない。
というより異形という存在には、そういうものはないのだ。
異形には、人間を含めた生き物にある明確な『親』という存在はいない。
強いて言うならば異界がそれだ。異界の力が濃く宿った泥や土の中で、ある時ふっと生まれた意識が形を成した存在。それが異形である。
だからこそ異形たちには肉親や親族と呼ばれる存在はいない。
ただ稀に、まったく同じ場所で生まれた異形同士が、お互いを兄弟のようなものと認識することはあった。
ダンデとシュラムの関係はちょうどそういうものだ。
彼らは同じ泥海の中から、同じタイミングでこの世に生を受けた。
泥の中にふっと生まれた色違いの泡――それが二人の最初の姿。
あまりにもそっくりだったものだから、二人は自然と「兄弟だ」なんて言うようになったのだ。
* * *
「これはまずいですねぇ……」
体を侵食する泥を引き千切りながら、ダンデはそうつぶやいた。
泥はどれだけ乱暴に扱っても、次から次へと生み出され、ダンデの体に絡みついてくる。
それだけならまだ良かったが、厄介なのは体力の消耗だ。
ダンデを侵食し、同化しようとしてくる泥に抵抗しているせいで、体力が著しく消耗してしまっている。
そのせいでダンデの体は、久しく感じなかった飢えを訴え始めていた。
人間が感じる空腹と似たようなものだが、異形の場合はさらに性質が悪い。飢えがひどくなるにつれて、正常な意識を保てなくなるのだ。
もしもこれ以上飢えた状態で、目の前に美味しそうな餌が差し出されたとしたら――ダンデですら襲いかかり、古い時代の異形のように惨たらしく喰らってしまいかねない。
(そうならないように、長い時間をかけて体を慣らしてきたのに)
人間の――生き物の魂を食べないために。
魂を食べること自体は、異形にとっては生命維持のために必要な普通の行為だ。
どんな魂でも構わないが、その中でも人間の魂は異形にとって、ちょうど良い量と濃さをしている。それに味も個体によって大きく違うため、自分に合った味を選べると好まれているのだ。
だから異形たちは、よほどのことがない限りは人間の魂を食べていた。
そういった事情で異形にとって人間は、価値のある『餌』なのだ。
しかし異形の中にも人間を気に入り、寄り添って生きる者たちがいた。
それがダンデたちのような異形で、彼らは人間の魂を食べないように体を調律している。
強固な意志と、いくつかの手段。それらを使ってどうにかこうにか食欲を、魂から別のものへ逸らしているのだ。
けれども強烈な『飢え』を感じた時に、意地とプライドで保っていた矜持はいとも容易く崩れ去る。
ダンデは今まさに、その状態にされかけていた。
――まずい。
心の中でもう一度同じ言葉を繰り返す。このままではすべてが元の木阿弥だ。
それにこんな状態であれば、何とか泥から抜け出せたとしても、そのままの足でまっすぐカフェ・フロストへ帰ることはできない。
もしもそこで五十鈴と会ったら、自分は――……。
「…………っ」
想像してぞっとした。
何とかしなければと、ダンデは再び泥を引き千切る。
すると焦りが力になったのか、先ほどよりも大きく体が動いた。勢いがついていたせいでべしゃりと転び、床に頭を強かに打ち付けてしまう。
けれどもダンデはノーダメージだ。綿毛の頭はこういう時に役に立つ。
(今なら……!)
今までで一番しっかりと、泥が体から離れている。
このチャンスを逃す手はないとダンデは拳で床を叩き、勢いをつけて飛び出した。
「あっ」
その時、ダンデの視界にちらりと、すやすや眠るあの仔犬が入った。
五十鈴が助けたふわふわの仔犬。内側にシュラムが潜んでいたものの、外側は仔犬のものであるらしかった。その証拠に今は普通の――少々呑気すぎる寝顔を見せている。
ああもう、とダンデは手を伸ばし仔犬の体を掴むと、胸に抱いて駆ける。
「わんっ?」
さすがに目が覚めたらしい仔犬が、くりくりした目でダンデを見上げる。
ややあって、無造作に掴まれたことへ抗議するかのように「きゃん!」と鳴いた。
「文句は聞きませんよ! まったく、お嬢様が拾ったんじゃなければ放っておくところです!」
などと言いつつも、仔犬を抱くダンデの手が少し優しくなる。すると仔犬も落ち着いたのか、それでいいとばかりに「わふ」とご機嫌に鳴いた。
まったく、緊張感がない。
悪態を吐きたくなる気持ちを堪えつつ、ダンデは部屋の入口を探す。
(あった……!)
壁の黒さに溶け込むように、一枚のドアが目に映る。
後ろから迫る泥を振り払ってダンデは走り、ドアを開け――
「ひゃあっ!?」
「わっ!?」
――そこで誰かとぶつかった。
というより、ダンデが跳ね飛ばしてしまったという方が正しい。
女性の声だ。聞き覚えもある。
しかし相手が何者なのかを確認するよりも先に、今はやらねばならないことがある。若干よろめいた体を立て直し、何とか部屋の外まで出ると、ダンデは急いでドアを閉めた。
直後に、ドア越しに粘性のあるものがべちゃりとドアにぶつかる音が聞こえ、ダンデはほっと息を吐いた。
「あいたたた……」
すると足元でかわいらしい呻き声が聞こえてきた。
はっとして下を向く。
「大丈夫ですか!? 失礼いたしました、急いでいて……え?」
そして手を差し伸べようとして、相手の顔を見てダンデは固まった。
「……五十鈴お嬢様?」
そこにいたのはダンデの主人であり、異形たちから「美味しそうなごはん」と認識されている藤原五十鈴だった。




