#41 異変
仔犬を獣医に診察してもらい、動物病院を出た頃には、先ほどまで降っていた雨はすっかり上がっていた。
空は相変わらずのぶ厚い曇天で覆われているものの、ほんのわずかな隙間からは、太陽の光が帯のように射し込んでいる。
この様子ならば、もうしばらくすれば綺麗な青空が顔を出すだろう。もしかしたら虹もかかるかもしれない。
見えたらいいなと思いつつ、五十鈴は腕の中でスヤスヤと眠る仔犬をそっと撫でた。
仔犬は診察中ずっとお利口にしていたのだが、どうやらそれなりに緊張もしていたらしい。会計を待っている間に寝息を立ててしまった。
「その仔犬、怪我も病気もないようで良かったですね」
二人分の傘を持ったダンデが、仔犬を見下ろしてそう言った。
最初に仔犬を見つけた時は、少々様子のおかしかった彼だが、今はすっかり元のダンデに戻っている。
五十鈴は口もとを綻ばせ、こくりと頷いた。
「はいですの! あとは家族を説得するだけですわ」
「おや、飼われるのですか?」
「もちろんですわ! 一度手を差し伸べたなら、その責任がありますもの」
五十鈴ははっきりと答える。
するとダンデは目を瞬いたあと、やや苦さを含んだ笑みを浮かべた。
「……お嬢様は、捨て犬や捨て猫を全部拾ってしまいそうですね」
「うっ」
鋭い指摘に、五十鈴は軽く仰け反った。
「その反応……もしや覚えが?」
「あうう、あ、ありますの……」
五十鈴はばつの悪い気持ちになりながら目をそらした。
きりっとした顔で言って見せた直後にこれでは何とも情けないが、実のところ五十鈴がこうやって捨て犬や捨て猫を拾うのは、一度や二度ではなかった。
小学生の頃から五十鈴は、捨てられた動物たちを見つけると放っておけなくて、家へ連れて帰ることがよくあったのだ。
「自分で世話が出来ないのなら手を出すべきではないと、両親からよく叱られましたの」
『世話』というのは餌を与えたり、散歩やブラッシングをするだけを指すのではない。トイレの世話や予防接種、餌やお世話用品を買い揃える等――動物を飼うために必要なすべてのことである。
もちろん五十鈴だって動物の世話は頑張れる。けれどもそこにかかる費用は、自分のお小遣いだけでは足りなかった。
「ひとつの命と向き合うならば、全部を考えないとだめですよ」
両親は五十鈴の目を見つめながら、そう話してくれた。
五十鈴の両親は優しいけれど、決して甘くはないのだ。
裕福な家に生まれた五十鈴が、何でもかんでも出来ると勘違いして、金銭感覚が狂わないようにとしっかり教えてくれていたのである。
そのことをダンデに話すと「なるほど……やはりしっかりした方々ですね」と感心していた。
「その時の子たちはどうなさったんです?」
「里親を探して、その方々にお願いしましたの。里親が見つかるまでは一緒にいましたのよ」
学校の友達に声をかけたり、知り合いや親戚に話をして飼えそうな人がいないか探すのを協力してもらったり。
その結果、時間こそかかったが何とか受け入れ先を見つけることができたのだ。
「自分の行動が理由ではありますけれど、あれは大変でしたわ……」
「ふふ、そうでしょうね。ですが、今回はそうしないのですね?」
「はいですの! アルヴェさんのお店でアルバイトをして、お金をいただいておりますから。そのお金でこの子のお世話をしますの!」
五十鈴は胸を張って答える。
働き始めて一か月としばらく、先日初めてのアルバイト代をもらったばかりだ。
それにはまだほとんど手をつけていないし、これまで貯めたお小遣いと併せれば問題なく世話が出来る。
だから今度こそ両親に、本当の意味で「出来ます!」と言えるのだ。
「お声をかけてくださったダンデさんとアルヴェさんには、とっても感謝しておりますの」
「ふふ、光栄でございます。私も五十鈴お嬢様のおかげで、執事になる夢が叶って幸せでございますよ」
五十鈴とダンデは笑い合う。
そんな話をしながら歩いているうちに、二人は藤原家へと到着した。
門をくぐって中へ入る。そこで五十鈴はいったん足を止めた。
「…………」
五十鈴はごくりと唾を呑み込む。家を見たら急に緊張してきたのだ。
「で、では、わたくし、行ってまいります!」
「私もご一緒しましょうか?」
「いえ、これはわたくしの戦いですから。ダンデさんはこの子と一緒に待っていてくださいまし!」
五十鈴はそう言うと、ダンデに仔犬を差し出した。
その黒いふわふわは、彼を見上げて「わん!」と元気に鳴く。
ダンデは一瞬迷った様子だったが、すぐに手を伸ばして仔犬を受け取った。
彼の腕の中にすっぽり収まった仔犬は、五十鈴が抱いていた時よりも小さく見えた。
「分かりました。ちゃんとお預かりいたしますね」
「よろしくお願いしますの!」
「はい。……五十鈴お嬢様、ファイト!」
「はい!」
ダンデの応援を受けた五十鈴は、両手の拳をぐっと握って気合いを入れる。
そしてそのまま真っ直ぐに玄関へと向かった。
* * *
かしゃん、と玄関の扉が閉じられるのを確認してから、ダンデはふうと息を吐き、腕の中の仔犬を見下ろした。
仔犬はくりくりした黒い目をダンデに向けている。
「わふ?」
「……まったく」
何とも無垢で無防備なその顔に、ダンデは思わず苦笑してしまった。
「……あなた、運が良いですよ。五十鈴お嬢様に感謝なさいね」
そうしたら、思ったよりも優しい声が自分の口から零れて、ダンデは自分で自分に少し驚いた。
基本的にダンデが感情を乗せた対応をするのは、五十鈴やアルヴェアーレ、リカントなどごく少人数なのだ。
それが出会って間もない、何の関係も築いていない仔犬に対して出た。
あまりにも想定外で――しかし、悪い気もしなかった。
「……お嬢様のそばにいるからでしょうかね」
ダンデの主人こと藤原五十鈴。優しく、お人好しで、美味しそうな香りの魂を持つ少女。
異形に騙され魂を食べられていた彼女は、それなのにも関わらず魂は綺麗なままだった。
異形への怒りもなく、恨みもなく。恐れの感情はたまに感じるけれど、それでも理解を拒むようなことはしない。
まっすぐで、純真。自分たちのような異形とはまったく違う、本当の意味で綺麗な人間だ。
ここまで美味しそうな人間に出会ったのは、果たして何十年ぶりだろうか。
(異形たちが騒ぐのも分かる。あの異形……果歩と言ったか。あれは本当に上手く隠していたものだ)
ダンデは心の中で独り言ちながら、五十鈴の友人を名乗っていた異形を思い浮かべた。
美味しそうだからちょっとずつ食べていたと言っていた、あの異形。
あんなに近くにいながらも、五十鈴のことを自分たちに気取られないようにしていた。
(あんな芸当、ただの異形に出来るのか……?)
五十鈴を助けた時から、ダンデはそこが引っかかっていた。
アルヴェアーレも同じことを思っているようで、だから五十鈴の護衛に自分をつけたし、守りの力を込めた制服を彼女に与えたのだ。
囮役だから、という理由ももちろんあるけれど、それだけが理由じゃない。
ただの杞憂であれば、それに越したことはない。
ダンデはそう思いながら仔犬の体をそっと撫でる。
――その時だ。
「ずいぶん変わったね。それに鈍くなったようだ、ダンデ」
突然仔犬の口から、氷のように冷えた声が発せられた。
* * *
「ダンデさん! お待たせしましたの! やりました……わ?」
ダンデと別れて十分後。
両親の説得に成功した五十鈴は、満面の笑みを浮かべて家から飛び出した。
――しかし、一緒に喜びを分かち合ってくれると思っていた彼の姿はそこにない。仔犬の姿もどこにも見当たらない。
「……ダンデさん?」
そこにあるのは空を映した水溜まりに転がった、二人分の傘だけだった。




