#37 魚とサイフォン 下
五十鈴達が異界へと足を踏み入れた頃。
カフェ・フロストではリカントとアルヴェアーレが、相変わらず静かな店内で客を待っていた。
「オーナー、本当に俺は行かなくて良かったんすか?」
リカントは手持無沙汰にテーブルを拭きながら、カウンターの向こうでサイフォンの火を眺めているアルヴェアーレに、本日何度目かになる質問をした。
彼が気にしているのは今回の異形討伐の件だ。いつものようにダンデと五十鈴のコンビが仕事へ向かったのだが、二人が出発してから扉の先にいる異形が何者なのか分かったのである。
「今回の異形――トネールっすよね。あいつ、ダンデと相性が悪いじゃないっすか」
巨大な魚の姿をした異形トネール。
体内に流れる電流を操り雷を落としたり、周囲に電流の網を張り巡らせたりと、厄介な攻撃手段をもつ異形だ。
ダンデやリカントのように接近戦を得意とする者にとっては、戦いの相性が悪い相手である。
けれどリカントが危惧しているのはそこではなかった。
「あいつ、ダンデの兄貴の手下でしょ? あいつにとって痛いところを突いてくると思いますよ」
「まぁ、そうなのだがね。五十鈴がいるから大丈夫だろう」
「大丈夫……なんすか?」
リカントは首をかしげた。
藤原五十鈴――カフェ・フロストの従業員で、美味しそうな魂の香りを持つ人間の少女。
見た目は弱そうだが精神面は意外と図太く、青褪めたり慌てたりと忙しいが、異形達の中に混ざって働いている姿を見ると、なかなかどうして根性はあるとリカントは思う。
とは言え本人は戦闘力が皆無のため、異形を前にすれば本当にただの餌である。
「まぁ、オーナーの制服を着ているから、五十鈴センパイの身の安全だけは保障されてるっすけど……」
五十鈴が着ているカフェ・フロストの制服。あれにはこの店と同じく、アルヴェアーレの守りがかけられている。
だからそんじょそこらの異形の攻撃なんて、軽く弾いてしまうくらいの力がある。
――と言ってもその話を知ったのは最近だ。ハイデローゼの一件のあとに、アルヴェアーレが五十鈴に話していたのを、リカントも横で聞いていた。
「すごいですの! かわいいだけじゃなかったんですのね!」
五十鈴はそう感心していたが、アルヴェアーレの性格を知るリカントからすれば、かわいいだけでも良かったはずだ。
実際にリカントが仕事で着用している制服も、アルヴェアーレとデザイナーが綿密に打ち合わせをした上で作られたものである。そしてこの制服に守りの力は特にかけられていない。
五十鈴の制服に関してもそうだ。制服自体は元から作ってあって、五十鈴がカフェ・フロストで働くようになってから守りをかけたというのが実際の流れである。
(オーナー、人にかわいい服を着せるの趣味だからな……)
リカントも以前にさんざん着せ替え人形にされたことがある。
当時を思い出して遠い目になりながらも、それでもリカントは制服のことについて五十鈴には言わなかった。
五十鈴の中のアルヴェアーレの評価がせっかく高いのだから、余計なことをしたくないのだ。
とにかくそういう意味で、五十鈴の身の安全はある程度は保証されている。
何よりもダンデが一緒にいるのだから、もしも何かあっても身を挺して彼女を守るだろう。
しかし、それらはすべて五十鈴に関することだ。
ダンデ自身の無事については何ひとつ保障されていない。
そしてダンデに何かあれば、必然的に五十鈴は終わりだ。
リカントが心配しているのはそこだった。
「――ダンデはね、一人だと死にやすいんだよ」
そんなことを考えているとアルヴェアーレが口を開いた。
彼女の目は先ほどからずっとサイフォンの火を見つめたままだ。静かに言ったアルヴェアーレを見てリカントが首を傾げる。
「死にやすい……っすか? あいつはほら……えー、あれっすよ、えーっと……ほら、普通に強いっすよ?」
「ずいぶん渋ったな」
「うっ」
リカントは気まずそうに視線を逸らす。ダンデに対抗心のようなものを持っているため、素直に褒めることが出来ないのだ。
何とも不器用な部下の様子に、アルヴェアーレはくつくつと笑う。
「君の言う通りだ。ダンデは強い。異形討伐の仕事だって、あいつが失敗したことは一度もない。ま、ボロボロになることは多々あるがね」
「あー……そう言えば、そうっすね」
思い出してみれば、ダンデは仕事こそ完璧にこなすものの、異形との戦いで体がボロボロになることが多かった。
彼のお気に入りの執事服が酷い状態になるだけではなく、時には腕や足が吹き飛ぶことだってある。
異形であるから、消滅さえしなければ時間はかかっても失った体は再生するが、よくもまぁあそこまでボロ雑巾のようになれるものだと、リカントは呆れを通り越して若干畏怖の感情も抱いていた。
「あいつは自分のことが嫌いだからね。だから自分を大事にしない。そうやって仕事をこなした結果がアレだ。だが五十鈴が来てからは、それがないだろう?」
「あ、そう言えば確かに……」
五十鈴がカフェ・フロストで働くようになってから、ダンデがボロボロの姿になることはなくなった。
リカントも何度か同行したが、異形討伐の際にダンデは一度も無茶をしていない。
突拍子のない行動は取っていたものの、これまでのダンデから考えると、驚くほど穏やかに仕事を済ませていた。
「『お嬢様の完璧な執事でいたい』というね、まぁまぁ趣味に走った理由だが、それでもダンデにとっては良い傾向だと思うよ、私はね。…っと、よし、そろそろいいか」
サイフォンのフラスコを満たす水が沸騰してきたのを見ながら、アルヴェアーレは続ける。
「五十鈴がいればダンデは死なない。折れない。そんなみっともない姿は絶対に、五十鈴に見せたくないだろうからさ」




