#15 カフェ・フロスト
しばらくして落ち着いた五十鈴は、猫姿のダンデを抱え上げると、慌てて屋上を後にした。五十鈴の高校は屋上に入ってはいけないという校則はないが、今はすっかり夕方だ。用事もないのに、いつまでも校舎内にいるわけにはいかない。
五十鈴は屋上を出ると、そのまま階段を下りて自分の教室へと向かう。置きっぱなしになっている鞄を取りに行くためだ。夕方の校舎内は、声や物音こそ聞こえているものの、窓から射し込む夕焼けの光が何となく異界を彷彿とさせる。そのせいで気が急いてしまって、五十鈴は小走りで廊下を進んだ。
そうして教室へ辿り着いた五十鈴はドアを開けて中へと入る。見慣れた室内はガランとしていてクラスメイトは誰も残ってはいなかった。
「……わたくしが最後ですのね」
高校一年生の頃からずっとぼんやりしていた五十鈴だったが、一番最後まで教室にいたことはなかった。初めてのことだなと何だか少し感慨深く思いながら、五十鈴は自分の席から鞄を回収し、そっと教室を出る。
「…………」
ドアを閉める前に五十鈴は一度足を止めて振り返った。橙色の夕焼けが染まる教室をぐるりと見回し、そして果歩の席で目を留める。
(……果歩さん)
彼女は本当に最初から存在していなかったのだろうか。五十鈴はぽつんとつぶやいて、何の特徴もない机を見つめる。果歩がいたのか、いないのか。それは全部明日になれば分かることだ。けれども五十鈴は何となく――本当にささやかな希望を込めて、いたらいいなと少しだけ思った。
五十鈴は事実を知ることにほんの少しの怖さと寂しさを感じつつ、ドアを静かに閉めたのだった。
* * *
学校を出た五十鈴は、腕に抱いたダンデの案内で『カフェ・フロスト』を訪れた。場所は学校からそう遠くない場所にある商店街の裏路地だ。本通りの途中から路地へと入って少し歩けば、氷の結晶をモチーフにした看板が揺れる小さな喫茶店が見えてきた。
学校の近くなこともあり、五十鈴もこの商店街にはそれなりに足を運んでいたものの、こんな場所があるとは初めて知った。建物の雰囲気もレトロな西洋風で好ましく、五十鈴はわくわくしながらカフェ・フロストのドアを開ける。
カランコロンと澄んだドアベルの音が響く。その音が店内に流れる静かで穏やかなピアノ曲を引き連れて、五十鈴の耳に届いた。心地良い音楽に五十鈴が目を細めながら中へ入ると、白く明るい室内が目に飛び込んできた。
とにかく白い。壁やカーテン、テーブルや椅子、調度品までも、すべて白系統の色で統一されている。また照明を含めてあちこちに、氷の結晶をモチーフにした飾りが煌めいていて、五十鈴はまるで冬を題材にした絵本の世界を訪れたような気持ちになった。
「はわぁ……」
思わず口を開けて目を輝かせる五十鈴に、腕の中のダンデがくすりと笑う。白猫姿の彼はゆるりと尻尾を揺らしながら、店の奥へと顔を向けて「ただいま戻りました」と声をかけた。
その声に五十鈴はハッと我に返って大慌てになりながらダンデを見下ろす。
「だ、ダンデさん!? しゃべって大丈夫なんですの!?」
「ええ、大丈夫でございますよ。どうかなさいましたか?」
「だ、だって、猫さんは人間の言葉をしゃべったりしませんのよ」
「何を仰います。猫もしゃべる時代でございますよ。ほら、動画でよく『ごはん』と言っているでしょう?」
「あれは空耳みたいなものではありませんの……!?」
しかも『ごはん』である。今の五十鈴にとっては少々敏感になってしまう言葉だ。
(まさか猫さんが異形なんてことは……)
ない、と言い切れない理由が腕の中のダンデである。世の中には知らない方が良いことが意外と身近にあるのだなと、五十鈴は妙な悟りを得た。
それにしても、先ほどからダンデは本当に平気な様子で人の言葉を発している。姿を猫に変えたのは目立たないようにするためだと言っていたのに、これではかえって目立つのではないだろうか。そう心配する五十鈴だったが、当の本人は相変わらずきょとんとしている。五十鈴は少々解せない気分になりつつ、ドキドキしながら店内を見回した。
するとどの席も空で、どうやら五十鈴達以外に客はいないようである。それどころか店員の姿も見当たらない。店の人間が不在なのは気になるが、客がいないのならば安心したと五十鈴は胸を撫でおろす。
「はぁ……良かったですわ……。でもダンデさん、お気をつけてくださいまし。もしも猫さんがしゃべっているところを誰かに見られたら、攫われて研究所コースですのよ?」
「……っ! もしや……もしやお嬢様、私の身の安全について心配してくださったのですか!?」
「え、ええ」
「な、何という光栄……!」
腕の中のダンデは、感極まった様子でぶるぶると震え始める。どうやら何かが彼の心の琴線に触れてしまったようだ。
(ダンデさんって、良く分かりませんわ……)
普通にしていれば紳士的な人なのに、時々どうしようもなく様子がおかしくなってしまう。こういう時は一体どうすれば良いのだろうかと、五十鈴が「ううん」と軽く唸りながら考えていると、
「そちらのお嬢さんの言う通りだ。大丈夫ではないぞ」
――店の奥から凛とした女性の声が響いた。
えっ、と五十鈴が顔を向けると、先ほどまで誰もいなかったカウンターの向こうに、白スーツに身を包んだ長身の女性が腕を組んで立っていた。強烈なまでに顔の整った、迫力のある美人だ。そこにいるだけで輝いて見える人とは、彼女のことを言うのかもしれない。
「綺麗な方……」
思わず、ぼうっと見惚れた五十鈴がそうつぶやけば、女性は悠然と微笑んだ。その破壊力の凄まじいこと。多幸感とでも言うのだろうか、微笑みを向けられると胸がきゅんとする。彼女の笑み一つで、五十鈴は今日一日の疲れが一気に吹き飛ぶような錯覚すら覚えた。
「げっ、オーナー……」
そんな五十鈴とは正反対に、ダンデの反応はよろしくない。出会った時から一度も聞いたことのないような声を零した彼は、猫の耳をへにょりと伏せた。ささやき程度の声量だったが、どうやらオーナーと呼ばれた女性の耳にも問題なく届いたようで、彼女はダンデの方をちらりと見た。そしてカウンターから出てくると、ヒールの音を響かせながら、こちらへ近付いて来る。
「げっ、とはずいぶんなご挨拶じゃないか。なぁ、ダンデ・ライオン?」
オーナーは顔に笑みを浮かべたまま、殊更ゆっくりとダンデの名前を呼ぶ。とたんにダンデの体がびくりと強張った。彼は五十鈴の腕の中で小刻みに体を震わせ始める。
「な、ななな、何でございましょう……?」
「何、ではないぞ? 普段あれほど私が、その姿になったら営業時間中は店内でしゃべるなと言っていたのに、君は一体何を聞いていた? その頭の耳は飾りか? 猫耳好きとは知らなかったなぁ、はっはっはっ」
「い、いえ、違うのですよ! 猫耳は……まぁ好きな方ではありますが、そうではないのです! どうせ店にはお客様なんて誰もいないだろうと思っていたので!」
「ほう? 説教が必要のようだな?」
「ひいっ! 口が滑った!」
ダンデは情けない悲鳴を上げて、逃げるように五十鈴の腕の中に頭を突っ込んだ。少しでも隙間へ入って身を隠そうとしているようだ。ダンデはその小さくてふわふわした頭を、五十鈴の体に必死に押し付けている。
異界での頼もしさは一体どこへ行ってしまったのか、今の彼はまるで普通の猫だ。五十鈴はあらまぁと苦笑しつつ、ダンデの体をそっと撫でてオーナーの方へと顔を向けた。
「あの、えっと……お邪魔しております。わたくし、藤原五十鈴と申します。先ほどダンデさんには大変お世話になりましたの」
「ああ、君がそうか。初めまして、五十鈴。私はアルヴェアーレ。アルヴェで構わない。君のことは、色々と話は聞いているよ」
「色々ですの?」
五十鈴はぱちりと目を瞬いて首を傾げた。自分には、他人の噂になるような有名な話はそれほどなかったはずだ。どういうことだろうと五十鈴が思っていると、アルヴェアーレは笑みを深め、右手で自身の前髪を持ち上げた。すると隠れていた額が露わになる。
――そこには三番目の目があった。
「美味しそうな香りの人間がいると、異形があちこちで噂をしているのを、この目で見ていたからな」
アルヴェアーレがにやりと笑うと同時に、額の目も愉快そうに細められる。それを見て五十鈴は「ひええっ」と悲鳴を上げて後ずさった。
「ああ、良い反応だ。最近の人間達は、映像やら特殊メイクやらの進化がどうのこうので、あまり驚いてくれないのだよ」
「オーナー……私の五十鈴お嬢様を怖がらせないでください」
「ダンデ、そういう台詞はお嬢さんの腕から出てから言うものだよ」
どうやらアルヴェアーレの機嫌は少しばかり良くなったらしい。ダンデに対する声がほんの少し柔らかくなっているのを聞いて、五十鈴は少しだけ肩の力が抜けた。
「い、異形さん……でしたのね?」
「ああ、そうだよ。だが安心したまえ。君は美味しそうだが、食べようなんて思っていないよ」
「ちっとも安心出来ませんの!」
「それはそうだ。あっはっはっ!」
アルヴェアーレは楽しそうに笑ってから、
「まぁ、立ち話もなんだ。とりあえず適当な席へ座りたまえ」
と、近くのテーブル席を指差した。




