第二話「残高と既読」
逃げ場は、なかった。
大地は、数歩の距離を空けたまま立っている。
近づいてこない。
でも、その距離が逆に詰められている気がした。
「……いつから見てたん?」
声がうまく出ない。
「最初から」
短い返事。
それで十分だった。
嘘をついた時間、全部。
見られていた。
「バイトって、どこの?」
責める声じゃない。
ただ確認するみたいな言い方。
それが一番きつい。
「……」
言葉が出ない。
頭の中では必死に探している。
通用しそうな嘘を。
でも、もう遅い。
「なんで、そんなに簡単に嘘つくん」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
“簡単に”。
簡単じゃない。
でも、考えるより先に出るだけだ。
「簡単ちゃうし」
反射的に言い返す。
「考えてるし」
言った瞬間、自分で分かる。
——またズレてる。
大地は一瞬だけ黙る。
「じゃあ、その“考えてる”って、どこ向いてるん」
答えられない。
自分でも分からないから。
沈黙が重くなる。
その間に、スマホがまた震えた。
ポケットの中で、何度も。
無視できないくらいに。
取り出す。
通知が並ぶ。
・カード会社
・消費者金融
・知らない番号
どれも、見たくない名前。
画面を閉じようとしたとき、また着信が入る。
今度は非通知。
反射で、体が強張る。
「出えへんの?」
大地が聞く。
「……関係ないやろ」
少しだけ強く言う。
触れてほしくない部分を守るみたいに。
着信は鳴り続ける。
無視する。
でも、音が頭に刺さる。
「……借りてるん?」
静かに聞かれる。
一番触れてほしくないところを、真っ直ぐに。
「別に」
即答。
「たいした額ちゃうし」
また嘘。
大地はそれ以上は聞かない。
でも、分かっている顔をしている。
その沈黙に耐えきれなくなって、口が動く。
「ちゃんと返すつもりやし」
誰に向けてか分からない言い訳。
「今ちょっとタイミング悪いだけで」
並べる。
聞かれてもいないのに。
「残高、いくらなん」
その一言で、全部止まる。
頭の中で、一瞬計算しようとする。
でも途中でやめる。
正確な数字を出したら、逃げられなくなるから。
「……覚えてない」
小さく言う。
これも半分嘘で、半分本当。
見ないようにしているだけだ。
大地は息を吐いた。
「俺、立て替えたやつもあるよな」
胸が痛む。
それには答えられない。
「返すって言ってたよな」
言葉が刺さる。
一つ一つが、逃げてきた事実。
「……返すって」
かすれる声で言う。
「思ってるし」
また“思ってる”。
現実じゃなくて、気持ちだけの話。
「思ってるだけやろ」
静かに返される。
否定できない。
そのとき、またスマホが震える。
さっきより長く。
しつこく。
画面を見る。
メッセージが一通。
『本日中にご連絡がない場合、法的手続きに移行します』
一瞬、視界が歪む。
読まなかったことにしたい。
でも、もう見てしまった。
「……どうしたん」
大地が覗き込む。
反射的にスマホを引く。
「なんでもない」
早口で言う。
でも、その動きで分かる。
隠していることがあると。
「見せて」
手を差し出される。
優しく。
でも逃げられない距離で。
「無理」
即答。
考える前に出た。
「なんで」
「無理なもんは無理やねん!」
声が荒くなる。
さっきと同じ。
追い詰められると、攻撃に変わる。
一瞬の沈黙。
空気が冷える。
「……分かった」
大地は手を引いた。
それが逆に怖い。
「でもな」
少しだけ声が低くなる。
「そのままやったら、ほんまに終わるで」
“終わる”。
その言葉が、妙に現実的に響く。
「終わってるし」
笑いながら言う。
自分でも分かる。
全然笑えていない。
「終わってるって思ってるやつは、そんな動きせえへん」
大地は静かに言う。
「まだいけるって思ってるから、また行くんやろ」
言い返せない。
全部当たっているから。
そのとき。
頭の中で、またあの感覚が戻ってくる。
——次、当たるかもしれん。
——今日負けた分、取り返せるかもしれん。
さっきのメッセージ。
借金。
大地。
全部が一瞬遠くなる。
「……帰る」
小さく言う。
逃げるために。
「どこに」
すぐに返される。
「……帰るとこ」
自分でも意味が分からない答え。
大地は何も言わない。
ただ、見ている。
その視線から逃げるように、歩き出す。
足は、無意識に決まっている方向へ向かう。
店のネオンが、遠くで光っている。
後ろから、声はかからなかった。
ポケットの中のスマホが、また震える。
でも、もう見ない。
その代わりに、別のことを考えている。
どの台に座るか。
いくらなら取り返せるか。
さっきまで「やめたい」と言っていたのに。
もう、その気持ちは薄れている。
「……ほんま、終わってるな」
呟く。
でも足は止まらない。
その夜、残高はまた減った。




