第一話 「また、嘘をついた」
財布の中身は、見なくても分かっていた。
軽い。
それでも沙紀は、パチンコ台の前から動かなかった。
指先が、わずかに震えている。
寒いわけじゃない。
むしろ店内は暑いくらいだ。
分かっている。
もう無理だってことも、ここに座り続ける意味がないことも。
全部、分かっている。
——それでも、立てない。
「あと千円あれば…」
口に出して、すぐに後悔した。
その言葉を何回使ったか、もう覚えていない。
“あと千円”で何か変わったことなんて、一度もない。
それでも、毎回同じことを思う。
今日こそは、違う気がする。
根拠なんてない。
でも、その“違う気がする”だけで、ここまで来てしまう。
隣の席の男が立ち上がる。
ドル箱を持っている。
視界の端に入っただけなのに、意識が全部そっちに持っていかれる。
——いいな。
その一瞬の感情に、吐き気がした。
他人の勝ちを羨む自分。
それが普通になっていることが、もう普通じゃない。
画面が止まる。
外れ。
もう何回目か分からない。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
勝てる気なんて、とっくにしていない。
それでもやめられない。
理由なんて、もうない。
ただ、やめられないだけ。
スマホが震えた。
ポケットの中で、何度も。
取り出す。
画面には、同じ名前が並んでいる。
「大地」
三件の着信。
その下に、メッセージ。
『今どこ?』
『今日、話せる?』
『無視せんといて』
喉の奥が詰まる。
既読をつけるか、少しだけ迷う。
迷っている時点で、もう答えは決まっている。
画面を閉じる。
見なかったことにする。
——どうせ、また同じ話や。
頭の中で、言い訳が始まる。
・ちゃんと返すつもりはある
・今はタイミングが悪いだけ
・少し勝てば、全部戻せる
全部、何回も使った言葉。
でも、今も同じように使っている。
席を立つ。
足が少しふらつく。
長時間座っていたせいか、それとも別の理由か。
考えないようにする。
考えたら、余計にしんどくなるから。
外に出ると、夜だった。
空気が冷たい。
でも、頭の中はまだ店の音でうるさい。
キンキンした音が、耳の奥に残っている。
スマホをもう一度見る。
さっきと同じ画面。
同じ名前。
同じメッセージ。
指が勝手に動く。
通話ボタンを押していた。
コールは一回で繋がる。
「……もしもし」
声が少しだけ掠れている。
『今どこ?』
落ち着いた声。
怒っている感じはない。
それが、逆にきつい。
「バイト。まだ終わってない」
一秒も迷わず、嘘をつく。
考える前に出た。
自然すぎて、自分でも怖くなる。
少しだけ、間が空く。
『そっか。お疲れ』
責めない。
疑わない。
ただ受け入れる。
その優しさに、胸がざわつく。
「うん、じゃあ切るね」
早く終わらせたくなる。
これ以上話したら、どこかで崩れる気がする。
『待って』
少しだけ強くなる声。
逃げ道を塞がれる感覚。
『昨日の話、覚えてる?』
一瞬で分かる。
金の話だ。
返済の。
「今忙しいって言ってるやん」
少しだけ語気が強くなる。
先に壁を作る。
これ以上踏み込ませないために。
『…沙紀、逃げてるだけやろ』
その一言で、頭が熱くなる。
「は?」
『ちゃんと向き合わな、また同じこと——』
「何が分かるん?」
気づけば声が大きくなっていた。
通りすがりの人が、ちらっと見る。
でも止まらない。
「毎日毎日、正しいことばっか言ってさ」
言葉が止まらない。
「何も知らんくせに」
本当は、少しは知っているのに。
それでも、そう言わないと保てない。
『……分からんよ。でも——』
「分からんなら口出さんといて」
言い切る。
逃げるために。
通話を切る。
指先が少し震えている。
でも、それを無視する。
静かな夜道。
さっきまでの音が嘘みたいに消えている。
その静けさが、逆にしんどい。
ベンチに座る。
ポケットの中の小銭が当たる。
チャリン、と軽い音。
それだけで、少しだけ落ち着く。
「……終わってるな」
小さく呟く。
自分に向けて。
その言葉の直後。
頭の中に、別の声が浮かぶ。
——でも、まだいけるやん。
——次で取り返せるやん。
さっきまでの反省が、薄れていく。
罪悪感と一緒に。
「あと一回だけ」
口に出す。
何度も使ってきた言葉。
「次で、やめる」
根拠はない。
でも、それで自分を納得させる。
立ち上がる。
足は自然と、店の方を向いていた。
——そのとき。
「バイト中ちゃうん?」
後ろから声がした。
体が固まる。
ゆっくり振り返る。
そこにいたのは、大地だった。
逃げ場は、なかった。




