第三話 時として男には、湯気越しの戦争がある
村のスパ銭。湯気が白く立ちのぼり、岩風呂の奥では桶がからんと転がり、誰かが置き忘れた手ぬぐいが湯面をゆっくり漂っていた。
パパンが洗い場で銀白の髪をざぶりと濡らし、桶の湯を頭からかぶった。神主としての禊ぎの所作にも見えるが、本人はただ熱いから水でうすめたかっただけである。隣の岩風呂に周作と定吉が並んで肩まで沈み、沖田と土方は石垣の上に座って前足を湯につけたり離したりしていた。ブルファンゴだけは少し離れた打たせ湯の下で、巨体に湯を打たせて唸っている。
AとBが先に入っていて、湯気の向こうで何やら言い合っていた。何の話かと思って周作が首を伸ばすと、Aが顔をしかめてこちらに振り向いた。湯気の濃淡で全身がぼやけていたが、そのぼやけた中でも、ある一点の輪郭だけが妙に主張していた。
その向かいに、浅利がいた。
長い黒髪を頭の高い位置でざっくり結って、首筋まで湯気で湿らせ、長方形の眼鏡だけは外しているのに、目の鋭さは外れていなかった。湯面から鎖骨の下までが見えて、薬師の細身の体がいかに鍛えられているかがわかった。狙撃手は、引き金以前に呼吸と体幹で勝負する。その鍛えがそのまま体に出ていた。
ただ、今夜の男湯で問題になっているのは、鍛え方ではなかった。
Aは湯船の縁に肘を置いたまま、浅利の方を見て硬直した。
「うおっ、浅利、何それ凶器? マジで狂気なんだが」
浅利は濡れた髪を後ろへ流し、眉ひとつ動かさずにAを見た。
「やめてください。野郎に言われても嬉しくありません。丁寧に死になさい」
Bが湯気の向こうから身を乗り出し、目を細めた。
「キングギドラかよ。東宝怪獣か、その股間は」
「B。あなたも丁寧に死になさい」
浅利の声は涼しかった。風呂場の温度だけがむやみに高い。
その瞬間、周作、定吉、パパンが湯船の中へ沈んだ。ぶくぶくぶくぶく、と三人分の泡が上がった。顔がよくて下半身が平均値より大きい男なんて皆滅びればいいのに、という呪詛である。まごうことなき呪詛である。
ぶくぶくぶくぶく。
ぶくぶくぶくぶく。
ぶくぶくぶくぶく。
「……顔がよくて」
周作が湯面の下から呟いた。
「下半身が平均値より大きい男なんて」
定吉が続けた。
「皆滅びればいいのに」
パパンが締めた。
沖田が桶を抱えたまま、湯面の泡を見下ろした。
「呪詛吐いてるにゃ」
土方も隣にしゃがみ込み、尻尾のように手ぬぐいを揺らした。
「器の小ちゃいニンゲンハンターたちにゃ」
周作が水面から顔を出した。髪が額に張りつき、目だけがやけに真剣だった。
「父上、できることならご先祖様に掛け合って遺伝子組み換えをお願いします」
定吉も続けて浮上した。こちらも目が据わっている。
「具体的には下半身だけピエールになりたいです。フランス産が理想値です」
パパンは湯に肩まで浸かり、ものすごく申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね、周作、定吉。うち桓武平氏で、鎌倉で常胤が六人の息子に所領を分けてから全国に散って、それがうちのご先祖様なんだけど。神社の妙見様までそんな加護があるなら、なんぼでも金払うって……」
Aが湯船の縁を叩いた。
「神頼みの方向性が最低なんだよ」
Bが頷いた。
「子孫繁栄を字面通りに受け取りすぎなんだよ、妙見様も困るわ」
沖田がぱしゃぱしゃと湯を蹴った。
「妙見様も受付窓口で固まるにゃ。『え、そこですか?』ってなるにゃ」
土方が真顔で頷く。
「申請理由が煩悩すぎるにゃ」
周作はそれでも引かなかった。湯船の中で背筋を伸ばし、父上を見る。
「父上、僕は剣の道に逃げてきました。ですが、今日ほど剣では届かない壁を感じたことはありません」
定吉も拳を握った。
「兄上、僕もです。槍でも届かないかもしれません」
浅利が静かに目を伏せた。
「何の話をしているんですか。至って普通ですから、普通」
AとBが同時に浅利を見た。
「「普通ではない」」
浅利の目が冷えた。
「A、B。そろそろ本当に沈めますよ」
パパンが気まずそうに咳払いした。湯気の中で白い髪がふわふわしている。
「僕が言えるセリフじゃないけど、サイズじゃないと思うんだけど……とはいえ、僕も野郎だから」
周作と定吉が無言で父上を見る。
「父上、今のひと言で台無しです」
「いやでも、わかるんだよ気持ちは。わかるからこそ、ご先祖様に掛け合っても無理だと思うんだ」
「なぜですか」
「平氏の祖先、だいたい武辺者だったから、たぶんそっち系の祈祷したら下半身じゃなくて拳が大きくなる」
「父上」
「鎌倉武士、拳がデカい」
「父上、そういう問題じゃないです」
湯気の向こうで、浅利がゆっくり目を開けた。湯面に映った自分の影を一度だけ見て、それから穏やかに息を吐いた。
「至って普通ですから、普通」
パパンは遠くを見た。村のスパ銭の天井に描かれた富士山の絵を見ているようで、実際には男としての業を見ていた。
「生まれつきそのサイズだったら、古龍と間違えて討伐隊を組んでるよ」
周作と定吉の目に火が入った。
「父上」
「兄上」
二人は湯船から立ち上がった。桶が転がり、沖田と土方が耳を伏せる。
周作が言った。
「ちょっと装備を整えてきます」
定吉も頷いた。
「僕はハンマーで行きます」
浅利が顔を上げた。
「待ちなさい。何を討伐する気ですか」
「ちょっと装備整えてきます」
「父上、お先に失礼します」
「君らどこに行くの」
「武具屋です」
「夜中に開いてないでしょ」
「叩き起こします」
「兄弟二人で武具屋を叩き起こす理由が下半身のサイズって、君ら、明日になったら絶対後悔するよ」
「後悔しても今夜の屈辱は消えません」
「父上、僕たちには名誉があります」
「兄弟の名誉を下半身に置かないでくれる? 千葉家、もう少し別の場所に名誉あるよね?」
「ありますけど、今夜はここに賭けます」
「賭けないで」
Aが腹を抱えた。
「浅利、逃げろ。村の男どもが集会所クエスト受注したぞ」
Bが湯船の端から叫ぶ。
「クエスト名は『村のスパ銭に現れし三首の古龍』だな」
浅利は濡れた手ぬぐいを静かに絞った。
「あなた方全員、湯冷めする前に正座です」
沖田がぱっと手を上げた。
「にゃーは観戦するにゃ」
土方も手を上げる。
「にゃーも採取クエストにするにゃ。落とし物拾うにゃ」
浅利は二匹を見た。
「沖田、土方。あなた方も正座です」
「にゃああああ理不尽にゃ!」
「にゃーたちはただの温泉客にゃ!」
パパンは湯船の中で頭を抱え、周作と定吉はもう半分ほど脱衣所へ向かっていた。AとBは笑いすぎて湯船に沈み、浅利だけが村のスパ銭の真ん中で、湯気より冷たい顔をして立っている。
「妙見様、星の神様だから、星の数だけ願いを聞いてくれる」
「内容を聞いたら星も逃げますよ」
「逃げないよ。神様、慈悲深いから」
「慈悲の使いどころが間違ってます」
脱衣所の方から、周作と定吉の足音が遠ざかっていった。下駄の音が二つ、夜の村道に出ていって、武具屋の方へ消えていった。沖田が石垣の上でしっぽを揺らして、ぽつりと言った。
「武具屋のおっちゃん、起きてくれるかにゃー」
「起きるにゃ。あの兄弟、本気だから」
「本気の理由、下半身にゃ」
「武具屋のおっちゃん、明日、村中に言いふらすにゃ」
「言いふらされたら、にゃーたちもう湯屋に来れないにゃ」
「平気にゃ。もう手遅れにゃ」
ブルファンゴが打たせ湯の下から、低く笑った。湯気が一段と濃くなった。湯屋の天井に、誰のものでもない呪詛がぼんやり溜まって、軒先から外へ抜けていった。
浅利は静かに湯に沈み、目を閉じた。眼鏡のない顔は、湯気の向こうでただの男だった。ただの男なのに、湯面の下の輪郭が、相変わらず一点だけ、はっきりしていた。
Aが湯から肘をついて、ため息をついた。
「……浅利」
「何ですか」
「お前、来世は普通になれよ」
「Aこそ、来世はもう少し口を慎みなさい」
「無理だ」
「私も無理です」
「わかってる」
湯気がもう一度、ふわりと渦を巻いた。
遠くで、武具屋の戸を叩く音がかすかに聞こえた。二回、三回、四回。叩き方が、若い兄弟の本気の叩き方だった。湯屋の男たちは全員、その音を聞いて、誰も止めなかった。
パパンがぶくぶくと湯に沈みながら、ひと言だけ呟いた。
「……ごめんね、周作、定吉」
謝罪の方向は、たぶん、ご先祖様の方を向いていた。




