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第一話・後編「朝の散歩と申します」

挿絵(By みてみん)

浅利ん家の引き戸が、勢いよく開いた。

正確には、「開いた」というより「押しのけられた」に近かった。引き戸の規格がそもそも通常の成人男性を基準に設計されているため、百八十六センチという規格外の物体が二つ同時に通ろうとすると、わずかに時間差が生まれる。

その時間差を埋めるように、Bが先に肩を入れた。

「おい浅利、飯あるか」

開口一番、それだった。


AB、という呼び方をする。

千葉家の面々がそう呼ぶので、そう呼ぶしかない。正式には、Aが上泉信綱。Bが伊藤一刀斎。どちらも四十八歳。どちらも百八十六センチ。どちらも、浅利ん家の引き戸を開けるとき一瞬だけ頭を傾けることを覚えていない。

Aは黒髪が逆立っていた。

逆立っているのが普通なのか、今朝何かあって逆立ったのかは、表情からは読み取れなかった。赤いジャケットの右肩に、何か黒っぽいものが擦れたような跡があった。白いTシャツの裾が少しだけ外に出ていた。それ以外は普通だった。普通、というのが千葉家基準の普通だが。

Bは茶髪で、顎に無精髭があった。

黒いレザージャケットの肩当てのところに、引っかいたような傷が入っていた。ニヤリとした表情のまま靴を脱いでいたが、その右手の指の甲が少し赤かった。

「あります」

浅利が台所から答えた。声が平坦だった。驚いていない声だった。

「いつ来てもいいって言ってませんよね」

「言ってないな」

「ですよね」

「でも飯ある」

「あります」

Aが先に上がり込んで、茶の間に腰を下ろした。正座ではなかった。胡座でもなかった。片膝を立てた、かつてゴロツキと呼ばれた種族に特有の座り方だった。

定吉が素早く視線をそちらに向けた。一秒で内容を把握した。

「……Aさん、右肩のそれ」

「ん?」

「黒いの、なんですか」

Aがちらりと肩を見た。

「古龍」

「血ですか」

「体液かな」

「どっちでもよくないと思いますけど」

「拭けば落ちる」

浅利が台所から出てきた。眼鏡を押し上げながら、Aの肩を一瞥した。それだけで全部わかったらしかった。黙って濡れ布巾を一枚、Aの前に置いた。

「古龍、どこで」

「観測所の東」

「また縄張りが広がっていますね。標本採れましたか」

「採った。冷却袋に入れてある」

「後で受け取ります」

「あいよ」

会話が成立していた。

周作は茶碗を持ったまま、この光景をどこか遠いものを見る目で眺めていた。生まれたときから浅利ん家に出入りしているABが、こういう会話をすることには慣れていた。慣れていたが、朝ごはんの席で「古龍の体液」という単語が出てくることには、二十歳になった今でも少しだけ面食らった。

Bがどさりと座って、大根の漬物を一切れ箸で取った。

「もらうぞ」

「どうぞ」

「パパンいるか」

「神社にいると思ってたんですが」

浅利が振り返ろうとしたとき、縁側の方から引き戸の音がした。

今度は静かな音だった。

さっきのABのそれとは全然違う、控えめな音だった。

「浅利ー、変若水持ってきたけど置く場所どこ」

パパンだった。

百八十二センチの銀白くせ毛がひょっこり顔を出して、左手に変若水を数本まとめて持っていた。右手に丸眼鏡があった。外してたらしかった。いつ外したんだろう、と周作は思った。

Aがそちらを見た。

「よっパパン」

「よっ」

パパンが普通に答えながら上がって来た。変若水を縁側に置いて、Bの隣に腰を下ろした。丸眼鏡をかけた。それからABを交互に見た。

「古龍?」

「東の縄張り、広がってた」

「大きかった?」

「そこそこ」

「二人で?」

「二人で」

「そっか」

これで会話が終わった。

端から見ると情報量が少なすぎる会話だった。しかしパパンとABの間では、この五往復で必要なことは全部伝わっていた。確認したのは三点。場所と規模と人的被害の有無。全部問題なしと判断した。それだけだった。

浅利が人数分の茶碗を追加で並べた。味噌汁の鍋を火にかけ直した。

「A、B、怪我は」

「俺はない」とA。

「指の甲、少し」とB。

「後で診ます」

「大げさだろ」

「大げさではありません」

B が眼鏡を押し上げる浅利を横目で見ながら、漬物をもう一切れ取った。

「浅利は変わんないな、飯の作り方も、言い方も」

「変わる理由がないので」

「それも変わんない返し方だ」

「そうですか」

浅利が白米を Bの前に置いた。Bは「あ」という顔をしたが声には出さなかった。受け取った。米を一口食べた。それだけで表情が少し緩んだ。

Aがそれを横で見ていた。

「毎朝ここの飯食えてな、幸せじゃねぇか」

「公務員寮にキッチンをつけさせればいいんです」

「申請通らねぇんだよ」

「備品申請ではなく設備改修申請で出してください。申請番号と書式が違います」

「……お前それ調べたの」

「Bさんがカップ麺を三日連続で食べていたので」

Bが箸を持ったまま固まった。

「見てたのか」

「見ていました」

「……いつ」

「三日とも」

「一回も気づかなかった」

「気づかせていません」

定吉がぽつりと言った。

「浅利先生って元狙撃手でしたっけ」

「そうですよ」

「カップ麺食べてるのも狙撃してたんですか」

「概念的な意味で」

「意味が怖いです」

Aが豪快に笑った。

「ガハハ、浅利らしい!」

笑い声が茶の間に響いた。障子がかすかに振動した。周作が肩をすくめた。定吉が耳をちょっと塞いだ。パパンは何でもない顔で笑っていた。

Bが静かに言った。

「うるせぇよ朝から」

「うるさくない。元気なだけだ」

「同じだ」

「違う」

「どう違う」

「元気は美徳だ。うるさいは他人への被害だ」

「お前が言うな」

「俺は元気なんだよ」

浅利が二人の前に味噌汁を置いた。AとBが一瞬だけ黙った。湯気が立っていた。

Aが一口飲んだ。

「……甘い」

「信州白麹です」

「旨い」

「存じています」

Bも飲んだ。何も言わなかった。でも表情が変わった。

それで十分だった。浅利はすでに台所に戻っていた。


しばらくの間、茶の間には五人いた。

パパン百八十二センチ、浅利百八十五センチ、A百八十六センチ、B百八十六センチ、周作百七十五センチ、定吉百七十二センチ。

全員並ぶと、段差になった。

「なんか測ったみたいですね」

定吉がぼそっと言った。

「何が」とパパン。

「身長の段差。全員立つと六段くらいあります」

「そうか」

「父上がいちばん低い」

パパンの箸が止まった。

「……そうか」

「そうですよ」

「……浅利より低いの、最近気になってたんだけど」

浅利が台所から言った。

「身長は遺伝で決まりますので、気にされても」

「じじどんはもっとでかかったんだよ、なんで俺だけ」

「成長期の栄養状態では」

「そんなはずない、ちゃんと食べてた」

Aが豪快に言った。

「パパン、俺たちの中じゃ一番低いけど、世間じゃでかい方だろ」

「そりゃそうだけど」

「いい話だろ」

「よくない」

「なんで」

「こいつら」

パパンが顎でABを指した。

「でかすぎんだよ二人とも。なんで同い年でこんなに差がある」

「骨格だろ」とB。

「骨格の差が四センチか」

「四センチは誤差だろ」

「誤差じゃない」

「誤差だ」

「誤差じゃない!」

浅利が台所から言った。

「三人とも朝からやかましいです」

三人とも黙った。

周作と定吉が顔を見合わせた。

定吉が小声で言った。

「浅利先生だけ誰にでも通じるんですね」

周作が小声で返した。

「先生はそういう人だから」

二人で静かに飯を食った。


AがBの指の甲をちらりと見た。

「そっちの傷、でかくないか」

「大したことない」

「浅利に診てもらえ」

「後でいい」

「今でいい」

「飯食ってから」

浅利が台所から出てきた。Bの前に薬の小瓶を一本、無言で置いた。

「食べながら塗れます」

「……」

「右手が使いにくいなら手伝います」

「使える」

「では自分でどうぞ」

Bがしぶしぶ小瓶を取った。蓋を開けた。

「これ痛い?」

「少し沁みます」

「先に言え」

「言いました」

「今言った」

「そうですね」

Bが腹立たしそうな顔で傷口に塗った。

一秒後に眉が寄った。

「……沁みる」

「言いました」

「少しじゃない」

「個人差があります」

Aがにやにやしていた。

「だから言ったろ、素直に最初から診てもらえって」

「うるさい」

「素直じゃないからだぞ」

「うるさい」

パパンが味噌汁を飲みながら、AとBを交互に見た。それから浅利の背中を見た。浅利は台所で何かの下ごしらえをしていた。ガンランスの砲身が、台所の天井近くに格納されていた。朝の光が砲身の金属面に反射して、小さく白く光っていた。

「浅利」

「はい」

「今日も変若水採れた、標本いくつ必要?」

「八本あれば実験ができます」

「今朝五本あった」

「あと三本、採れますか」

「採る」

「ありがとうございます」

「古龍の体液も採れるなら採ったほうがいい?」

「Aが持ってきてくれました」

「そっか」

「助かりました」

Aが鼻の頭をかいた。

「べつに大したことじゃねぇ」

「大したことです」

「言い過ぎ」

「言い足りないくらいです」

Aが少しだけ照れたような顔をした。百八十六センチの男が照れると、不思議と微笑ましかった。Bがそれを横で見て何も言わなかった。言わない代わりに、漬物をもう一切れ取った。

定吉がほぼ完璧な無表情で言った。

「Aさんが照れてる」

「照れてない」

「照れてますよ」

「うるさい、若造が」

「若造で正解です、十八ですから」

「……若いな」

「そうですよ」

「俺にも十八の頃があったんだがな」

「どんな十八でしたか」

Aがちょっと遠い目をした。

「人を、だいたい毎日一人くらい殴り倒してた」

「倒してた」

「倒してた」

「どういう十八歳ですか」

「普通だろ、俺らの間じゃ」

「普通じゃないです」

パパンが言った。

「普通だったよあの頃は」

「父上もそうでしたか」

「そうだった」

「……うちの一家は普通の基準がおかしい」

「おかしくない」

「おかしいです」

浅利が台所から言った。

「おかしいです」

パパンが天を仰いだ。


朝ごはんが終わった。

浅利が食器を下げ始めた。周作が手伝おうと立った。定吉がAの横に座ったまま、財務の計算を始めた。どこから取り出したのかわからない帳簿が、もうBの横に開かれていた。

Bが帳簿を横目で見た。

「また計算してるのか」

「してます」

「休んだらどうだ」

「休んでいません、父上とは違って」

「俺は休んでない、討伐してた」

「討伐は趣味ですよね」

「仕事だ」

「古龍の体液を標本にするのが仕事ですか」

「観測も兼ねてる」

「言い訳が上手ですね」

Bがニヤリとした。

「お前もな」

「ありがとうございます」

「褒めてない」

「存じています」

Aが立ち上がって、伸びをした。天井まで、あと少しだった。本当に少しだった。

「浅利、稽古は午後か」

「午後の三時から、周作の型を一本見ます」

「混ぜてもらえるか」

「どうぞ。ただし本気を出すのは禁止です」

「わかってる」

「Bも」

「わかってる」

「パパンも」

「わかってる」

「三人とも本気が止められないので言っています」

三人が同時に黙った。

定吉が帳簿から目を上げた。

「言い返せなかったですね、三人とも」

「うるさい」と三人同時に言った。

浅利が台所から出てきて、眼鏡を押し上げた。

「では午後三時に稽古場で。それまでは各自の仕事をしてください」

「はい」

素直に三人が返事をした。

周作が廊下から顔を出した。

「……先生、すごいですね」

「何がですか」

「あの三人が素直に返事する」

「返事くらいはしますよ」

「してること自体がすごいです」

浅利が少しだけ口元に何かを浮かべた。

「慣れです」


Aが縁側に出て、遠くを見た。

空は青かった。東の方角に山があって、その頂に今朝討伐した方向の空気が、まだかすかに揺れていた。気のせいかもしれなかった。

Bが隣に来た。

「観測所、今日もか」

「午後から一本回りたい」

「わかった」

二人でしばらく黙っていた。

パパンが縁側に出てきた。百八十二センチが二人の百八十六センチの間に立った。それで三人並んだ。

「なに見てんの」

「山」とA。

「あー」とパパン。

三人でしばらく山を見た。

浅利ん家の薬草畑が、朝の光の中で青く揺れていた。遠くで鳥が鳴いていた。定吉の帳簿のページをめくる音が、茶の間から聞こえた。周作が食器を洗う水の音がした。

Bが言った。

「今日も平和だな」

「そうだな」とA。

「そうだね」とパパン。

どちらも遠くを見たまま言った。

平和、という言葉の重さを、三人ともわかっていた。わかっていて、それでもこの言葉を使った。使える日が来たから、使った。それだけだった。

浅利が縁側に茶を三つ持ってきた。

「どうぞ」

「あ、ありがとう」

「作ってもらって悪いな」とB。

「かまいません」

浅利も縁側に立った。四人になった。百八十六、百八十六、百八十五、百八十二。

段差があった。

でも並んでいた。

朝の光の中で、薬草畑の向こうの山を、四人で見ていた。


バカしかいないバカが紡ぐ千葉家クロニクル


身長確認(第一話)

上泉信綱(A)── 186cm。体液まみれで登場。古龍を朝の散歩と言う。

伊藤一刀斎(B)── 186cm。カップ麺三連続が看破される。指の傷をぎりぎりまで我慢する。

浅利又七郎義明(浅利)── 185cm。全員を制御できる唯一の存在。カップ麺も古龍体液も全部把握済み。

千葉忠左衛門成胤パパン── 182cm。四人の中では最も低い。本人、やや気にしている。

千葉周作(周作)── 175cm。観察力が高い。

千葉政道定吉(定吉)── 172cm。合理性が高い。

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