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第一話「神主と素振りと、よく晴れた朝」

挿絵(By みてみん)

世界には、入ってきただけで空気が変わる人間がいる。

良い意味で変わる場合と、悪い意味で変わる場合と、どちらとも言えない意味で変わる場合がある。

千葉忠左衛門成胤という男は、三番目の種類だった。


午前四時。

境内に、竹箒の音がしていた。

シャ、シャ、シャ、と一定のリズムで。乱れない。速くもなく遅くもなく、夜明け前の冷えた空気の中を、その音だけが動いていた。

掃いているのは、銀白のくせ毛をした男だった。

身長は百八十センチ。白い小袖に緑の羽織、赤い帯。神主の装束をきちんと着ているのに、どこかゆるく見えた。帯の結び目が一ミリだけ左に寄っているせいかもしれなかった。あるいは、丸眼鏡のせいかもしれなかった。銀縁の丸い眼鏡は、この男の顔に乗っかるとどうしても「可愛い」の方向に転んだ。

本人は知っていた。

知っていて、特に訂正もしていなかった。

千葉忠左衛門、通称パパン、四十八歳。

千葉家当主。自宅敷地内にある神社の神主。元カジュアル人殺し系ゴロツキ。現在は褒め育て全振りの過保護な父親。

竹箒を一区切りのところで止めて、空を見上げた。

まだ暗かった。東の端が、ほんのわずかに白んでいた。この時間の空の色に、名前があるかどうかを、パパンは知らなかった。名前がなくても空は毎朝この色になるから、名前はなくてもいいとも思っていた。

箒を縁側に立てかけた。

深呼吸を一回した。

それから、双剣を取った。


素振り、千本。

これが毎朝の話だと言うと、大抵の人間は信じない顔をする。千本という数が嘘くさいのではなかった。それよりも、この男が毎朝四時に起きて、真っ暗な境内で一人で千本やっているという事実の方が、なぜか信じてもらえなかった。

見た目の問題だった。

丸眼鏡と銀のくせ毛と、赤い帯と、柔らかい笑顔の男が、双剣を手に取ると、空気が変わった。

ゆるさが、消えた。

帯の結び目が一ミリ左に寄っていることも、丸眼鏡が可愛い方向に転んでいることも、全部関係なくなった。手が変わった。目が変わった。立ち方が変わった。

ゴロツキ一番。

殺気の制御ができないことで有名な男が、制御しながら振っているから、かえって静かだった。制御しているものの重さが、静けさの密度になっていた。

一本目。

風が切れた。

二本目。

また切れた。

境内の木が、風もないのにかすかに揺れた。

三百本を超えた頃から、パパンの表情が少しずつ変わっていく。緩んでいくのではなく、削れていく。柔らかいものが削れて、その下にあるものが顔を出す。

それが、この男の本体だった。

やがて、東の空が本格的に白んできた。

千本、終わった。

パパンは双剣を収めた。ゆっくりと。乱れた呼吸を整えながら。それから神棚の前に立って、二礼二拍一礼をした。丁寧に、時間をかけて。

「今日もよろしく」

呟いた声は、誰にも聞こえなかった。

聞こえた必要はなかった。


六時を回った頃、境内の隅に変若水が生えていた。

昨日はなかったはずだった。

「……また生えた」

パパンは湯飲みを持ったまま、縁側にしゃがんで眺めた。変若水というのは本来そのへんに生えているものではないのだが、パパン神社の境内はときどきこういうことが起きる。神気が漏れ出して、不思議なものが勝手に映えてくる。精進料理が生えたこともあった。Wi-Fiが生えたこともあった。先週はFAX機能が生えた。

「とりあえず収穫しとこ」

湯飲みを置いて、両手で丁寧に摘んだ。

これが晩酌代わりになる。一滴の酒も飲めない体質のパパンにとって、境内産の変若水は数少ない夜のたのしみだった。飲むと温かくなる。それだけでいい。それで十分だった。

玄関の方から、音がした。

引き戸を開ける音。それから足音。二人分。片方は少し重くて、片方は軽かった。

「父上ー」

定吉の声だった。十八歳の次男の声は、朝から機嫌がよかった。こちらに向かってくる足音も速かった。

「おはよ」

パパンが振り返りながら言った。

縁側の角を曲がってきた定吉は、茶髪と明るい顔と、暗い紫の着物に帯刀という出立で、ちょうど好奇心いっぱいの顔をしていた。何かを見つけたときの顔だった。

「また生えてますね、変若水」

「生えてた」

「摘んでる」

「摘んでる」

「……昨日より多くないですか」

「多い」

「なんで」

「わからん」

「神社ですよねここ」

「知ってる」

定吉がしゃがんで変若水の一本を手に取り、まじまじと見た。指で軽くつついた。それから父親の顔を見た。

「浅利先生が来たら報告しますね」

「お願い」

「父上も何か言っておいたほうがいいんじゃないですか、当主なんですから」

「何て言うの」

「知りません」

二人で少しの間、変若水を眺めた。

朝の空気が、境内に満ちていた。


「父上」

今度は別の声だった。

少し低くて、穏やかで、線の細い声だった。

周作だった。

二十歳の長男は、黒髪に緑の着物で、縁側から半分だけ顔を出してこちらを見ていた。柔らかい微笑みが、父親の顔に少しだけ似ていた。似ているのに全然違う顔だった。こちらのほうが繊細で、こちらのほうが整っていて、こちらのほうが「死にそう」と言われることが多かった。

「浅利先生から、もう出たそうです」

「あ、そう」

「朝ごはん、一緒に食べますか」

「食べる食べる」

パパンはしゃがんだ体勢のまま、ぱっと顔が明るくなった。この切り替わりの速さが、この男の素でハイテンションたるゆえんだった。変若水を見ていた顔が一秒で消えて、息子たちと朝ごはんを食べる顔になった。

「なに作ってくれんの」

「浅利先生に聞いてください、作るのは先生なんで」

「薬草入り味噌汁?」

「だいたいそうじゃないですか」

「だし巻き?」

「父上が好きなもの聞いてどうするんですか」

「食べる気分が上がるじゃん」

定吉が立ち上がりながら言った。

「父上の浅利先生への依存度がだいぶやばいですよね」

「依存じゃなくて信頼」

「同じじゃないですか」

「違う」

周作が縁側から降りてきた。二人の間に立って、変若水を一本見た。

「……また生えてますね」

「生えてた」

「先生に報告します」

「定吉も同じこと言ってた」

「父上から言ってください」

「なんで」

「当主なんですから」

「定吉と全く同じこと言った」

周作と定吉が顔を見合わせた。それから二人とも父親を見た。

パパンは変若水を一本持ったまま、のほほんとした顔で二人を見ていた。

銀白のくせ毛が、朝の光を受けて少しだけ白く光っていた。丸眼鏡が、朝日を反射してきらっとした。

「とりあえず中入ろ、寒いし」

「そうですね」

三人で縁側を上がった。

引き戸を開けた瞬間、パパン神社の中から朝の匂いがした。古い木の匂いと、どこかから漂ってくる出汁の匂い。それから遠くに、薬草のかすかな青さ。

浅利が来ていた。

台所の方から、包丁の音がした。

パパンの顔が、もう一段階明るくなった。

「浅利ー、変若水またいっぱい生えてたー」

「見ました。標本にします」

「どんな標本」

「学術的な標本です。境内で変若水が自然発生するのは世界初事例の可能性があります」

「えっすごい」

「すごくないです当主としての危機感を持ってください」

「もつ」

「今持ってください」

「持ってるよ今」

「顔が全然持ってないです」

周作が小さく笑った。定吉も笑った。

パパンだけが、なぜか真剣な顔を作ろうとして、三秒でもとに戻った。


朝ごはんは、薬草入り味噌汁と、だし巻き卵と、焼き魚と、白米だった。

四人で囲んだ。

浅利が味噌汁を全員の前に置きながら言った。

「昨日の境内の東側に、新しい薬草が生えています。成分が特定できていないので、当面は触らないように」

「触らない」

「父上が一番触りそうなので、父上に言っています」

「わかった触らない」

「お願いします」

定吉が箸を持ちながら言った。

「変若水と薬草と、昨日はWi-Fiが生えてましたよね」

「生えてました」

「神社ってそういうもんなんですか」

全員がパパンを見た。

パパンは味噌汁を一口飲んでから、穏やかに言った。

「よくわからん」

「当主がそれでいいんですか」

「妙見様に聞いたら『そのへんに置いといて』って言われた」

「置いといてって何が」

「わからん」

しばらく、みんなで朝ごはんを食べた。

箸の音と、味噌汁の器を置く音と、外の鳥の声だけがあった。

パパンは白米を食べながら、縁側の外の空を少しだけ見た。朝の光が、境内の石畳を照らし始めていた。変若水が一本、光の中でかすかに揺れていた。

何の意味があるのかはわからなかった。

わからなくても、今朝も境内は綺麗で、息子たちは飯を食っていて、浅利の味噌汁は甘口で、空気は冷たく澄んでいた。

それで十分だった、今日のところは。

「父上」

周作が言った。

「うん」

「今日の午後、稽古お願いできますか」

「いいよ」

「双剣の型、一本だけ見てもらいたいのがあって」

「どの型」

「三の型です、踏み込みが迷ってて」

パパンが周作の顔を見た。

柔らかかった目の光が、少しだけ変わった。さっきまでの、変若水にのほほんとしていた目ではなかった。今朝の四時に境内に立っていた目に、少しだけ近くなった。

「わかった。午後ね」

「ありがとうございます」

「迷ってるのは踏み込みだけ?」

「……たぶん」

「たぶんじゃなくて全部出せ。一個直したら三個出てくるから最初に全部言え」

「はい」

「定吉は」

「僕は父上と組む気はありません」

「なんで」

「死にたくないので」

「そんな目で見ないよ」

「見てます先週」

「先週は……まぁ」

「怖かったです」

「ごめん」

浅利が静かに眼鏡を押し上げた。

「先週の件は報告を受けています。殺気の制御、もう少し丁寧にやってください」

「やってたんだけど」

「漏れていました」

「ごめん」

「謝罪は結構です。反復練習してください」

「はい」

定吉が茶碗を両手で持ちながら、さらりと言った。

「じじどんの息子だから仕方ないんじゃないですか」

全員が黙った。

パパンが天を仰いだ。

「それは……まぁ」

「血ですよね」

「血だけど」

「諦めてください」

「諦めてない」

「血は変えられないので」

「変えなくていい制御が大事」

「うまくできてないじゃないですか」

「練習中」

「四十八歳でまだ練習中ですか」

「うるさい」

周作が笑った。

今度は小さくではなく、ちゃんと笑った。定吉も笑った。浅利は笑わなかったが、口元に何かが浮かんだ。

パパンは仕方なさそうな顔で、だし巻き卵を一口食べた。

「美味しい」

「ありがとうございます」

「浅利の飯が一番美味い」

「褒めても殺気の練習は免除しません」

「褒めただけ」

「知っています」

「……今日の味噌汁、ちょっと甘い?」

「信州白麹です。鰹出汁を少し増やしました」

「好き」

「存じています」

また、箸の音だけになった。

朝の光が、少しずつ部屋の中まで伸びてきた。

パパンは最後の白米を食べながら、向かいに座った長男と次男の顔を見た。黒髪と茶髪。緑の着物と紫の着物。まっすぐな目と、少し斜めに笑う目。

どちらも、自分の顔に少しだけ似ていた。

もっと似ているのは、二人ともちゃんと飯を食っていることだった。それだけで、毎朝十分だとパパンは思っていた。思っていて、言わなかった。言ったら照れるから。言わなくてもわかっているから。

浅利が立ち上がって、食器を下げた。

周作が「手伝います」と立った。

定吉が「兄上」と立った。

パパンは最後まで座って、空の茶碗を持って、縁側の外の空を見た。

すっかり明るくなっていた。

境内の石畳が、朝の光の中で白く光っていた。変若水が、やっぱり揺れていた。

「……今日もよろしく」

また呟いた。

今度も、誰にも聞こえなかった。

聞こえた必要は、やっぱりなかった。


バカしかいないバカが紡ぐ千葉家クロニクル

登場人物(第一話)

千葉忠左衛門成胤パパン── 千葉家当主・神主・双剣使い・褒め育て全振り父・元カジュアル人殺し系ゴロツキ。四十八歳。本人比では今日も平和。

千葉周作成政(周作)── 長男・二十歳・黒髪・緑の着物・白王子・まっすぐすぎて眩しい方向に痛い・シャイガールめ笑・よく笑う。よく泣く。

千葉政道定吉(定吉)── 次男・十八歳・茶髪・暗い紫の着物・黒王子・重度のブラコン・重度の厨二・ヌラ・サタビランタが命ずる・父親が怖い。

そしてパパンの親友にして片割れ──浅利又七郎義明。薬神の二つ名を持つ、もうひとりの父親。

初対面でパパンを刺した男が、趣味で台所に立てばどこの料亭ですかと言われる腕前になっている。

江戸剣豪'Sの双璧AB、猫の姿をした新撰組の沖田と土方、腰蓑一丁の変態ブルファンゴ(近藤勇)。

元ゴロツキたちの日常は、剣術の稽古と古龍討伐と朝ごはんの支度で回っている。


褒めて伸ばす父と、背中を見せる父。

ギャグとシリアスと殴り合いの果てに、この家族の話がある。

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