終章:「謎を解かない系探偵」原アイラはぶん殴る!①
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「……な!? なんだこれは――」
紺色のスーツに身を包んだ、背が高く全体的にがっしりとした体型。頂点付近が少し寂しい頭髪量、強面ではあるがどこか生気を感じられない大きな目。
50代前半ほどに見えるその男は、困惑しながらそう呟いていた。
2026年3月19日木曜日7時32分。N市駅前交差点。雨が降る、しかし傘をさすほどでもない霧雨。そんな陽気の中、男はいつも通りの通勤時間帯に、いつも通り会社に向かう人々の列に混ざって、いつもの通勤路を歩いていた“はず”だった。
霧雨の中でも春の訪れを感じさせる、いつもと変わらない風景の中――その道を歩いている“はず”だった。
そして、もうすぐ青に変わるだろう歩行者用信号機の赤いシグナルを見て立ち止まる。
そこでメールの着信音を聞いた“はず”だった。
スマートフォンをポケットから取り出し、届いたのはスパムメールらしいものだと確認し、それをポケットに戻して視線を上げれば、信号は青に変わっている――その“はず”だったのだが。
なぜこの男が困惑しているのか。
メールの受信を知らせたスマートフォンをポケットから取り出し、その画面を確認した十数秒間。スマートフォンから目を離した彼の視界に【ファーン】と飛び込んできたのは、いつも見慣れた風景ではなかった。
いつも通りの通勤時間帯に、いつも通り会社に向かう人々の列は無い。
いつもの通勤路を歩いていることも無い。
春の訪れを感じさせる、いつもと変わらない風景も無い。
もうすぐ青に変わるはずだった歩行者用信号機の赤いシグナルすら無い。
「……な!? なんだぁ? これは!!」
男は急激に心拍数が上がるのを感じながら視線を巡らせた。
無い。何も無い。
そして男の周囲には、彼と同じように信号が変わるのを待つ人々もいなければ、
赤を表示する信号機も、道を挟んだ向かいのビルも、背後にあるはずの建物も無い。
ことごとく無い。
目に見えるものは真っ白な空間。何もない真っ白な空間の中に、男が一人だけ――
ただ一人だけ、そこにいるのだ。
◇◆◇
「……お前、伊藤マサヒコだな。」
「イイイイ!?」
真っ白な空間の中に何もなく、自分一人しかいない――
そう思っていた“伊藤マサヒコと呼ばれた男”は、背後から掛けられた声に、腰が抜けるような声を上げて飛び跳ねた。
飛び跳ねた勢いのまま、マサヒコは即座に後ろを振り返る。
マサヒコから7歩離れた場所に立っていたのは、白いシャツに黒のライダージャケットを羽織った若い女。長いポニーテールの白髪。強い眼力を放つ、キリッとした青い瞳。
肩幅ほどに足を広げ、腕組みをし、【ニヤァーリ】と挑発的で愉快そうな笑みを浮かべている。
「なあ、あんた。伊藤マサヒコだよな。」
その小さな動作と声には、なんとも言い知れない“圧”があった。自分より小柄な若い女が、自分より大きく見えるほどの強烈な圧。
そんな彼女にジッと見上げられたマサヒコだったが、ここで何を思ったか虚勢を張るように彼女を見下ろし、その目を睨みつけた。
「おい、人に名前聞くときは自分から名乗るのが礼儀だろう!」
それは明らかに虚勢の一言だった。マサヒコはドスの効いたしゃがれ声で【ドゥーン】と威勢よく言ったつもりなのだろう。
だが、その言葉を受けた彼女は――さらに愉快そうに、そして声を上げて笑い始めた。
「っぷ、あはははは。わりいわりい。つかおっさん、体格いい癖に意外と小心者なんだなぁ。威勢よく言ったつもりなんだろうけどさ……声に僅かな震えがあったぜ。おっと、礼儀礼儀っと。」
彼女は、7歩離れて向かい合う男に向けて、ゆっくりと頭を下げた。その動作、3.3秒。
そして続いて発せられた声は、先ほどまでの挑発的なものではなく――
まるで凍りついた言葉の塊をそのまま投げつけられたような、強烈に冷たい響きを持っていた。
「俺……私は、原アイラ。探偵をしています。伊藤マサヒコさん。小山ジョウジロウさんについて、お聞きしたいことがあるのですが――」




