その4:2026年2月27日金曜日・G県N市駅「午前8時05分00秒」 ③
=3=
駅を行き交う人の姿はまだ多い。
そんな中、ホームのベンチに座る“一人”の女性――だが彼女の目には、行き交う「この世の人々」と、隣に座る「あの世の男性」の姿が同時に映っている。
5両目乗車口付近に電車が入ってくる直前、彼女・原アイラの肩を叩いた男性。
過呼吸に陥っていた彼――小山ジョウジロウに肩を貸し、ホームから少し離れたベンチへ移動させ、アイラは彼の呼吸が落ち着くまで背中に手を添え、“口を動かさず、この世には聞こえない声”で、普段よりも柔らかい調子で語りかけ続けていた。
『……本当に……ありがとう、ございました。』
2026年2月27日金曜日、8時35分43秒。
G県N市駅ホームのベンチで、小山ジョウジロウがようやく口にしたのは、短い、消え入りそうな感謝の言葉だった。
その声は、名前を名乗ったときと同じく小さく、弱々しい。だがアイラの目には、その小さな声の奥に“深い落ち込み”がはっきりと読み取れた。
◇◆◇
アイラ目線で評価するなら、この男性――小山ジョウジロウの見た目は“上の中”。
精悍な顔立ちに、整えられていながら無造作に見える髪型。だらしないカッコよさが滲む、アイラ好みの“いい男”ではある。
……あるのだが。
いくら顔が良くても、見た目が良くても、土気色で表情に乏しく、精悍さだけを残したまま意気を失ってしまったような雰囲気は、正直「友人にはしたくない」「できれば関わりたくない」残念さを強く感じさせた。
その上、これでは――。
アイラはジョウジロウの“頭”に視線を送り、ふう、と一つ息を吐いた。
『まあ、大分落ち着いたみたいだな。よかった、よかった。ああ、それと悪かったな。助けを求めて肩を叩いていたのに、力いっぱい手を掴んじまって』
『いえ……こちらこそ、声もかけずに失礼しました。』
『あの状態じゃ、声なんて出ないだろ。』
アイラは苦笑いを浮かべながら言い、ここから“聞かなければならないこと”へと話を導くため、ジョウジロウが再び過呼吸にならないよう慎重に会話を進めることにした。
◇◆◇
小山ジョウジロウ。37歳男性。G県N市内の会社に勤めて“いた”会社員。
なぜ“いた”なのか。結論として、彼は現在うつ病を患い、2025年10月から休職して自宅療養中だった。
いつもは妻に付き添われ、第2・第4金曜日に車で通院していた病院。
しかし、12月26日金曜日――
この日、彼は「自分一人で行ってみる」と言い、電車で6駅先のT市へ向かうため、妻の心配をよそに一人で駅へ向かった。
だが、そのとき彼は電車に乗れなかった。乗ることが、どうしてもできなかった。
2025年12月26日金曜日、8時5分まであと1分と数秒。
電車の到着が迫るほどに、ジョウジロウの中に強い不安と焦燥感が波のように押し寄せてくる。そして、それがピークに達した瞬間――ジョウジロウの身体に異変が起き始めた。
呼吸が異様に速くなり、肩がカタカタと細かく上下する。顔色は不自然なほど青白くなっていく。周囲が“気付けば、気にかけていれば”誰の目にも明らかな異変だった。
だが、その様子に気付く者は誰もいなかった。
ついに彼は過呼吸に陥り、その場にうずくまってしまう。
助けを求めようにも声が出ない。人混みの中でうずくまる彼を、電車を待つ人々は“邪魔物を避けるように”列を崩さずに通り過ぎていく。
「た…かは………かた…」
かすれた声が喉から漏れる。しかし、それは誰にも届かない。
その間にも、N市駅ホームに8時5分発の電車が到着し、人の波が改札口前の5両目乗降位置でうずくまる彼を避けるように動き始める。
その流れが途切れ、人の姿が少なくなったとき――
ようやく一人の駅員が、ホームにうずくまるジョウジロウの存在に気付いた。
「大丈夫ですか!」
呼びかけにも答えられず、ただ肩を震わせるジョウジロウ。駅員は血相を変えて駆け寄り、肩を貸して立たせると、そのまま彼を駅の救護室へと連れていった。
ジョウジロウはこの後、救急搬送され過呼吸以外の体の問題はないとされ、自宅に帰ることになるのだが――
◇◆◇
『あれから、定期通院日に電車に乗ろうとここに来るのですけど、その度にあのときの事を思い出してしまって……こんな状態になって……。その度に助けてほしくて、前にいる人の肩を叩くんです。でも振り返ったその人は、何故か僕の顔を見て……何か、とても怖いものを見たみたいな顔をして逃げていくんです。それで、線路に……』
ジョウジロウの話を、アイラは一言も聞き漏らさずに受け止めていた。それと同時に、ふと友人・黄泉野カレンの顔が脳裏に浮かぶ。
(カレンのやつ、毎日こんな話を聞いてるんだろうなぁ。よくやってられるぜ。まあ、アイツもたまに滅入って爆発するけど……俺じゃ一日もたねぇわ。)
そんなことを思いながらも、ジョウジロウの語った内容だけで、彼が“第2・第4金曜日にだけここへ現れる理由”をアイラは理解した。
幽霊の中には、生前の行動をひたすら繰り返す者がいる。ジョウジロウもその一人だ。同じ周期に、同じ場所に現れ、あの日と同じように過呼吸に陥り――
ただ一つ違うのは、彼が助けを求めて、乗車列の前にいる人の肩を叩いてしまうこと。
そして彼は、どうやら気付いていない。“自分がどうやって死んだのかを。”
アイラには、彼の“見た目”から容易に想像がついていた。だが、それをどう確認するか。
厳しいかもしれないが――こればかりは、彼自身に見てもらうしかない。
そうしなければ、この件は解決しようがないだろう。
アイラは念のため、ジョウジロウにこう問いかけた。
『なあ、小山さん。ちょっと聞きたいのだけどさ……アンタ、自分の姿、鏡でも何でもいいから最近見たか?』
答えは分かっている。そして、その答えが“正解”である確信もあった。
それでもアイラはあえて、それを言葉にして問いかけた。
ジョウジロウは首を【ブゥオン】と傾げ、表情を変えないまま、今度は左右に【グゥオンブゥオン】と振った。
『……いえ。』
相変わらず、ぽつりと落ちるような小さな声。
アイラは、彼を刺激しないよう細心の注意を払いながら、再び過呼吸にならないよう注意を払いつつ、“彼が自覚していない自身の姿”を見せるため、ポケットからスマートフォンを取り出し、インカメラを起動して手渡した。
『みてみなよ。』
『……はい。』
ジョウジロウはスマートフォンを受け取り、画面に映った“自分”を見た瞬間――
『うわぁぁぁぁ!!!!お、おばけ!!』
さっきまでの力のない小声からは想像もつかない絶叫。そして「おばけ」という言葉。
首を【グォーーーン】と仰け反らせ、無意識のままスマートフォンを投げかけたその手を、アイラは【ガシィ】と素早く掴み止めた。スマートフォンが飛んでいかずに済んだことにホッとしつつ、やはり――彼は自分の姿を自覚していなかったのだと確信する。
そしてアイラは半ば呆れ顔で、だがどこか哀れみを含んだ複雑な表情で言った。
『わかっただろ。アンタに肩を叩かれて振り返ったやつが、どうして“とても怖いものを見た顔”で逃げ出して……いや、線路に飛び込んでいっていたか。』
アイラのスマートフォンに映っていたもの。
それは――
不自然に伸びた首が、頭の重みで【ぐにゃり】と右に80度ほど傾いた、小山ジョウジロウの姿だった。




