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半神失格  作者: KoiToHimitsu


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第4話 『普通の朝は戻らない』

夜の重さが、少しずつ二人の肩に乗り始めていた。


凪のアパートへ続く通りは、狭くて静かだった。三階建てか四階建ての小さな集合住宅が並び、低い塀には自転車が立てかけられ、半分閉じたカーテンの向こうに黄色い灯りがともっている。その時間になると、遠くを走る車の音まで、どこか控えめに聞こえた。


二人はほとんど黙ったまま歩いた。


凪はもう鍵を握りしめていた。一歩ごとに、秒ごとに、そして何より、この状況のあまりにもおかしな現実を意識していた。


女子を家に連れてくる日が来るなんて、想像したこともなかった。


まして、天霧透花を。


まして、公園で現実から消されかけたあとで。


一方の透花は、ひどく落ち着いた様子で歩いていた。


正確には、くつろいでいるようには見えない。ただ、人間的な気まずさに割く体力が、もう残っていないだけという感じだった。


通りの先に、凪の住む建物が見えてきた。


目立たず、細い建物だった。時間に少し擦り切れたベージュ色の外壁。入口の横に並んだ郵便受け。建物番号の入った小さな金属のプレート。


そこには、半神を迎えるにふさわしい要素が何ひとつなかった。


中に入った。


エレベーターの中で、沈黙はさらに狭くなった。


凪は閉じた扉を見つめたままだった。金属に映る自分の姿は、実物よりさらに落ち着きがなかった。


隣では、透花がまっすぐ立っていた。ただ、公園にいたときよりは少しだけ硬さが抜けている。


夜は長かった。


ヴェレディクタを使った負荷もある。


エレベーターが階を上がっていくあいだ、彼女は一度あくびをした。続けて、もう一度。小さく、驚くほど人間らしい仕草で手を口元に運んだ。


凪は横目で見た。


扉が三階で開いた。


廊下は細く、静かで、その時間には不釣り合いなくらい清潔な白い光に照らされていた。


二人は三〇三号室の前で止まった。


透花は部屋番号を見て、それから扉を見る。


「ここ?」


凪はすぐにうなずいた。


透花はまたあくびをした。今度は、さっきより小さく。


「よかった」


低くて、正直な安堵が混じったその一言に、凪は完全に不意を突かれた。


思ったより頼りない指で、鍵を差し込む。


「じゃ、じゃあ……どうぞ」


扉を開け、一歩横にどいた。


透花が先に入った。玄関で靴を脱ぎ、少しだけ目を上げて、黙って室内を見回す。


アパートは小さく、清潔で、機能的だった。


狭い居間にはソファとローテーブル、控えめな大きさのテレビ。壁際にはキッチンがあり、同年代の男子にしては過剰なくらいきちんと整えられていた。奥には寝室へ続く引き戸。


全体に、一人で長く暮らしている空間の匂いがあった。実用的で、片づいていて、無駄がなく、余分な飾りもない。


透花は踵を軸にゆっくりと身体を回し、頭の中にしか存在しない報告書のために、ひとつひとつを記録しているみたいだった。


それから、ほとんど聞こえないため息とともにソファへ腰を下ろす。


「効率的」


凪は居間の入口で立ち止まった。


「それ、褒めてるのか分からないんだけど」


「褒めてる」


彼女は一瞬だけ背を預け、目を閉じた。それから、目に見えて努力しながらまた目を開ける。


「少し休む。私なしで部屋を出ないで。印が反応したら、すぐに呼んで、成瀬くん」


声はいつもより低かった。


切れ味も少ない。


眠気が、彼女の言葉から硬さを奪っていた。そして、少しだけ武装も解いていた。


凪は耳まで熱くなるのを感じた。


「天霧さん、俺……」


彼女は座ったまま目を上げる。明らかに、続きの言葉を待っていた。


凪は喉を鳴らした。


「部屋は天霧さんが使って。風呂も、もちろん。俺はソファで寝るから」


透花はゆっくり瞬きをした。


疲れた頭にその提案が届くまで、もう一秒必要だったみたいに。


それから、少しだけ姿勢を正した。


「主要な休息場所を譲ってくれるの」


「普通、それくらいはするだろ」


「誰にとって普通?」


「まともな人間?」


透花はしばらく彼を見つめた。


それから、小さく、厳かにうなずいた。重要な条項を受諾した直後みたいに。


「成瀬くんは、とても親切なのね」


疲労に半分包まれた声。


ほとんど防御のない響き。


それで言われたその言葉は、凪に強く当たった。


透花はソファから立ち上がった。


「じゃあ、お風呂に入る。そのあと寝る」


寝室のほうへ二歩進み、途中で止まって、肩越しに彼を見た。


「消えないで」


命令だった。


けれど、その声では、ほとんど別のものみたいに聞こえた。


凪は二秒ほど固まってから、ようやく自分の身体の使い方を思い出した。


透花が風呂に入っているあいだ、凪は寝室の押し入れを開け、きちんとシーツを整えた。清潔なタオルを置き、ベッドの上には、まだ馬鹿みたいにくたびれていない数少ない洗い済みのパジャマを置いた。


終わってから一歩下がり、自分が天霧透花のためにベッドを用意していることに気づいた。


まるで、それが何か意味のある行為であるかのように。


意味はなかった。


それでも、現実として続いていた。


しばらくして、ソファに横になった凪は、頭の中と議論を続けるにはあまりにも早く疲労に負けた。


透花が浴室から出たとき、アパートは静かだった。


まだ湿った髪が肩に落ちている。凪の大きめのパジャマを着た彼女は、その居間の中で、いつもより小さく見えて、それでも同時に、いっそうありえないものに見えた。


ソファの横で止まる。


凪は深く眠っていた。片手が横に落ち、呼吸はようやく安定している。


透花は数秒、黙って彼を見ていた。


それから、彼にかかっている毛布が少しずれていることに目を向けた。ほとんど見えないほど一瞬だけ迷い、それから肩がもう少し隠れる程度にだけ直した。


居間の明かりを消す。


そして、寝室の扉を静かに閉めた。


翌朝、透花は目覚ましなしで目を覚ました。


眠る前に、自分はこの時間に起きている必要があると決めた、そのちょうどの瞬間に、身体が水面へ戻ってきたみたいだった。


数秒ほど、静かな寝室の暗がりの中で目を開けたまま、アパートの沈黙に耳を澄ませる。


夜のあいだ、何も破綻していない。


それだけで、小さな勝利だった。


まだ身体に残る疲労の重さを抱えながら、ゆっくり起き上がり、洗面所へ入った。


顔を洗い、いつもの清潔な仕草で髪を結び、潮峰学園の制服を、ほとんどすべてをそうするのと同じ静かな精度で身につける。


完璧に見えるために、鏡は必要なかった。


ただ存在するだけでよかった。


居間の扉を開けると、言葉より先に、温かくて心地よい匂いが彼女を迎えた。


凪はキッチンにいた。まだパジャマ姿で、朝食を作り終えようとしている。


ローテーブルには、温め直したご飯が二つの茶碗に盛られ、簡単な味噌汁、小さなフライパンで急いで焼いた卵、そしてパックのオレンジジュースを注いだコップが二つ置かれていた。


透花は一瞬、立ち止まった。


凪が顔を上げる。


そして、手に持っていたものを動かすのも忘れるくらい、彼女を見つめた。


すでに身支度を終え、学校中が知っている完璧な少女の姿で、自分の部屋に、この時間に立っている。


その情報量は、凪の脳が一度に処理するには多すぎた。


指がフライパンに触れている時間が、少しだけ長すぎた。


「あ」


透花はすぐに近づいた。


「大丈夫、成瀬くん?」


「大丈夫、大丈夫です」


返事は早く、まるで説得力がなかった。


凪は火を止め、何も起きなかったふりをするだけの尊厳を保とうとしながらフライパンを置こうとした。


できなかった。


透花はもう彼の手を取っていた。


それはあまりにも自然な動きだった。


昨夜の検査の続きであるかのように、彼の指を窓からの光へ向ける。暗い印はまだ皮膚のそばにあり、控えめでありながら生きていた。火傷した指は、少し赤くなっている。


「ふむ」


凪は固まった。


透花は彼の手をさらに自分の目の近くへ寄せた。


「火傷は表層。印も、それほど悪化しているようには見えない」


ようやく顔を上げたとき、彼女は凪が硬直したまま真っ赤になり、唇を結んで、個人的な社会的死を迎えている人間の表情をしているのに気づいた。


透花はほんのわずかに眉を寄せる。


「どうして呼吸が通常から外れているの?」


凪はほとんど速すぎるくらいの勢いで、彼女の手から自分の手を引いた。


「俺、シャワー……浴びてくる」


文として呼ぶには、論理が足りなすぎるほど、途中で折れた言葉だった。


透花は彼を見つめたままだった。


「でも、朝食を作り終えたばかり」


「うん」


「それを今から放置するの」


「うん」


「効率的ではない」


凪はもう廊下のほうへ後ずさっていた。


「先に食べてて」


そして、部屋のほうへ早足で消えた。


自分の屈辱と自分のあいだに扉を一枚挟むことだけが、生存の可能性であるかのように。


透花は居間に一人残された。


自分の手を見る。


それから、彼が出ていった扉を見る。


正しい関連づけを記憶の中から引き出すのに、二秒かかった。


数週間前、彼女は学校の女子たちの会話の輪に巻き込まれたことがある。今でも、混沌として非生産的な経験だと分類している。


参加はしていない。


ただ横に存在していただけだった。


そのとき、耳まで赤くなった一人が、低い声で打ち明けていた。


「それでね、手を握られて……そういう感じで……もう死ぬかと思った」


別の一人が、すぐに衝撃を受けた囁きで返した。


「それはもうカウントされる。完全にカウントされるやつ」


当時の透花には、何がどう「カウント」されるのか理解できなかった。


今は、不快なくらい鮮明に思い出していた。


彼に触れたほうの手をもう一度見る。


「理解した」


そう独り言を言った。


社会的に感度の高い可能性のある変数を特定した者の静けさで。


テーブルの前に座る。


ご飯はまだ湯気を立てていた。味噌汁は、簡単で温かいものの匂いがした。卵は片側が少し歪んでいる。急いで、誰かに見せようともせず作ったものは、大抵どこかそうなる。


透花は普通より長く、朝食へ目を落としていた。


これまでの人生で、誰かが彼女のために、こういうものを用意したことはなかった。


宴ではない。


儀礼的な献上でもない。


義務として渡された機能的な食事でもない。


ただ、これだけ。


昨夜、少しずつ消えかけたばかりの誰かが、それでも先に起きて、二人分を作ると決めた食卓。


味噌汁を一口、口に運ぶ。


簡単だった。


温かかった。


人間の温度だった。


名前をつけるにはまだ軽すぎる、小さな何かが胸の奥に落ちた。


透花は一瞬だけ目を伏せた。


そして、ほとんど笑いそうになった。


アパートの扉を閉めても、凪はまだ、ここ数時間の出来事が本当に起きたのだと受け入れきれていなかった。


影浦市の朝は清潔で、明るく、腹が立つほど普通だった。


住宅街はいつも通り、通りから大通りへ向かって下っている。玄関脇に並んだ植木鉢。低い塀に寄せられた自転車。狭いベランダで干されている洗濯物。すでに完全に目覚めた街の遠い音。


その光のどこにも、数時間前、彼が少しずつ消えかけたことなど書かれていなかった。


透花が先に出た。


彼女はもう完全に、学校が知っている姿に戻っていた。乱れのない制服。精密に結ばれた髪。静かな姿勢。軽い足取り。


後ろ姿だけなら、ただの潮峰学園で一番きれいな女子が登校しているようにしか見えない。


凪は鞄を肩にかけ、数歩後ろを歩いた。


これからは普通に歩くことさえ集中力を要求されるのかもしれない、という馬鹿げた感覚を抱えながら。


しばらく、二人とも話さなかった。


先に折れたのは凪だった。


「天霧さん……」


透花は止まらなかったが、彼の隣に並ぶ程度には速度を落とした。


「俺に、何が起きてるんだ?」


彼女は二秒かけて答えた。まだ人間に収まる言葉へ、説明を並べ替えているみたいだった。


「アンブラに触れた。アンブラは接触を受理した。今、成瀬くんとそれのあいだには接続がある」


「それはもう分かった」凪は右手を見た。「知りたいのは、大事なところ」


透花はわずかに首を傾げた。


「それが大事なところ」


凪は一秒、目を閉じた。


「わざとやってるだろ」


「やっていない」


「それが一番怖い」


透花はその言葉を流した。


「今のところ、成瀬くんは取り込まれていない。つまり、アンブラに即時拒絶はされなかった」


「それは心強いな」


「安心させるための発言ではない」


「知ってる」


二人は歩き続けた。


次の角まで来ると、透花は彼より先に道路を渡った。


何気なく、ではなかった。


正確な数値を試すみたいに。


凪は気づいた。


「また測ってる?」


「そう」


「俺に知らせるのは、方法の有用な一部じゃなかった?」


透花はもう向こう側の歩道に立ってから答えた。


「今知らせている」


その瞬間、彼の手の印が重くなった。


圧力だった。


短く、深い感覚。


その部分の皮膚だけが、間違った重さを一グラムぶん持ったみたいだった。


凪は横断歩道の途中で止まり、目を落とす。


足元の影が、身体より半秒遅れた。


それから直った。


彼はすぐに顔を上げた。


透花はもう彼を見ていた。


「感じた?」


「うん」


「説明して」


「手が重くなった。あと、影が……何かした」


「良い」


「良い?」


「突然崩壊するより望ましい」


凪は彼女を見た。


「天霧さん、本当に“良い”って言葉の使い方に重大な問題があるよな」


透花は彼の側へ戻った。


「続ける」


それ以上大きく離れることはなく、二人は潮峰学園へ向かう坂を上った。


それでも、透花は小さく、腹立たしいほど細かく距離を調整していた。最初は半歩前。次に二歩。次に三歩。狭い階段では彼より先に上った。閉まった店のショーウィンドウの前では、凪が通り過ぎるあいだ、ガラスの反射を観察するふりをした。


そのたびに、彼は小さな何かが失敗するのを感じた。


一度、自分の足音が一秒だけ消えたように思えた。


別のときには、鞄にかかった手の影が、少しずれて現れた。


さらに先で一階の窓を通り過ぎたとき、彼の反射がほんの一拍遅れてついてきた。


致命的ではない。


普通でもない。


ようやく坂の先に潮峰学園の正門が見えたころには、凪は新しい種類の疲れ方をしていた。


道中ずっと、身体が密かに、世界にもう一度手放されないよう踏ん張っていたみたいだった。


透花はフェンスのそばで止まり、不快な検査を終えた直後のような臨床的な目で彼を見た。


「可能に見える」


凪はしばらく黙って息を整えた。


「何が可能に見えるって?」


「授業中、事故で溶けずに一日を生き延びること」


彼は彼女を見た。


「反対の可能性がまだかなり高めに残ってる感じを出さずに言えない?」


透花は一秒考えた。


「厳密には無理」


凪は顔を手でこすった。


「だろうな」


彼女は感情部分を無視して続けた。


「学校内では、公園より許容距離が長いように見える。おそらく、この範囲にはまだ初期案件の共鳴が残っているから」


「翻訳して」


「ここは一昨日より前から、すでに少し間違っていた。それが助けになっている」


「悪い知らせを授業みたいな口調で出してくるの、ほんとすごいな」


透花は校舎のほうへ目を向けた。


「それでも、限界崩壊まで試すほど長く離れるつもりはない」


凪も彼女の視線を追った。


生徒たちが小さな集団になって正門を入っていく。笑い、鞄を揺らし、挨拶を交わしている。まるで世界がまだ無実であるかのように。


「じゃあ、これどうやって成立させるんだよ」


透花は彼を見た。


「成瀬くんは授業を受ける」


「そこを避けたかったんだけど」


「私は午前中、安定性を観察する」


「どうやって?」


「十分に近くに存在する」


凪は短くため息をついた。


彼女が超常的な監視を、学校という文脈では危険な意味に聞こえかねない一文に変換できるのは、本当に見事だった。


透花も一秒遅れて同じ結論に至ったらしく、すぐに付け加えた。


「ずっと隣にいるわけではない」


「残念だな。俺の学校での評判がそれを求めてたのに」


「大きく傷つくほどの学校内評価はない」


彼は、腹を立てるには少し面白すぎる気持ちで彼女を見た。


「今の、余計だっただろ」


「事実だった」


返す前に、女子生徒のグループが正門の近くを通った。


視線はすべて透花へ向かう。


いつものことだった。


彼女は反応しない。


ただ、また学校用の自分へ戻る。静かで、美しく、あまりにも遠い。数分前に、彼が授業中に溶ける可能性について話していた人物とは思えないほどに。


凪は本能で、彼女より半歩後ろに自分の歩調を落とした。


外から見れば、ただ同じ道になっただけの二人に見えるだろう。


内側では、彼のほうがよく分かっていた。


昇降口に入ると、透花は彼を直接見ないまま足を止めた。


「印が重くなる。音が途切れる。影が遅れる。あるいは反射が誤応答する。そのどれかが起きたら、教室を出て」


凪はうなずいた。


「その後は?」


「私が見つける」


「どうやって?」


そこで初めて、彼女は短く、清潔で、確かな目を向けた。


「分かる」


その答えは、本来ならもっと不安にさせるべきだった。


透花は振り返り、別の棟へ向かって歩いていった。


凪は、朝の学校の流れの中に彼女が遠ざかっていくのを見ていた。周囲の視線に吸収されながら、まるで当然のようにあの世界へ属している。


彼女の姿が見えなくなってから、ようやく本当の問題に気づいた。


授業を生き延びることは、たぶん可能かもしれない。


あの朝が普通だと装うことのほうが、どう考えても無理だった。


凪は教室へ入り、いつもの席に座った。


馴染みのある場所に戻ってきたのに、それを普通と呼ぶ権利だけは取り戻していないような、不快な感覚があった。


クラスは少しずつ埋まり始めていた。


椅子の音、鞄が床に当たる音、半分だけ言われる朝の挨拶。


いつもと同じ、まとまりのないエネルギーが教室に広がっている。


表面上は、潮峰学園のただの朝だった。


表面上は。


早乙女日和は少し遅れてやってきた。


いつも通り、完璧だった。偶然に見せるには整いすぎた髪。彼以外の相手にはちょうどよく見える笑み。


凪の席の横を通るとき、彼女は少しだけ速度を落とし、短く評価するような視線を投げてきた。


「いつもより顔色悪いね、成瀬くん」


凪は顔を上げた。


「そっちこそ、おはよう」


「観察よ。批判じゃない」


「嘘だ」


日和はわずかに首を傾げる。


「私が批判するつもりなら、違いくらい分かるはずだけど」


そして、自分の席へ軽やかに向かっていった。


背後に残した効果を、本人が完全に理解している人間の、苛立たしい軽さだった。


凪は一秒ほど、その背中を見ていた。


超常現象がなくても、日和には、どんなやり取りも小さな外科的攻撃に変える珍しい才能がある。


すぐあとに陽輝が入ってきた。


鞄を机の横へ置き、いつもよりずいぶん低いテンションで席につく。


凪を見る。


それから目を細めた。


「成瀬」


声が重すぎた。


凪はほとんど瞬時に嫌な予感を覚えた。


「何だよ」


陽輝は机に両手をつき、身を乗り出した。


「お前が天霧さんの近くで登校してるところを見た」


凪は瞬きをした。


「それは何も意味しない」


「有罪の人間がまさに言う台詞だ」


「何の罪だよ」


陽輝は、ほとんど宗教的な水準で傷ついたように胸に手を当てた。


「この学校で一番美しい女子の視界内半径に、親友の感情的な許可なく入った罪だ」


凪は顔を手で覆った。


「お前に誰かへの情緒的許可権なんてないだろ」


「公式にはないかもしれない。でも精神的には、かなり投資してる」


凪は鼻から息を抜いた。


その言葉にふさわしい笑いをするには、疲れすぎていた。


陽輝は今度はほとんど芝居がかった疑惑の目で彼を見つめ続ける。


「今のうちに言っとく。もしお前が天霧さんにつきまとってると分かったら、この友情はここで終わる。俺たちは宿敵になる」


「誰にもつきまとってない」


返事が早すぎた。


陽輝が固まる。


それから、満足そうな恐怖を浮かべて指を突きつけた。


「その速度は有罪」


「お前のほうがどうかしてるだろ」


「可能性はある。でもまだ価値観はある」


会話がそれ以上沈む前に、教師が入ってきた。


授業が、朝の残りを前へ押し流し始める。


時間はゆっくり過ぎた。


あまりにもゆっくりだった。


自分の影、自分の声、自分の反射、つまり基本的には授業と授業のあいだで密かに存在を失う可能性へ注意を払えと指示されている日としては、なおさらだった。


それでも、深刻な失敗は起きなかった。


一度、出席に返事をしたとき、声が思ったより半音低く出た。


別のとき、窓ガラスを見ると、反射が一瞬だけ遅れたような気がした。


けれど、それだけだった。


小さな誤差。


小さな脅威。


すぐに逃げ出す理由としては足りない。


昼休みのチャイムがようやく校舎に響いたとき、凪は数時間ぶりに肩が下がるのを感じた。


もしかすると、本当に一日授業を生き延びられるのかもしれない。


教室は休み時間のいつもの混沌に爆発した。


椅子が引かれ、弁当箱が鞄から出され、グループができ、声の大きさがほとんど即座に上がっていく。


陽輝はすぐに彼のほうを向いた。


「なあ、屋上で昼食わない? 教室の男どもの凡庸さから避難したい」


凪は返事を考えるためというより、普通の一秒を稼ぐために鞄へ身を傾けた。


そのとき、教室の音の質が変わった。


声が止まったわけではない。


ただ、まとまりを失った。


短い囁き、小さく押し殺された衝撃、社会的にありえない何かが入口に現れたとき特有の、あの振動へ散っていった。


凪は顔を上げた。


そして、彼女を見た。


透花が教室の入口に立っていた。


特別なことは何もしていない。


ただそこにいるだけだった。


いつも通り静かで、いつも通り美しく、学校の残りより少し上の層に属しているみたいな、清潔で触れられない姿勢で。


彼女がそこにいた。


彼の教室の入口に。


そして、まっすぐ彼を見ていた。


陽輝は、まだ閉じたままの弁当箱の上に箸を落とした。


「ない」


後ろのほうで誰かが囁いた。


「成瀬を見てる?」


別の、少し高い声。


「待って……成瀬って、あの成瀬?」


めったに表情へ驚きを出さない日和でさえ、長い一瞬、動きを止めた。


透花は軽い足取りで教室を横切った。


すべての視線が彼女に縫いつけられていた。


凪の席の前で止まる。


その平凡な空間の中で彼女が近くにいるだけで、凪の脳は正常を装うことを完全に諦めた。


透花は、教室の残りを二次的な建築上の雑音みたいに扱いながら、彼を見た。


「成瀬くん」


凪は返事をするまで一秒かかった。


「……はい?」


彼女は落ち着いた声で言った。


「昼食中、成瀬くんを観察する必要がある。来て」


そのあとに落ちた沈黙は、完全だった。


陽輝が両手を頭に持っていく。


「はあっ!?」


凪は動かなかった。


動きたくなかったからではない。


身体全体がまだ、超常現象を生き延びることのほうが、もしかするとこれよりずっと簡単なのではないかと理解しようとしていたからだった。

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