第5話 『届かない声』
透花は教室の入口で足を止め、振り返った。
「成瀬くん。行くよ?」
凪はうなずき、鞄を取って立ち上がった。
自分の席から扉までの距離が、馬鹿みたいに長く感じた。歩き出すにつれて、囁き声はもうはっきり形を持ち始めている。
「付き合ってるの?」
「なんであんなのが天霧さんと話せるわけ?」
「本当に迎えに来たの?」
顔に熱が上がっていくのを感じた。
それでも、凪は足を止めなかった。
透花はいつも通り、乱れのない自然さで廊下を進んでいく。完璧な姿勢。軽い足取り。昼休みに別のクラスの男子を迎えに、学校中を横切ることに、何の違和感もないみたいに。
問題は、まさにそこだった。
彼女にとっては、たぶん本当にないのかもしれなかった。
二人は階段を下り、外へ続く廊下を歩いた。高い窓から昼の光が斜めの帯になって差し込み、校庭のざわめきがもう校舎の中まで届いている。
庭に出る手前で、透花が不意に立ち止まった。
凪はあやうく彼女にぶつかりかけた。
透花はわずかに振り返る。
「不快そう」
質問ではなかった。共感とも、少し違う。変数を確認しているような響きだった。
凪は不意を突かれて口を開いた。
「俺……」
透花は同じ静かな調子で続ける。
「私と一緒に見られていることが原因なら、リスクが安定したあとで視覚的露出を減らせる」
凪は彼女を見た。
「視覚的露出を減らす?」
「そう」
「それ、“一緒に歩くのをやめる”って言う、かなり変な言い方だと思う」
透花はわずかに首を傾げた。
「より正確な表現」
凪は首の後ろに手をやった。もう笑えばいいのか、死ねばいいのか、学校ごと逃げ出せばいいのか分からなかった。
「そういうことじゃない」
「なら、問題は別にある」
「それも、そういうわけじゃ——」
途中で言葉が失敗した。
凪は息を吐く。
「ただ、こういうのに慣れてないだけだ」
透花は一秒、彼を観察した。今の返答を、どの人間カテゴリーに入れるべきか判断しているみたいだった。
それから、一度だけうなずく。
「理解した」
完全に理解した人間の声には聞こえなかった。
彼女は向き直り、また歩き出した。
二人は校舎脇の庭に出た。透花は体育館の壁際にあるベンチへ向かい、この時間には数少ない、半分だけ影になっている場所に腰を下ろした。
隠れた場所ではない。
むしろ逆だった。見ようと思えば、学校の半分が二人に気づけるくらいには開けている。
彼女はまったく気にしていないようだった。
凪は二人分、気にした。
彼女の隣に座る。ただし、二人の間には、定規で測ったように慎重な距離を残した。
鞄から弁当箱を取り出しながら、横目で見る。
透花はもう、ベンチの上に小さなミルクティーと、開封済みのコンソメ味のポテトチップス、それから自販機で買ったらしい袋入りの菓子パンを置いていた。
凪はそれを見つめた。
「それ、昼飯?」
透花は彼の視線を追う。
「そう」
「ポテチと菓子パンとミルクティー?」
「正しい」
凪は眉を上げた。
「なんでそれで太らないんだよ」
透花は一秒、沈黙した。生物学的に答えるべきか、社会的に答えるべきか判断しているみたいだった。
「私の身体は、人間の工業食品をよく処理する」
凪はゆっくり彼女のほうを向いた。
「間違いなく今日聞いた中で一番不穏な台詞だった。昨日、現実から消されかけた俺が言うんだから相当だぞ」
透花は菓子パンを小さくかじった。
食べ方まで完璧だった。そんな平凡な動作をしているのに、それでも彼女は、他の人間と同じ種に属しているには正しすぎるように見えた。
凪は見すぎないために弁当箱を開けた。
「天霧さん……正確には、どこから来たんだ?」
透花は答える前に、指先をナプキンで拭いた。
「こちら側では一般的な質問」
「普通は答えがあるからな」
「私の場合、成瀬くんにとって有用な答えはない」
透花はミルクティーを少し飲む。
「私が来た場所では、場所の分類方法が同じではない。あなたたちのような地名はない」
凪は箸を持ったまま固まった。
「は?」
透花は短く彼を見た。その口元が、ごく短い一瞬だけ、笑みと呼ぶには確信が持てない程度に動いた気がした。
「有用ではないと言った」
凪は二秒ほど自分の弁当を見つめ、それからまた目を上げた。
「天霧さんって、完全にありえないことを天気の話みたいな落ち着きで言うよな」
「会話の効率を保つのに役立つ」
「全然役立ってない」
透花はその言葉を流した。
校庭の音が波のように庭まで届いていた。声。足音。どこかでボールが跳ねる遠い響き。二人の周囲で、学校は何も問題ないように動き続けている。
凪にとってこの昼食が、社会的には列車事故に等しいというのに。
彼はもう一度、彼女を見た。
「じゃあ、何が天霧さんをここに連れてきたんだ? この学校に、って意味だけど」
透花は飲み物をベンチの横に置いた。
「小さな案件を解決するために派遣された」
「小さな」
「当時は、そう分類されていた」
「今は?」
透花は、ほとんど腹が立つくらい静かな顔で彼を見た。
「今は成瀬くん」
凪は彼女を見つめた。
透花は、その言い方の問題に一拍遅れて気づいた。
「つまり、今は成瀬くんが案件の活動中心という意味」
「それ、あんまり改善してない」
「技術的には改善している」
凪は鼻から息を吐いた。
「そりゃ技術的にはな」
透花は彼を一瞬観察し、それからポテトチップスの袋へ視線を落とした。
「成瀬くんがアンブラを引き出していなければ、私はもう帰還していた」
その言葉はきれいに出た。
残酷さも、偽物の罪悪感もなかった。
ただ事実だけだった。
だからこそ、余計に強く当たった。
凪は膝の上の開いた弁当へ視線を落とした。
「ごめん。天霧さんの次元間スケジュールを台無しにして」
透花はわずかに眉を寄せた。
「責めていない」
「そう聞こえた」
「任務の状態を説明していた」
凪はあまり食欲のないまま箸を動かした。
「天霧さん、本当に任務の状態を説明するのが好きだよな」
「そう」
彼は小さく、疲れた笑いを漏らした。ほとんど反射だった。
透花は一秒、彼を見つめた。その反応が、不快にも苛立ちにも完全には一致しない理由を理解しようとしているみたいだった。
それから、少し低い声で言う。
「でも、残ったことは後悔していない」
凪はすぐに目を上げた。
透花は、彼の神経系を丸ごと乱すような台詞を落とした直後とは思えない顔で、ポテトチップスの袋を開いた。
「問題は最初から存在していた。成瀬くんが、それを可視化しただけ」
彼女は一枚取り、少し考えてから付け加える。
「そして今のところ、成瀬くんはそれを正しく解決するための唯一の方法でもある」
凪は彼女を見つめた。
けれど、透花が言うと、その言葉には、残りの昼食を普通にやり過ごすのをずっと難しくするだけの重さがあった。
庭の沈黙は、昼休みの終わりを告げるチャイムに破られた。
透花が先に立ち上がった。ほとんどすべてをそうするように、無駄のない動きだった。
「次は体育」
そう言った。
「体育館にできるだけ近い場所を維持する」
凪は反射で右手を握り、うなずいた。
「分かった」
透花は最後にもう一度、彼の指のそばの印を見た。新たな劣化がないことを頭の中で確認しているみたいに。
そして、何の劇的な動きもなく校舎へ戻っていった。
凪はベンチに一秒だけ長く残ってから、彼女のあとを追った。
教室に戻ると、人を見るより先に視線を感じた。
まったく控えめではなかった。隠す気もない。噂はすでに、学校の社会的災害に特有の効率でクラス中に広がっていた。
いつもの席に座り、急な動きをすれば状況が悪化するかのように、ゆっくり鞄を置いた。
そのとき、香りを感じた。
声より先に、そこにいると分からせるくらい正確に。
早乙女日和が、彼の席の前で止まっていた。
この距離なら、どうして多くの人が彼女を可愛いと思うのかはよく分かる。完璧な髪。偶然には見えないほど整った肌。自分が他人にどう見えるかを正確に知っている人間の精度で整えられた制服。彼女のすべては調和しているように見えた。優しそうですらあった。
ただ、凪はもう、その公開版を信用するほど甘くなかった。
彼女は、高価なガラスに入った細いひびを調べるように彼を見た。
「成瀬くんが天霧さんにどんな手を使ったのかは知らないけど」
低い声だった。
「私、突き止めるから」
凪は顔を上げた。驚いたふりをするには疲れすぎていた。
「香水が多すぎるんじゃないか。頭に回ってるぞ」
日和は半歩も退かなかった。
「学校中を騙したいなら、好きにすればいいわ。誰の目にも留まらない男の子に完璧な女の子が興味を持つ、安っぽいラブコメみたいに見せかけて」
声は低いままだったが、そこに刃のような細さが加わった。
「でも、私は納得しない。別の理由があるはずよ」
凪はすぐに返すべきだった。
いつもなら返していた。それが二人のリズムだった。攻撃。反撃。機能的な敵意。
でも今回は、何も言わなかった。
いちばん嫌なところは、彼女が正しかったからだ。
透花との近さは、恋愛的な選択から生まれたものでも、学校に起きた奇跡でもなかった。
誤りと、亀裂と、必要から生まれたものだった。
日和は彼の沈黙に気づいた。
視線がほんの一瞬だけ揺れる。
ほかの誰にも分からないくらい短く、それでも、ほとんど後悔のように見えるには十分長く。
すぐに立て直した。
「何であっても」
彼女はさっきより冷たく言った。
「あなたには似合わない」
教室の後ろから声がした。
「教室に入って最初に考えるの、成瀬のことなんじゃないかって思えてきた」
日和はすぐに振り返った。
陽輝がちょうど席についたところだった。鞄はまだ半分開いたままで、表情だけは真剣だった。
攻撃は当たった。
日和はかすかに赤くなり、刺すような視線を向けてから、何も言い足さずに自分の席へ戻った。
陽輝は彼女が座るまで待った。
それから、ほとんど宗教的な重々しさで凪へ向き直る。
「成瀬」
「今度は何だよ」
「見たぞ」
陽輝は胸に手を当てた。
「座って。昼飯を食って。彼女と」
凪は一秒、目を閉じた。
「陽輝……」
「いや」
彼はより大きな悲劇を止めるように手を上げた。
「まず知っておいてほしい。これは俺を男として、友として、そして潮峰学園の一市民として傷つけた」
凪は鼻から息を抜いた。
「悪かった、たぶん」
「空っぽの謝罪は受け取らない」
陽輝は身を乗り出した。今度は本物のエネルギーがあった。
「紹介してくれ。頼む」
凪は彼を見た。
「何を?」
「紹介してくれ、頼む」
陽輝は両手を合わせた。
「どうやって知り合った? 実は親戚? 近所? 社会的透明人間みたいな男子を更生させるプログラムの担当者? 俺が生き続けるための何かをくれ」
それでも、凪は少し笑いかけた。
「説明できない」
「それが一番まずい」
陽輝は額に手を当てた。
「かなりまずい。俺が彼女に一番近づいた距離は、七メートル二十五センチなんだぞ」
凪は眉を上げた。
「なんで分かるんだよ」
陽輝は傷ついた尊厳をまとって背筋を伸ばした。
「好きな相手なら普通だろ」
「普通じゃない」
「強者にとっては普通だ」
会話がこれ以上悪化する前に、教師が入ってきて授業が始まった。
凪は、話の半分も聞いていなかった。
ペンは機械的な間隔でノートの上を動いていた。注意しているというより、身体の記憶だけで動いている。視線は何度も窓へ、反射へ、自分の手へ逃げた。
ここ数年、人から距離を取ってきたのは、まさにこれを避けるためだった。
超常現象ではない。
そんなものは、そもそも名前すら知らなかった。
そうではなく、残りの部分。
人間の部分。
近づいて、何かを期待して、結局それがただの雑音か、勘違いか、世界同士の高さの差だったと知る部分。
今でさえ、すべてが起きたあとでさえ、透花の近さはやむを得ない理由によって存在していた。
学校が勝手に理解するような意味で、彼女が彼を選んだからではない。
彼女のような女子が、自分の意思だけで彼を探しに来るはずがあるからでもない。
彼が、彼女を帰れなくしている問題の生きた中心だからだった。
その考えは、思った以上に痛かった。
たぶん、心のどこかで、もうそれを忘れかけていたからだ。彼女が、何のつもりもなく彼の神経をかき乱すような、あのまっすぐすぎる誠実さで話しかけるたびに。
手の印が少し動いた。
目を落とすには十分だった。
机の上で、指の影が一瞬だけ失敗した。わずかに遅れて描かれたみたいに。
凪はすぐに顔を上げ、窓の外を見た。
遠くのグラウンドで、体育のクラスがトラックの周りを走っている。
その中に透花がいた。
走っていても、彼女は正しすぎた。結んだ髪は測られたような軽さで揺れ、足取りはきれいで、姿勢は周りのどの女子よりも整っていた。よく見せようと努力して走っているのではない。単に、乱雑なやり方を知らない人間の走り方だった。
一秒だけ、彼女が校舎のほうへわずかに顔を向けた。
あの距離から、彼が見えるはずはない。
それでも凪は、彼女が自分のいる場所を正確に知っているような、馬鹿げた感覚を覚えた。
印が落ち着いた。
午後は持つかもしれないと思った。
たぶん。
午後は、期待する勇気が持てた以上には、ましに進んだ。
まし、というのは、良いという意味ではない。
ただ、耐えられるという意味だった。
教室を移動した。また座った。次の教師が四十分間、何かについて話し続けたが、凪は半分しか聞いていなかった。陽輝はまだ、劇的に傷ついた視線を二度送り、未来の尋問を無言で予告してきた。日和はもう話しかけてこなかったが、凪が一度窓を見ているのを見つけ、何でもないふりをするには少し遅すぎるタイミングで目をそらした。
表面上は、潮峰学園の普通の午後だった。
表面上は。
次の休み時間、凪はクラスと一緒に廊下へ出た。窓から白く清潔な光が差し込んでいる。世界が何度も、自分が正しく組み立てられていないことを証明した日にしては、あまりにも普通すぎる光だった。生徒のグループが壁にもたれ、声が交差し、階段のそばで誰かが大きく笑い、教師が書類の束を胸に抱えて通り過ぎた。
すべて普通。
凪は一段下りた。
もう一段。
その瞬間、周囲の音が沈んだように感じた。
完全に消えたわけではない。
遠くなった。
学校全体が、ガラスの壁の向こうへ押しやられたみたいに。
隣の友達に向かって笑おうと口を開ける女子が見えた。手で手すりを叩く男子が見えた。教師がそのまま階段を下りていくのが見えた。
けれど、どれも本当には彼まで届かなかった。
一秒だった。
たぶん、二秒。
そのあと、音が一気に戻ってきた。足音、笑い声、話し声、階段の反響、磨かれた床を靴底がこする音。
「成瀬?」
陽輝が三段下で、振り返っていた。
凪は瞬きをした。
「何?」
陽輝は眉をひそめた。
「階段の真ん中で、幽霊でも見たみたいな顔して止まってたぞ」
凪は手すりに手を置いた。
「その可能性を検討してたのかもな」
「最高だな」
陽輝はまた下り始めた。
「天霧さんを紹介する前に死んだら許さないからな」
凪は返すべきだった。
返さなかった。
下の階に着くと、彼は反射で反対側の棟を見た。
透花は横の廊下の窓際にいた。学校がいつも彼女の周りに自然に作る距離に囲まれている。二人の女子が彼女に話しかけていて、透花は聞き、一度うなずき、何か短く返す。その場の全員が、彼女の存在を中心に自然に組み直されていくように見えた。
一瞬、彼女の目が上がった。
廊下越しに、彼の目と合った。
表情は何も変わらなかった。
それでも凪には、彼女が何かに気づいたのだとすぐに分かった。
次の授業はほとんど何事もなく進んだ。
途中で、教師が教科書の一節を読むよう彼の名前を呼んだ。凪は立ち上がり、本を少し引き寄せ、読み始めた。
つもりだった。
最初の一文は低すぎた。
遠かった。
まるで自分の声が、身体の残りとは少しずれた場所から出ているみたいに。
教師が目を上げる。
「もう少し大きく、成瀬くん」
凪は繰り返した。
今度は普通に出た。
前の席の二人が、特に興味もなさそうに椅子の上で少し動き、教科書に戻った。教師は何もなかったように授業を続けた。
けれど凪は、必要以上にゆっくり座った。
感覚は残った。
小さかった。
耐えられないくらい小さかった。
自分にしか見えない、けれどもうすべての表面に探さずにはいられない、ガラスの細いひびみたいに。
最後の授業が終わるころには、外の光は昼の硬さを失っていた。学校はゆっくりと空になり始めている。廊下にはまだ人の動きがあったが、リズムが変わっていた。急ぎ足は減り、足を引きずる音が増えた。部活、テスト、コンビニ、夕飯に何を食べるかを話す、疲れた声が増えていた。
陽輝は元気を取り戻した様子で鞄を片づけた。
「母さんにまた菓子の材料にされる前に帰らないと。でも、これは終わってないからな」
彼は二本の指を自分の目に当て、それから凪を指した。
「説明はしてもらうからな」
「お前に有用な説明はない」
「じゃあロマンチックなのを作れ」
陽輝は鞄を持ち上げた。
「また明日、裏切り者」
凪が返す前に、彼は出ていった。
日和は最後のほうに立ち上がった一人だった。凪の席の横を止まらずに通ったが、今回は何も言わなかった。ただ、短く、奇妙な視線を彼に向けた。昼より鋭くなく、だからこそ、もっと読みづらかった。
凪は教室がほとんど空になるまで待ってから出た。
教室の外の廊下は、もうずっと静かだった。足音は間隔を空けて聞こえ、閉まる扉と、遠い声と、一日の終わりに向かってますます空っぽになっていく校舎の反響に分断されていた。
ただ疲れているだけかもしれない。
最悪の部分は過ぎたのかもしれない。
あの午後は、透花の言った通りだったのかもしれない。
耐えられる、と。
彼は横の階段へ続く廊下を曲がった。
数メートル先で、一人の女子が西側の窓沿いを歩いていた。すぐには顔を思い出せなかった。別のクラスかもしれない。鞄を片方の肩だけにかけ、急いで学校を出る理由があるようには見えないのに、歩き方だけが速すぎる。スマホは見ていない。誰とも話していない。ただ、古い廊下のほうへ歩き続けていた。副体育館へつながる、あの時間にはほとんど人がいなくなる場所へ。
凪は足を緩めた。
空間のどこかがおかしかった。
廊下がきれいすぎる。
彼女の足音が、十分に鳴っていない。
夕方の光はまだ窓から差しているのに、床に正しい強さで触れていないように見えた。
凪は眉をひそめた。
「待って!」
自分の声は聞こえた。
はっきりと。
女子は反応しなかった。
歩き続ける。
凪は足を速めた。
「おい!」
何もない。
遅くなることもない。振り向くこともない。音が彼女に届いたと示す、いちばん小さな反応すらない。
周囲の空気が狭まった。
公園のときとは違う。
別の形だった。
もっと微細で。
世界の内側に、綿が詰められていくような。
凪はもう一度呼んだ。今度はかなり近くで。
声は出た。
彼には聞こえた。
けれど廊下が、その途中で声を飲み込んだみたいだった。
女子は振り返らないまま、副体育館の廊下へ曲がった。
凪は不意に立ち止まった。
この先の沈黙は、完全な沈黙ではなかった。
選別された沈黙だった。
そのとき、姿を見るより先に、隣に気配を感じた。
透花が廊下の端に現れていた。呼吸がわずかに乱れている。急いで来たのだと分かる程度には、けれど身体にそれを認めさせない程度には。
彼女はまず凪を見た。
次に、女子が消えた廊下を見た。
それから、彼の手の印を見た。
表情が変わった。
学校で見せる静かな精度が消える。顔は、公園で彼が知ったあの、権威を帯びた、あの厳しい輪郭へ戻っていった。
「成瀬くん」
低く、彼女は言った。
凪は彼女を見た。
「俺の声……」
透花は一歩前へ出た。目は静かな廊下に固定されたまま。
「分かっている」
夕方の光は、そこでは少し弱く見えた。まるで校舎が、学校の他の場所と同じ忠実さで音と色を反射することを、もう忘れ始めているみたいに。
透花は前から目を離さず、もう一度言った。
「始まった」




