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半神失格  作者: KoiToHimitsu


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第3話 『近づくほど、危うい』

凪の目は、自分の脚に釘づけになっていた。肌は青白く、もう表情で何かを隠そうともしていなかった。


「立てる?」


透花は問いながらも、公園から完全には目を離していなかった。どこまでがもう一度世界に従い、どこからがまだ従っているふりをしているのか、測っているみたいだった。


「お、俺……たぶん、大丈夫です。天霧さん」


敬語は反射で出た。あのあとで、ただ透花と呼ぶほうが、むしろずっと不可能に思えたからだ。


凪はまず膝に触れ、それから脛、最後に足首へと手を移した。そこに雑に縫われた継ぎ目でもあるのを期待しているみたいに。


透花が半歩近づく。


「可動、感覚、視認上の異常を確認して」


凪はゆっくり顔を上げた。


「それ、“脚が大丈夫か見て”って言ういちばん怖い言い方だったけど」


「そのほうが正確だった」


「正確さが助けになってない」


彼女の姿勢は相変わらず非の打ちどころなく、まっすぐで、機能的だった。人を落ち着かせるという概念だけが、訓練課程から抜け落ちていたみたいに。


凪は慎重に立ち上がった。脚はどうにか支えてくれたが、わずかな遅れがあって、すぐにでもまた座り込みたくなった。


「いったい何が起きたんだよ」彼は早口で訊いた。「それに、なんで俺の手にこんなのがある?」


右手を持ち上げる。黒い膜はまだ皮膚に張りついていた。汚れというには生きすぎていて、現実というには控えめすぎた。


透花はそれを、凪が望むより一秒長く見た。


「こちら側に属していない物体に触れた。接触は受理された。接続が始まった」


凪は彼女を見た。


何を言われたかより、その言い方のほうがきつかった。誰かの人生が急に壊れたというより、検査結果でも伝えているみたいな声だった。


「接続が始まった?」と彼は繰り返した。「自分で言ってること聞こえてる?」


「聞こえてる」


「よかった。じゃあこれを完全に狂ってると思ってるの、ここで俺だけなんだな」


透花は、その文のいちばん有用な部分を無視した。


「公園で起きたのは、起動中の境界断裂。局所現実の優先権が、誤った層に移り始めた」


凪は瞬きをした。話題の切り替えは、彼女にしては十分すぎるほど唐突だった。


「何ひとつ意味が分からない」


「部分的に除去されかけた、という意味」


嫌なくらい正確に、沈黙が二人のあいだへ落ちた。


凪はもう一度脚を見た。


「部分的に?」


「そう」


「それ、もう少しマシに聞こえる版とかないの?」


透花は一秒だけ考えた。


「ない」


彼は手で顔をこすった。


「最高だな」


ようやく透花は彼の手から目を外し、公園の向こうの通りへ視線を向けた。表情はまだ冷たいままだったが、完全には安定していなかった。そこには計算があった。苛立ちも。


凪はそれに気づいた。


「天霧さんって、何なんだ?」


彼女はすぐには答えなかった。


月はまだ高い。街灯はもう普通に戻っていた。水盤もまた水に見える。だが、それだけではこの場面を人間的なものに戻すには足りなかった。


透花は彼から一歩離れた。


「それは後でもいい」


「天霧さんにはな」


「今は、ひとつ確認しないといけない」


凪は眉をひそめた。


「何を?」


透花は答えない。ただ、公園の中にいるまま、二人のあいだにある見えない何かを測るように、彼から目を離さず、ゆっくり距離を取っていった。歩幅ひとつひとつが計測そのものみたいだった。


一歩。


もう一歩。


三歩目で、何も起きない。


四歩目で、凪の手の印が不意に縮んだ。


彼は反射で手を胸元へ引き寄せた。指のそばの黒い膜が、生きたインクみたいに皮膚へ食い込もうとするように締まりつく。同時に、足元の影がありえない方向へ伸びた。


凪は動けなかった。


公園の中央の水盤がまた暗くなる。月の映り込みが黒い染みに砕けた。いちばん近い街灯の光が一度、また一度と揺らぎ、何ひとつ決められなくなったみたいに見えた。


「天霧さん」


透花が止まる。


彼の靴のそばの地面が、音のない震えとともに崩れた。まず輪郭として沈み、それから深さとして沈む。まるで夜そのものが、まだ彼を欲しがっていることを思い出したみたいに。


凪は本能で後ろへ引いた。


踵が影に半分まで沈む。


「うわ、ちょ、やめろ、やめろ……」


引き抜こうとしたが、闇はゆっくりと、そして理不尽な力で彼を掴んだ。急ぐ必要なんて最初からない、とでも言いたげに。


透花は即座に戻ってきた。


「動かないで」


「飲み込まれないように必死なんだけど。これ、加点される?」


彼女は答えなかった。


さらに二歩、速く詰める。近づくにつれ、公園の影たちが震えた。完全には退かない。だが、迷っていた。彼女の存在が、空間そのものに、どちらの現実へ従うのかもう一度選ばせているみたいに。


凪はもう片方の足の下でも地面が抜けるのを感じた。


そのとき、透花が彼を掴んだ。


彼女の指は、黒い印がまだ呼吸している右手、そのちょうど上に迷いなく、しっかりと閉じた。温かかった。夜にも、公園にも、彼の頭の中にある彼女という存在にも似合わないほど、温かすぎた。


反応は即座だった。


凪の足元の影が、いきなり縮んだ。見えない一撃を食らったみたいに。地面の黒が震え、深さを失い、どうにか、歪ではあるが耐えられるただの影という形へ戻っていく。


凪は息を跳ねるように吐き、あやうくまた膝をつきかけた。


透花はすぐには手を離さなかった。


二秒か三秒、そのままだった。視線は彼の手に固定されたまま。見たくもない計算が実証されたのを確認しているみたいに。


二人の周囲で、公園はゆっくりと形を思い出していった。水盤はまた水に見え、街灯は安定し、いちばん近いベンチも腕が多すぎる影を落とすのをやめた。


最初に口を開いたのは凪だった。


「これ、最悪の知らせって解釈していい?」


透花は印から目を離さない。


「いい」


「素晴らしい。一貫してて助かる。」


そこでようやく、彼女は手を放した。


凪はほとんどその場に座り込んだ。自分で選んだというより、急にエネルギーが切れたせいだった。脚はまだ言うことを聞いたが、どこか、あるべきでない場所から戻ってきたばかりのものみたいに、不機嫌な尊厳を帯びていた。


透花は彼の前に立ったまま、一瞬動かなかった。現実そのものとの口論に負けたばかりの人間みたいに、顔つきが硬い。


「初回接触の直後に、これほど強い接続は見たことがない」と彼女はようやく言った。「しかも、この種の不安定性が距離にここまで早く反応するのも」


凪は彼女を見上げた。


「それ、もう一回、普通の人間向けの日本語で頼む」


透花は、傷ついた誇りの気配もなく、その訂正を受け入れた。


「私が離れると、悪化する」


沈黙がまた二人のあいだに落ちた。


凪は自分の手を見た。次に足元の影を。それから彼女を。


「どれくらい悪く?」


透花はためらわずに答えた。


「成瀬くんを少しずつ失うくらいには」


彼は彼女を見た。


「お前、毎回いちばん最悪な言い方を選ぶ才能あるよな」


「私は正確な言い方を好む」


「知ってる」


透花は一度、公園の向こうの通りへ目を向け、それからまた彼を見た。


「この強度が続く限り、成瀬くんは近くにいるものすべてにとって危険」


凪は眉をひそめた。


「すべて?」


透花は答えるまでに一秒かかった。


「そう」


凪はまだ息を整えながら、膝に肘をついた。


「それって、人も入るのか?」


「とくに人」


その返答だけ、ほかの全部とは違う重さで二人のあいだに残った。


夜が壊れ始めてから初めて、凪は理解した。問題は、公園で自分に起きかけたことだけじゃない。


これから、自分を起点に起き始めることのほうだった。


「行く」


透花は返事を待たずに振り返り、公園を出た。凪は一拍遅れて、脚に従うよう命じてから後を追った。


柵の向こうの通りはまた普通に見えた。ただ、遠目にだけ。家並みは坂に沿って整い、カーテンの向こうの灯りはまだ点いていて、大通りからの低い唸りには遠い海の気配が混じっていた。それでも、公園での一件のあとでは、全部があまりにも行儀よく見えた。街全体が、何も見なかったふりをしているみたいに。


しばらく二人は無言で歩いた。


凪は彼女の半歩後ろをついていた。自分の影にまで監視が必要な気がしてしかたなかった。右手はあるべきより重い。指のそばの黒い印は静かだったが、死んではいなかった。


角を曲がった先に、コンビニが現れた。あの白く無機質な光に浸されて、何でも遅くまで開いているように見える、あの感じのままに。自動ドアが短い音で開き、中のぬるい空気が二人の顔に当たった。


透花はその店に、もともと配置を全部知っていた人みたいな足取りで入っていった。棚を迷いなく抜け、レジ脇の温かいケースへまっすぐ向かう。


湯気の上がった肉まんを二つ選んだ。白くてやわらかい生地は結露でわずかに艶を帯び、甘い玉ねぎと肉の温かい匂いが、その時間帯にはほとんど不道徳なくらいの勢いで空気に広がった。


会計を済ませ、外に出ると、彼女は店のガラス窓の横にある細いベンチへ腰を下ろした。


ひとつを凪に差し出す。


凪はそれを見た。


次に彼女を見る。


「買ったの……肉まん」


「そう」


「確認の質問じゃなかったんだけど」


透花はわずかに首を傾げた。


「だったら、聞き方が悪かった」


凪は鼻から息を抜いた。笑いというより、疲れた降参に近かった。


「なんでそんな、これが普通のことみたいに振る舞ってるのかって聞きたかった」


透花は最初のひと口をかじった。


湯気が頬のそばへ上る。白いガラス窓の光の下で、公園で見せたあの厳しい輪郭が少しだけほどけた。彼女を、妙に近い存在にしてしまう程度には。


飲み込んでから答える。


「この一年で、いくつか有用なことを学んだ」


凪はまだ食べ物に手をつけないまま、彼女の隣に座った。


「影に飲まれかけたあとで食事するとか?」


「こういうこと」透花は自分の肉まんを、真面目な顔のまま見た。「食べると安定しやすい。身体のほうが早く緩む」


凪はようやく自分の手の肉まんへ目を落とし、小さく、疑い深いひと口をかじった。


熱すぎた。


うますぎた。


ああいう夜に対して、不公平なくらいうまかった。


透花は横目で一瞬だけ彼を見た。方法がまだ有効か確認しているみたいに。すぐにまた視線を通りへ戻す。


しばらく二人は話さなかった。遠くで自転車が通る。車が一台、通りから大通りへ曲がる。店のガラスには、二人が並んでいる姿がほとんど普通に映っていた。


沈黙を破ったのは凪だった。


「俺が触ったあれ……」自分の手を見た。「名前、あるのか?」


透花は指先をナプキンで拭いた。


「ある」


凪は待った。


彼女も待った。


凪は彼女のほうを向く。


「言わせる気?」


「そう」


彼は一秒だけ目を閉じた。


「何ていうんだよ」


透花はためらわずに答えた。


「アンブラ」


その単語は、必要以上の重みを持って空気に残った。あるべきより古いものみたいに。


凪は低く繰り返した。そうすれば少しは馬鹿げた感じが薄れるかと思って。薄れなかった。


「で、天霧さんはそれのせいでここにいたのか?」


「正確には少し違う」透花は通りを見たまま言う。「私は、それを隠していた案件のためにここにいた」


凪は眉をひそめた。


「影の案件」


「そう」


「それで一年も学校にいたのか?」


透花はもうひと口かじった。学園への長期潜入で亀裂を抑え込んでいた期間みたいなものが、重要度中くらいの事務情報にすぎないみたいに。


「そう」


凪はまた彼女を見た。


学校一きれいな女子を見るみたいにではなく。


公園の化け物じみた存在を見るみたいにでもなく。


巨大で、新しくて、しかも隣に座って肉まんを食べている問題を見るみたいに。


先に食べ終えたのは透花だった。


空になった包装を、必要以上にきれいに折りたたむ。癖なのか、それとも考えながら手を使っていたいのか。


それから彼を見た。


「成瀬、一人暮らし?」


凪は目を瞬かせた。


「そう。親は遠くで働いてる。俺は学校があるからこっちにいる」


透花は、驚きも見せずにその情報を受け取った。公園を出た時点からずっと頭の中で動いていた計算に、ただその答えが収まったみたいに。


「なら、家まで行く」


凪はその言葉の射程を理解するのに一秒かかった。


「家まで?」


「そう」


「天霧さんが俺から離れられないから」


「その通り」


「で、俺は、天霧さんの言葉を借りるなら、近くにいるもの全部にとって危険なんだよな」


「とくに人」


「説明すると毎回悪化するの、ほんと才能だよな」


透花は立ち上がった。


「聞こえを良くするつもりで話してない」


凪はなお一瞬だけ座ったままだった。手の中の食べ残しの肉まんと、空いた通りと、許可もなく組み替えられていく自分の人生を見ながら。


彼も立ち上がったとき、夜がまだ終わっていないことに気づいた。


普通の日常のほうも。


そっちはもう、たぶん、完全に終わっていた。


透花は店の明かりのそばで彼を待った。


表情はまたいつもの精度へ戻りつつあったが、声は公園の時とは違っていた。切れ味が少なく、少し低く、ほとんど人間らしくて、居心地が悪いくらいだった。


「今夜は」と彼女は言った。「ここにいる」



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