帰れなくなった治癒師⑩ オミユシとの約束
[オミユシ視点]
「そなたが神聖国の当主か?」
その問いかけに、仮面を下に引っ張る手の動きが一瞬止まってしまう。
その反応を彼は見逃さなかったようだ。わずかに口元が緩んだ。
「そうか……。おっと、済まぬな」
私と会話をしながらも、彼は時折シーチェルダに視線を送った。
シーチェルダが渡された紙を広げ、どうしていいかわからず、固まっている。
すかさず彼は、その紙自体がトイレだと教え、あの部屋で用を足してくるように指をさした。
そして、シーチェルダが視界に入らないようにするため、私の肩を抱いて、シーチェルダが背後になるように動いた。
彼は私との会話を続ける。
「湖の主には手を出さなかったようだが」
「たまたまだ」
「それで、当主自ら何をしに来た?」
「ラスティネルを連れ戻しに来ただけだ」
その言葉に、彼の瞳の奥で赤い焔が一瞬強く燃えた。
「この娘には仕事がある。しばらくは帰れぬぞ」
「治癒師の仕事か?」
「ここの監視だ。少なくとも1年はやってもらう」
「……?」
「湖の主は私の大切な友だからな。監視が必要だ」
「彼女は治癒師だ。監視など向いていないぞ」
私が指摘すると、彼は振り返って、咳き込むシーチェルダの様子を見る。
「うむ。しかし現に、こうして侵入者二人を捕らえたではないか」
「それは……」
私は言葉を返せなかった。
彼は後ろで水を飲んでむせたシーチェルダの背中を優しくさする。
ここで話題を変えた。
「あの黒いモヤがある限り、私たちは自由に行き来できないのだが」
「お主と一緒に来れば良かろう。自由に行き来されると私が困る。そなたたちの存在は、私にとっては害でしかないからな」
「そうか……」
害とまではっきり言われると何も言えない。
さらに話題を変えた。
「ところで、ラスティネル以外の治癒師の行方は……」
「それは知らぬ。だが、それを知る男が資料を持って、ここへ来るはずだ」
そう言うと彼は少年の部屋へ向かう。
音もなく扉に近づき、音もなく扉を開け、音もなく扉を閉める。
「どうした?」
「特に意味はないです」
地図模型の間に挟まれるようにして少年が寝息を立てている。
その天使のような寝顔は、私の仮面を取ろうとしていたとは思えない。
彼は机の上に置かれたいくつかの建物模型をじっと見つめた。
精巧に作られたその造形は、生気に満ちた状態でいつ出番が来るか、今か今かと待っているようだった。
「その一瞬を再現することに何の意味もないと思ったが、こうして見ると感慨深い……」
私は自分の国周辺の地図模型を眺めている。
「良かったら、プレゼントしようか? よければだが……」
「それでは、あなたが今、いちばん欲しい物を用意しておきますよ」
私は思わず指先でリズムを刻んでしまった。
夜明けが近づいてきたのだろうか、部屋の中が明るくなり始めた。
私は、立ち去ろうとする彼の背中に声をかけた。
「今度は、本当の姿で私の国に来てください」
「私を封印でもする気か? まあ、それでも構わぬが……もし私が本当の姿で現れたら、そなたの国の民は腰を抜かすだろうな」
彼は愉快そうに首を前後に揺らす。
そういうと、部屋を出て行った。
私もあとを追って部屋を出た。
床で眠っているシーチェルダをそっと両腕で抱く。
そして、ドームの天井を目掛け跳躍した――
しかし、天井を抜けられない。
天井の柔らかい感触は伝わるが、抜けられそうにもない。
ふと下を見ると、彼は私を見上げている。
私は一旦、降りることにした。
「あの赤い枠の中に立っていれば出られる」
彼はそう言って指をさすと、朝靄の中に溶けるかのように壁の中へと消えていった。
◇◇◇
ラスティネルがゆっくりとまぶたを開けた。
ドームの中はすっかり明るい。
どこまでも高い天井を見て、自分の部屋で寝ていないことに気づいた。
スッと上体を起こし、辺りを見回すが誰もいない。
四つの部屋の扉を順番に開けて見て回ったが、二人の姿がない。
どこを探しても二人の気配すら残っていなかった。
ふと、自分の肘に違和感を覚えた。
カエルの着ぐるみについていた二枚の羽に元通りになっている。
右左で羽の一本一本の繊維を指先で確かめながら、二人の手掛かりを探す。
もう一度、同じ場所を隅々まで見て回ったが、痕跡すらなかった。
「もしかして、帰っちゃった?」
ドームの天井や壁から落ちてきた光の粒二つを手のひらで受け止める。
手のひらが存在しなかったかのように、光の粒はすり抜け、地面に置かれた布へと落ちていく。
ラスティネルはハッとする。
急いで、その布をめくった。
「分かってる……」
小さく呟くと、すぐに布を戻した。




