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帰れなくなった治癒師⑧ 不死王、少し焦る


不気味にうごめく黒いモヤが、寄せては返す波のように湖岸を侵食していく。

その光景を、ミオンは不安げな瞳で見つめていた。


「ぼく、確認したいことがあるから。ちょっと見てくるね」


そう言うと、ミオンは黒いモヤの中へと駆け出していった。

それをボーッと眺めていたラスティネルだったが、ふと我に返ると身動きの取れない二人と黒いモヤを交互に見る。

黒いモヤから避難させなくては……。


「ごめんなさい……」


そう言うと、オミユシ様とシーチェルダを順番に一人ずつ、薄いピンクのくぼみの中へと運んでいった。



◇◇◇



湖を見渡す山の麓。

そこには、まるで彫像のように動かずに湖を見続ける一体の死霊兵が佇んでいる。

ネクロマンサーの婆さんを通して、不死王に状況を伝えるため、

刻一刻と表情を変える湖を静かに見守っていた。




漆黒の巨城、最上階。

不死王は、机に積み上がった紙と戦っていた。

横から近づいた婆さんがその肩をちょんちょんと突くが、あまりの集中ぶりに反応がない。


「ぉぃ」

「うむ」

「黒い湖が戻ったぞ」

「黒い湖が戻った?」


不死王は読みかけの書類を置き、眼窩に宿る赤い焔を輝かせた。

事態は急を要する。

不死王は念のため、文官ヨトフの姿へと変身し、鏡でその出来を確認した。


「よし!」


すぐさま、椅子に座ったまま転移した。


「ドサッ……」


転移先には椅子はない。

尻もちをついた不死王は土を払いながら立ち上がる。

その視線の先には、黒いモヤへと向かって走る少年の小さな背中があった。



呼びかけに足を止めたミオンが、不思議そうに首をかしげる。


「おじさん、なんでここにいるの?」

「私だ、少年」


不死王は腕をまくって、禍々しくも凛然たる骸骨を一瞬見せつけると、ミオンの顔が「ぉ」となった。


「旦那!」


小さな体が胸元に飛び込んでくる。


「少年、何があった?」

「たぶん、ラスティネルの知り合いが来たみたい」

「……ラスティネル? 治癒師の名前か。そういえば名前も顔も確認してなかった」

「でも、ラスティネルが捕まえてたよ」

「そうか、そうか。早速、役に立ったか」


満足げに頷いた不死王は眼窩の赤い焔を揺らした。

ミオンの腰を抱え上げる。

そのまま一気に空へと舞い上がった。

湖面を見下ろすと、黒いモヤが禍々しくうごめいている。


「旦那! もっと高く! もっともっと高く!」

「少年……、心配ではないのか?」


不死王は黒いモヤの出所を特定しようとする――



一点を見つめた。次の瞬間、猛スピードで急降下を開始する。

あまりの風圧と加速に、ミオンは顔を引きつらせて声も出せない。


不死王の体が、湖面に触れるか触れないかのところでピタリと止まった。

その衝撃が円状に広がり、黒いモヤを吹き飛ばす。


そこには、巨大な魔龍が仰向けで現れた。

「一体何の騒ぎだ?」とでも言いたげな瞳でこちらを見ている。


「大丈夫か?」


不死王の問いかけに、魔龍はそっとしておいてくれとでも言わんばかりに瞳を閉じる。

その泰然自若とした様子に、不死王の肩からようやく力が抜けた。


「よかった……」


「よし、帰るぞ、少年」

「えっ、もう帰るの?」

「また、あとで来る」


ミオンを湖岸にそっと降ろした瞬間、不死王の姿は消滅した。

ミオンは名残惜しそうに、不死王が居た場所ではなく、空を見上げていた。


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