帰れなくなった治癒師⑤
『質問は二つだけだ。今度そっちに行くから、急ぎでないものは、その時にまとめてだ』
旦那が私の質問にすぐ答えてくれるチャンスがやってきた。ただし、二つだけ。
私は早速、連絡板に文字を書く。
『大聖堂にいた人たちのことを教えてください。まだ生きている人はいますか?』
返ってきた言葉は、予想外だった。
『そのことだが、向かっているよ』
「は?」
思わず声が漏れ、固まってしまった。
向かっている? 誰が? どこへ?
もしかして、生き残った人たちが、ここに向かっている?
それとも、あの漆黒の城の下に救出に向かっているのだろうか。
その意味を解読しようと色々と考えていたところで、板の文字はすぐに書き換えられた。
『次の質問は?』
もやもやを抱えたまま、今の自分にとって最も切実な願いを板に書いた。
『湖の黒いモヤが晴れたら、一度、神聖国に帰りたいです。許可してください』
すぐに返信があった。
『うむ』
私は連絡板を握りしめ、目を閉じ、声を出さずに叫んだ。
(もーぉ、どっちなの!)
◇◇◇
大切なことを確認するのを忘れていた。
三つ目になるけど、連絡板に書き込む。
『国境警備は何をしたらいいですか? 最初なので周りがどうなっているか、覚えようと思っています』
すぐに返事はこないだろうけど、書いておいた。
私は連絡板を置いて立った時に、扉の脇に見慣れないものがあるのに気づいた。
浮き輪のような形をした物が扉の後ろの壁に立てかけられていた。
やわらかい。ギュッと握るとプルプルする。
なんだろう、これ。
左右にそれぞれ黄色い部分があるのだが、そこだけがプルプルする。
上に乗ってみると面白いかも……と思い、床に置いた浮き輪の上に右足を乗せた。
その瞬間、浮き輪だけがまっすぐ動いた。
ドンッ
私は思わぬ反動で床におしりを着いてしまった。
重心をかけるだけで、前後に動く乗り物のようだ。
浮き輪に重心をかけてはすぐに足を外したり、時にはバランスを崩して後ろに倒れそうになりながら、何度もチャレンジした。
そして、ようやく行きたい方向に移動できるようになってきた。
慣れてくると、面白い。滑るように地面を移動できる。
机の上に置いていた連絡板に文字が浮かび上がっている。
『基本はそれでいい。あと、もし人を見かけたら、捕まえてほしい』
無茶を言わないでほしい……。
『私、強くないです。一人だと危険です』
部屋を一周していたら、もう返事がきていた。
『うむ』
まただ……。
思い通りに浮き輪で移動できるようになってきた。
楽しい。
早く外に飛び出して風を感じたい。
私は早速、黒いモヤがない時に、浮き輪に乗って外へと繰り出した。
外は床のように平らではないので、バランスを保ったまま移動するのが難しい。
時折、地面を蹴ってバランスを取りながらも、スイスイと滑る感覚に思わず頬が緩む。
どうか、誰もいませんように。
心の底から祈りながら、私は周辺の山を駆け巡った。
風を感じている間、国に戻れないかもしれない不安は限りなく小さくなった。
◇◇◇
四方を険しい山々に囲まれた盆地にある、人口二千人ほどの我が国――ヴェルトゥール神聖国。
治癒師の派遣と聖水の分配で成り立っている。
山に閉ざされたこの国から隣国へ向かうのは、それだけで一苦労だ。
そのため治癒師たちは、東西南北の担当に分かれて営業先へと赴く。
私は西側を担当する治癒師、シーチェルダ。三十歳。
二十歳そこそこのラスティネルとは一回り年が違う。
私にとって、彼女は妹のような存在だった。
現在、西側担当の治癒師六名は、全員がロレンスマーク王国に滞在している。
留守番を任されていた私は、予定日を過ぎても誰一人として帰ってこないことに業を煮やし、一人、国境まで来ていた。
異変は起きていた。
湖が黒い。そのせいで帰れないのかもしれないと思っていたのだが……。
私は稜線に立ち、遠筒を覗き込んだ。
レンズの向こう、黒い湖のさらに先。
そこには、奇妙な物体に乗って、楽しげに山を駆け巡るラスティネルの姿があった。
「何をやってるんだ。あの子は……」
こちらの心配をよそに、彼女は遊んでいるようだ。
その姿は、あまりにも呑気だった。




