帰れなくなった治癒師③
私は湖を見渡せる山の稜線へと再び戻ってきた。
相変わらず、湖は何かを隠すように、禍々しい黒いモヤに覆われている。
山から下りて、できるだけ湖に近づいたが、ドーム型の建物なんてどこにも見当たらない。
黒いモヤを避けるようにして、周辺を散策するが、建物なんて影も形もない。
土に埋もれるようにして、地表に少しだけ頭を出している薄いピンクのくぼみがあった。
その周辺だけは黒いモヤが避けているように思える。
私は吸い寄せられるように、そのくぼみに近づき、手をかけた。
触れた感触は柔らかく温かい。両手で押しても形は崩れず、しっかりしている。
そのまま、そのくぼみへと腰を下ろした。
その瞬間。
お尻の下が抜けたような感覚になり、視界が一瞬で切り替わった。
叫びを上げる間もなく、視界が暗くなり、全身が浮遊感に包まれた――
気づけば、私はふわふわの床の上、壁に背中をもたれている。
窓のない、閉鎖的な空間。しかし、明るい。
見上げてよく見ると、薄いピンクの壁から光の粒が出ていて、光源となっているようだ。
ふと視線を感じたので、その方向を見てみると、部屋から一人の少年が顔を出してこっちを見ている。
どこにでもいるような、ありふれた少年だ。
私がびっくりして、どうしようかと考えていると、少年が近づいてきた。
「国境監視の人だよね?」
「……そうだよ……。私はラスティネル。よろしく」
「これ、お姉ちゃんの連絡板。はい――。ぼくはミオン。よろしくね」
少年がいきなり差し出してきたのは、手のひらより少し大きくて、黄色がかった白くて薄い板だった。
受け取ると、表面に書かれたぼんやりとした黒い文字がはっきりと浮き上がってきた――
「なんて書いてあったの?」
少年が小首を出して覗き込んでくる。
私は浮かび上がった文字を、一文字ずつに読み上げた。
『その少年は手癖が悪いから、貴重品は肌身離さずに』
「…………」
読み上げる途中で気づいたが、少年と言えども気まずい。
ただ、目の前の少年は気にする素振りもなく、私の荷物を何気なく確認しているようだ。
行動は怪しいが、つぶらで無垢な瞳をした、あどけない顔立ち。とてもそんな風には見えない。
それにしても、これのどこが連絡というのか。
私が本当に知りたいのは、こんな警告ではない。
大聖堂にいた人たちがどうなったのか。生き残っている人がいるのか。それだけだ。
◇◇◇
「ここがぼくの部屋」
ミオンが歩いて行って、誇らしげに指さしたのは、円状に並ぶ扉の一つだった。
「どこでも好きな部屋使っていいよー。どこでも同じだけど」
ミオンはそういうと自分の部屋に入っていった。
一人取り残された私は、残された三つの扉を眺めた。
私はまず一番近い扉に手をかけた。
順番に部屋の中を確認していく。
「全部違うじゃない……」
私は最後に開けた、ミオンと対面の部屋を選んだ。
いちばん生活感がなくて、キレイに整頓されていたから。
部屋の名札に名前を書いて、部屋の中に入った。
◇◇◇
「コンコン」
軽やかなノックの音が響いた。
扉を開けると、そこには相変わらずの無垢な笑みを浮かべたミオンが立っている。
「どうしたの?」
「お姉ちゃん。黒いモヤは大丈夫? 大丈夫なら、一緒にお出かけしようかなと思って……」
「黒いモヤ? 湖の上にある?」
「そう」
「直接触れたことがないからわからないけど、たぶんダメだと思う」
「そうなんだ。だったら、光の粒が出てない時だけ外に出た方が良いよ。光の粒が出てると黒いモヤがある時だから」
「どうやって外に出るの?」
「あそこ、床が赤くなっているところ。あそこにしばらく立っていれば、外に出れるよ」
私は部屋の入り口まで行って、ホールの床を確認する。
薄いピンクの床が、そこだけ赤くなっていた。
「食事はどうすればいいの?」
「ごはんは、あのテーブルの引き出し。できたてが届くよー。それと……」
ミオンは遠慮なく私の部屋の奥へと入って、棚から一束の紙を取り出した。
「トイレはこの紙ね。これ一枚あれば、しばらく使えると思う」
「…………」
ミオンが差し出してきたのは、てのひらより少し大きい、何の変哲もない紙の束だった。
その紙の大きさではどう考えても、一回であふれそうだ。
私は一枚だけ取り出して、両手で持って見つめていた。
「そんなにいっぱい出るの?」
この少年の純粋すぎる……。
(やめろ、想像するな!)
と、喉まで出かかったが、そこは高位で清廉な治癒師。理性で飲み込む。
私は努めて冷静を装い、落ち着き払って答えた。
「わかった。一度、使ってみる……」




