帰れなくなった治癒師①
私はヴェルトゥール神聖国の治癒師ラスティネル。
隣国・ロレンスマーク王国の王都にある大聖堂での仕事を終え、一足先に一人、帰路についていた。
国境付近。
もうすぐ見える湖を船で渡れば、神聖国にようやく入る。
山の稜線に立ち、いつもの湖に目を向けた。
青空を映して、穏やかにきらめいていた湖面。
その眺めは、記憶の中にあった光景とはかけ離れていた。
湖があった場所には、禍々しい黒いモヤがうごめいている。
それが湖面のすべてを覆い尽くしていた。
「なにあれ……」
独り言が、山肌に突きあたる風にさらわれ消えていく。
私は稜線から湖畔へと続く山道を、慎重に、かつ急いで駆け降りた。
何度も通った道。視界に入る緑は変わらないが、木々のさざめきが感じられない。
待ち伏せされているかのような黒いモヤに向かって、私は斜面を下った。
湖に近づくにつれ、空気が重く沈んでいく。
日当たりが良かった船乗り場へと続く道は、薄暗い影がかかっていた。
息を吐きながら踏み固められた道を進むと、そこには静まり返った異様な湖畔が広がっていた。
それでも、確かめるように湖畔へできるだけ近づいてみる。
その時、急な風に煽られた黒いモヤの端が、私の白い衣に触れた。
触れた箇所は瞬く間に黒く染まり、焼かれた紙のように、炎を上げることもなくめくれあがって剥がれ落ちた。
それから私は、近くの町に滞在して黒いモヤが晴れるのを待った。
けれど、空が何度、黄金色を重ねても、モヤの色は上塗りされることはなかった。
私は麻紐で括った金貨の縁を、親指で弾く。
パシッ、と乾いた金属の音が指先に響いた。
このまま、ここで黒いモヤが無くなるのを待っていても、無駄に金貨が減るだけ。
私は、神聖国に帰ることを一旦諦めることにした。
そして、つい先日まで身を寄せていた王都の大聖堂へと引き返すことにした。
その足取りは、来た時よりもずっと重かった――
再び戻ってきた王都。まっすぐ大聖堂に向かった。
いつもなら、ここには必ず誰かがいる。
しかし、今日は巨大な扉の外側から横木がしっかり嵌め込まれていた。
金の装飾が施された白い横木は全く、びくともしない。
それは、中に居る者を閉じ込めるようにも、あるいは外からの侵入を拒むようにも見えた。
こぶしの横でトントンと軽く扉を叩いてみた。その音は大聖堂の荘厳さに弾かれるようにかき消される。
「ねぇ! 誰もいないの?」
大聖堂から漏れてくる心洗われる聖歌も、出入りする治癒師の静かな足音も、今は何ひとつ聞こえない。
王都の喧騒から切り離されたこの一角で、私一人だけが静寂に取り残された気がした。
◇◇◇
私はたまらず、その場から逃げ出すように駆け出した。
「ごめんなさい!」
行き交う人に触れながら、石畳を叩く足音が響き渡った。
唯一の顔見知りである薬屋へとそのまま駆け込んだ。
薬屋の主人と目が合うなり、声を上げた。
「あ、あの! 大聖堂の人たちがどこに行ったか、知りませんか?」
息を切らして尋ねる私に、主人は最初、不審なものを見るような視線を送っていた。
すぐに私だと気づくと、顔の表情を緩ませて手招きをした。
そして、私だけに聞こえるような小さい声で、はっきりと言った。
「わからないけど、皆、亡くなったんじゃないかな」
「……」
雷に打たれたような衝撃が、全身を駆け巡った。
視界が一瞬で暗くなり、頭の中が完全に止まった。
私は次の言葉を絞り出すだけで精いっぱいだった。
「どうして……」
薬屋の主人は何も答えず、外を指さした。
窓越しに視線を追って――私はようやく、その異変に気づいた。
「ぁ……」
王城。あんなに白く輝いていたはずの城が、今は天を突くような漆黒に変わっていた。
以前よりも巨大で禍々しい城に置き換わっていることに今、ようやく気づいた。
「一週間くらい前かな。夜中に凄まじい地鳴りがしたんだ。夜が明けて、元の城が消え失せたのが確認できたんだけど、昼を待たずして『あれ』がそびえ立っていた。城に居た人は、一人も助からなかっただろうね」
主人はうつむきながら話し終えると、私を椅子に座らせ、カウンターの奥に消えていった。
私は、すぐに立ち上がり、漆黒の城を、ただ呆然と見上げていた。




