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65.1945年(春和元年)12月 イスタンブール⑤

 イスタンブールは12月になると、夜の気温が一桁台まで下がる。


 女帝の仮御座所のカメリア・パレスは全館中央暖(セントラル)房設備付き(ヒーティング)のアパルトマンだが、窓の隙間から忍び込む冷気までは防ぐことが出来ない。


 少しだけ底冷えがする。


 午後十時を少し過ぎた頃、マコトの自室として割り当てられている二階の部屋のドアから、ノックの音が聞こえた。


 マコトがベッドから立ち上がる前に、同室の綾小路が扉に向かって問いかけた。


「どちらさんですか?」

「私よ、綾小路。マコトはいる?」

「おりますけど……」


 綾小路はいささか困惑しながら、ドアを開けた。


 取り次ぎの女官ではなく、先触れもなく。


 最上階の五階に御座(おわ)す、女帝本人が。


 ネグリジェの上にナイトガウンを羽織った睦子(ちかこ)が、二階のマコトと綾小路が寝起きしている部屋の前に立っていた。


「女官と側衛官は、どないしはったんですか?」


 綾小路が睦子に目線を合わせるため、背中を少しだけ丸めた。

 彼女の側には誰も控えておらず、一人きりだった。


「綾小路。悪いけど呼びに行くまで四階の客間で待機してくれる? お願いじゃなくて命令よ。人払いしたいの」

「人払いって……陛下、僕には聞かせられへん話ですか? それとも澤城くんに夜這いですか?」

「夜這い、と解釈してくれていいわよ。五階のみんなにも『夜這いに行ってくるから付いて来ないでね。付いて来たら不敬罪よ』って命令したから」

「……いえ、その解釈は、僕の誤解やということにさせてもらえませんか? 心の底からお願い申し上げとうござります」


 睦子の長い睫毛に彩られた三白眼気味の大きな目の黒曜石の瞳が、冷やかに綾小路を睨みつけた。

 綾小路は、細い目を伏せて、渋々、という感情を滲ませて部屋を出た。

 バタンと扉が閉まる音を背中で聞いた睦子は、伏し目がちにマコトに歩み寄る。


 そして、ベッドに腰掛けるマコトの横、ではなく、膝の上に座った。


「陛下、恐れながら、本当に夜這いですか……?」


 あえて堅苦しい言い回しで問いかけると、睦子はマコトの首の後ろに腕を回し、耳元で小さく囁く。


「このほうが内緒話に向いているだけよ。綾小路が本当に四階へ行ってくれると思う?」

「……思わない」

「だから、この距離じゃないと聞こえない大きさの声で話すのよ」

「……近頃は目も合わせてくれないくせに、この距離はいいんですか?」

「いっそ、この前の続きでもしながら話しましょうか? 触れてもいいのよ? 本当に睦言を交わしていたなら、誰も詮索しなくなるわよ」

「……ヤケクソはやめようか……」


 マコトはため息をつく。


 この部屋は角部屋で、かつ隣が浴室で配管を通すために壁が厚い。

 日当たりは決して良くない部屋なのに、マコトも綾小路も、ここを相部屋で自室に定めたままでいるのは、会話の盗み聞きに適さないからだ。


「で、何の話に来たんだ? 睦子」


 呼び方はあえて『私的』にした。


「マコト、あなた昼間に橘と荻野を疑っていたわよね。何かあったの?」

「……樺山さんに、俺の旧知の……コミンテルンの残党が接触しているらしい。不確かな情報だから、内偵が必要だが」


 睦子が耳元で息を呑む。


 近衛隊長でカメリア・パレスの警備責任者の樺山に、李(リ)美蘭(メイラン)が接触している──。


 今日、ハマムでソ連外交官(ナルコミンデル)のイシュチェンコから聞いた情報だが、まだ真偽は定かではない。


「……つまり、カメリア・パレスは、あまり安全ではないの?」

「わからない。けど、別の拠点が欲しい、とは思う」


 震える声に、マコトは柔らかに返答してから背中を撫でる。


「でも……荻野が言った通り、女官たちは私に害を成すようなことは、しないわよ……蓉子(ようこ)は除いて」

「……菊池蓉子は除くのかよ?」

「だって、あの子、私がちょっといいなぁ、と思う殿方に先に手を出しちゃうんですもの」


 菊池は以前は側衛官の廣田(ひろた)重盛(しげもり)と不倫関係にあり、現在は近衛隊の大尉戸崎(とざき)清(きよし)と恋仲である。

 ちなみに菊池の元お相手、現お相手、硬派と軟派で系統は違えど整った顔立ちをしていた。


 睦子は救いようのない面食いで、マコト自身が愛されている理由も、半分以上が混血の容姿という要素だと、わかってはいる。


「……睦子に近づく不埒な輩を先に排除しているようにも見えるが……いや、睦子が不埒な行いをする前か?」


 だが、面白くはない。


「失礼ね。でも今はそんなことは、どうだっていいのよ」

「これっぽっちも響いてないな……」

「脱線してる場合じゃないでしょ。とにかく、私は荻野と橘を信用しているの」

「そういえば、橘さんのお腹の具合はどうだ?」

「お夕飯の頃には治っていたみたいよ」

「……それは、ますます怪しいぞ。食あたりはそんなにけろっと治らないんじゃないか? 橘自身の演技か、下剤を盛られたか、どちらかじゃないか?」

「そうなの?」

「牡蠣にあたったなら、数日苦しむことが多い……もちろん、必ずそうだとは言えないが」

「……そう」


 マコトがため息混じりに言うと、睦子は蝶のようにはためく長い睫毛を伏せて、静かに返した。

 

「でも、下剤を盛るにしても……昼食は同じテーブルで食事していたものね。あのときに盛るのは難しいと思うわ」

「俺が見逃しても、ダニエルやエリザベスが見逃さないだろう」

「そうよね、きっと……じゃあ、どうしてかしら?」

「荻野さんなら、朝に仕込めたかもしれないが……」

「三也子はそんなことは、しないわよ……」


 睦子の指が、マコトのシャツを握り締めた。

 指先が白くなるほどに、きつく握る。


「……お前が一番信用しているのは、荻野三也子か?」


 マコトが聞くと睦子は頷く。


「そうよ。三也子は私の姉同然だもの。私を裏切ったりなんかしないっ」


 小さく、でも悲鳴のように、睦子は囁く。


「じゃあ、なぜ、この場に荻野も同席させなかったんだ?」

「っ……」


 マコトの問いに、睦子は返答が出来なかった。

 それ自体が答えだ。

 感情では信じたいのに、彼女の鋭い勘が違和感を見逃せていない。


「睦子。俺に考えがあるから、朝まで待ってもらえるか?」


 そう、静かに言って、小さく震える彼女を抱きしめた。


「俺がここにいるから、朝まで休め」


 コクリと頷く睦子の額に、マコトは口づけを落とした。


 睦子はベッドに横になり、目を閉じた。

 

 マコトはそっと、毛布を掛けた。


「……でもね、マコト。まだ話すことがあるの。あのね──」

 

 だが、小さな、静かな声が、寝息の代わりにマコトの耳に届いた。



   *



「結局、朝まで呼びに来(け)ぇへんって、どういうことでっしゃろ?」


 朝、二階の部屋からマコトと睦子が出ると、綾小路が仁王立ちで立っていた。


「夜這いですもの」

「夜這いですから」


 口々に言う二人に、綾小路はサラサラの直毛の髪を掻き毟る。


「僕の誤解にさせとってくれませんか!?」


 叫ぶ綾小路を尻目に、マコトと睦子は階段へ向かう。


 目指すは四階、事務室。


 「ちょっと、失礼するわよ」


 睦子が返事を待たずにドアを開けると白髪の老人が振り返る。


 睦子の身分を隠す手前、来客や渉外を担当する侍従長の牧原は、モーニングを纏うことを憚り、三つ揃いを着込んでいる。


「陛下。朝から、いかがなされましたか?」


 銀縁眼鏡の奥の柔らかなようで鋭い目を、怪訝そうに細めた牧原に、睦子は臆さずに言った。


「牧原。至急、セルゲイ・ニコラエヴィチ・ロマリエフ殿下に連絡をとって頂戴」


 有無を言わさぬ女帝の声が響いた。


次回は2026年10月22日(木)21時頃更新予定です。

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