64.1945年(春和元年)12月 イスタンブール④
雨で道が泥濘む。
銃弾が貫通した脇腹から滲む血は洗い流せても、足跡は消せない。
三年前の夏、中華民国・重慶の裏路地でマコトは蹲りそうになりながら懸命に足を動かしていた。
──しくじった。
英国人として、重慶政府機関と取引がある商社に潜り込むまではよかった。
だが、情報を抜く経緯で国民政府軍事委員会調査統計局──軍統に目をつけられてしまった。
情報を抱えて逃亡を計り、撃たれた、というのがこのときの任務の顛末だった。
坂を上り、思わず膝をついた。
バシャン、と泥が跳ねる。
痛みで呼吸が整わない。
目の前の景色が滲む。
このままでは逃げ切れない。
そのとき、マコトへ声をかけたのが、李美蘭だった。
『あら、目が覚めたの?』
蜂蜜のように甘ったるい声が聞こえた。
大学の事務員をしているという彼女は、マコトを自分の借家に匿った。
その際、荷物をすべて開けられた。
というか、起き上がることもままならないので、怪我の手当も食事も、排泄すら、すべてが、されるがままだった。
『ふーん、旅券は英国人のものね。それにしても、持ち物が随分と物騒ね』
拳銃や弾薬、隠し武器の数々を見ても、彼女は動じなかった。
『護身用だ』
『過剰な護身用ね』
切り揃えられた前髪の下の黒目がちな垂れ目と、口元にホクロがある赤い唇が、三日月のような弧を描く。
そして、マコトが横臥している寝台に腰を掛けた。
『他で寝てくれ』
『寝台は一つしか無いのに?』
笑いながら、彼女はマコトの唇に自分の唇を押し付けた。
白魚のような手が身体をまさぐる。
『……やめてくれ』
『身体はやめてくれって、言ってはいないように見えるけどね』
『……好きにしろよ』
『まだ、動いちゃ駄目だから、全部してあげるわね』
『……勝手にしろよ』
それから、ひと月ほどして、ようやく動けるようになってから、留守中に家探しをして、意趣返しとばかりに彼女の正体を突き止めてから、逃亡した。
李美蘭は、中国共産党と繋がりのある、コミンテルンの女スパイだった。
*
「で、イシュチェンコは何て言ってたんだ?」
ハマムの休憩所で風呂上がり、紅茶を飲みながら、MI6のダニエルが、さり気なく、軽く、探りを入れてきた。
「今、ここでは言いたくない」
「だよなあー」
ダニエルは大袈裟に肩をすくめて笑う。
「……ところで予定より、早く合流出来ないか?」
マコトがほんの少し、焦りを滲ませて言うと、ダニエルは榛色の目をスッと細めた。
「女帝の身の安全、絡みか?」
瞬きだけで、マコトは頷く。
「エリザベスはいくつか持ち込んでいるだろうから、そう焦るな」
いくつか持ち込んでいるのは、マコトにはハマム内に持ち込ませなかった武器を、だろう。
だが、一応ダニエルは従業員を呼び止め、伝言を頼む。
「女性は身支度に時間がかかるから、あまり早くはならないだろうが」
ダニエルはやれやれという調子で、休憩所のソファーから立ち上がる。
「お姫様たちを早めにお待ち申し上げるとしようか」
芝居がかった口調で言った。
*
結局、女性陣たちは、約一時間後、元の待ち合わせ時間通りに何事もなく出てきた。
いや、何事もなく、ではなかった。
橘が、腹を下していた。
昼にギリシャ料理店で食べた牡蠣にあたったのでは、と言った。
顔色も冴えない。
いつもはきっちりと一糸乱れず纏められている髪に、今は後れ毛がある。
「橘だけが調子が悪いのよね。私は大丈夫なんだけど」
紺色のスカーフを緩く被った睦子が心配そうに眉を下げる。
「食べ過ぎでしょうか?」
いつも通り癖毛の赤毛をきつく編み込んだ荻野は、頬に手を当てて首をかしげた。
「お上のほうが食べていましたよ……牡蠣」
橘は、弱々しいながらも、睦子よりは食べていない、と吐き気がするのか口元を押さえながら主張した。
「ホント、よく食べるよね、あんたは。十個ぐらい食べてたじゃん」
スカーフは被らず亜麻色の髪を靡かせたエリザベスも同感だと、腕組みをして頷いた。
「やあ、見事な食べっぷりだったさ。話してる間に牡蠣が殻から消失していたな」
ダニエルも榛色の目を細めて、苦笑した。
「だって、美味しかったんですもの」
堂々と言う睦子に、あたりそうなものは避け、牡蠣を食べなかったマコトは少し呆れる。
「……あんた、腹も丈夫だったな」
「人一倍丈夫に出来てるのよね、私。儚げな美女に見えるけど」
「……儚げには見えねえ」
「こんなに、か弱い美女なのに?」
「はいはい、美女ですね」
「もう少し心を込めて言いなさいよ」
睦子と目が合わないのは相変わらずだが、言っていることはいつも通り尊大だ。
「あ、橘、大丈夫? 歩ける? 車を手配してもらったほうがいいかしら?」
マコトは、しゃがみこんだ橘を気の毒に思いながらも、牡蠣を十個ほど平らげた睦子が元気そうであることに、呆れつつも安堵のため息をついた。
実のところ、睦子は上海からイスタンブールまでの旅の途中、一度もお腹を壊していないし、風邪も引いていない。
身体頑健、とはまさに彼女を指す言葉である。
「橘さんは、その、お手水は一人で行かれたんですか?」
マコトは念のため、聞いた。
腹を下した、と偽ってコミンテルンの女スパイと接触していては、堪らないからだ。
──それに牡蠣にあたった、にしては症状が出るのが早い。
だが、橘は弱々しく首を横に振る。
「いいえ、エリザベスさんが一人になるな、と言いましたから。荻野さんが一緒に……ずっとお手洗いの入り口の近くにいたはずです」
荻野はそばかすの上の、丸眼鏡の奥のギョロリとした目を、マコトへ向ける。
「お手洗いの入口で、わたしはずっと待っていましたよ、澤城さん」
彼女は、きっぱり言い切る。
「その間に、誰かと話したりは、なさいませんでしたか?」
マコトは低い声で、柔らかく、聞く。
荻野は上目遣いで睨む。
「ハマムの他の利用者の方と挨拶を交わした程度です」
「挨拶、ですか?」
「ええ、挨拶です。何をお疑いか存じませんが」
そして、荻野は燃えるような温度の瞳をマコトへ向けた。
「わたしたちはこの御方を慈しみ、お仕え申し上げて参りました。この御方の御為にならぬことは、決していたしません。そのこと、ゆめゆめお忘れなきよう」
冷え切った声音で言った荻野三也子は、マコトをキッと見上げた。
次回更新は2026年10月15日(木)21時頃の予定です。




