63.1945年(春和元年)12月 イスタンブール③
女官の荻野と橘がトイレに行くと言って席を外したまま、しばらく戻らない、と女性用ハマムで睦子とエリザベスが言い出した頃──より少しばかり時間を遡る。
マコトは脱衣室で服を脱ぎ、腰布を巻いた。
──ここを折り込めば、小型ナイフの一つくらいは、隠せるか。
腰のあたりの布を二重に折る。
脱衣籠の上着に手を伸ばす。
だが、内ポケットからナイフを引き抜く前に、脱衣室の硝子戸を叩く音がした。
「開けるぞー」
マコトは上着から手を引く。
返事を待たずに無遠慮にドアは開いた。
白髪が幾筋か混ざったくすんだ茶色の頭がドアの隙間から覗く。
榛色の目がマコトの方を向く。
「マコト、二本目の武器はいらないぞ? お前の立派な一本目だけで十分だ」
MI6の諜報員、ダニエルは、マコトの股間を指さす。
「……見たのか」
どちらを、と言わずにマコトはしかめっ面をした。
「いや、見てないけど何となくさ。お前はたぶんそうなんじゃないかと」
ダニエルは大袈裟に肩をすくめて、わざとらしく笑う。
「先方に失礼をしてくれるな。行くぞ」
睦子を、表向きは財閥令嬢の秋月椿を、ダニエルとエリザベスが、知人の英国外交官のスペンサー夫妻として観光に誘ったのは──偽装のためだ。
MI6のダニエルが仲介した、とある人物との情報交換の場を隠蔽するために。
ダニエルいわく、米国は、睦子の動きを現地のトルコ人を使って監視させているらしい。
もちろん、常に付き従う元諜報員のマコトの動きも、だ。
だから、マコトが一人で動けば、逆に目立つ。
米国に、何かがあると悟られてしまう。
『相手はマシュー、お前と直接ではないと話さないと言っていてな。ハマムでの接触を希望している。だから、女帝も連れて観光を装え。私とエリザベスも、その日は案内役の外交官夫妻を装うから』
それが、ダニエルの提案だった。
──観光も嘘ではないにしろ。
楽しみにする睦子を利用してしまったことに少し良心が痛むが、やむを得ない。
マコトは、ハマムの蒸し風呂──温浴室で汗を流しながら、ダニエルと並んで大理石に寝そべり、対象を待つ。
「……なかなか来ないな」
「先に待ってるかと思ってだんだけどな……」
さらに、そこから十五分ほどして身体を洗う係の男が呼びに来た。
「monsieur, s’il vous plaît.(ムッシュー、どうぞ)」
低い声のフランス語に、マコトは顔を上げた。
──ん?
見上げた先にある顔は見覚えのある顔だった。
頬骨の位置が高い、スラブ系の容貌。
色素の薄い茶色の目が静かに圧を放つ中肉中背の男は──ソビエト連邦外務人民委員部在イスタンブール領事館の一等書記官、ウラジミール・ペトロヴィチ・イシュチェンコだ。
その彼が、腰布を身に着け、頭にも布を巻きハマムの洗体係に扮している。
マコトは頭に疑問符をいくつも浮かべながら、イシュチェンコに従い、大理石の寝台がある洗い場へ誘導された。
大理石の上にマコトが寝転ぶと、イシュチェンコは湯をかける。
袋状の手袋をはめた手でゴシゴシと身体を擦る。
「……あの、何やってるんですか?」
マコトが恐る恐る聞くと、イシュチェンコは無愛想に答える。
「垢を落としている」
「そうじゃなくって……客として入ればよかったのでは……」
「客では、貴様らが遅れたときにのぼせてしまう」
「……あの、ちょっと痛いです」
「我慢しろ。軟弱者が」
「ええぇ……」
「それに客より、従業員のほうが話を聞きやすい」
「……つまり、このハマムに協力者がいてしょっちゅうこういうことをしているんですか? 外交官なのに?」
イシュチェンコは答えずに、マコトにざばっと湯をかける。
黙々とマコトの身体に、ふわりとバラの香りの泡を乗せていく。
睦子がつけているバラの香油によく似た香りで、これは悪くないなと思い始めたとき、イシュチェンコがボソリと言う。
「手短に本題を言おう。女帝陛下の身柄をコミンテルンの残党どもが狙っているぞ」
緊張が緩みそうになるときに、真面目なことを言うのはやめてほしい。
──コミンテルン。
その名前はマコトにとって、少しばかり因縁がある組織の名前だった。
──重慶にいた頃に。
灰青色の目を閉じる。
正式名称は共産主義インターナショナル。
ソ連建国の父が創設し、各国の共産主義政党が連帯し、明確に革命を志向するための世界共産党として組織された。
だが、ソ連現指導者の下で粛清され、二年前に自由主義陣営との連携のため、解散させられたはずだ。
──残党か。
過去の残像の中のぼやけた記憶の中から、歪む赤い唇と口元のほくろを思い出す。
──彼女は生きているのだろうか?
「それから、貴様らのアパルトマンの警備のカバヤマという男だが、元コミンテルンの女スパイが接触している」
感傷に引っ張られそうだったマコトの意識を、低い声が現実に引き戻した。
「気をつけたまえ」
樺山久通は、元は近衛第一師団歩兵第一連隊連隊長で、階級は大佐──現在は女帝の仮御座所、カメリア・パレスの警備責任者だ。
白湯を飲みながら胃をさすり、帝国の未来を憂いていたはずなのに……と、マコトは愕然とする。
だが、しかし。
樺山は、近衛兵や側衛官、女官らと共に、樺太の国境で共産主義者亡命を装ってソ連へ入国、横断という、きな臭いルートでイスタンブール入りした。
このルートを成立させるために、手引きした者がいたに違いない。
ソ連経由組の者のうち幾人かは、本当に共産主義革命──コミンテルンの思想に取り込まれていても、不思議ではない。
「……忠告、痛み入る。ところで、その樺山に接触している女スパイの名前はご存知ですか? 何という名で?」
「メイラン・リー、という中国人だ」
マコトはその名前を聞いて、一瞬息が止まるかと思った。
──美蘭がイスタンブールに、いる……?
過去の『少しばかりの因縁』の相手がイスタンブールにいると知ったマコトは、少なからず動揺した。
「コミンテルンの残党のような裏の連中に、八洲の女帝陛下は渡せない。教えた分だけ、役に立て」
イシュチェンコは冷ややかに言って、熱い湯をマコトにかけた。
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