60.1945年(春和元年)11月 イスタンブール⑧
寝室の気配に聞き耳を立てていた荻野三也子は慌ててドアから離れた。
ドアノブが回り、男が出てきた。
──澤城眞人。
切れ長の目の瞳は、青みがかった灰色。
少し癖のある髪は、明るい栗色。
透明感のある色白の肌は、南方の日差しに晒された名残りか、わずかに赤みを帯びている。
彫りの深い顔立ちで、鼻梁が高い。
背も高く、西洋人に見える。
でも、よく見ると瞼が薄く、東洋人の面差しが混ざっている。
洋の東西が混在する美しい容姿を持つ男。
帝国陸軍の元諜報員で、今は女帝の通訳兼護衛。
荻野が仕える大八洲帝国の女帝・睦子は、彼を愛していた。
──1945年(春和元年)11月下旬、イスタンブール。
大八州帝国の亡命宮廷、カメリア・パレス。
いや、カメリア・パレスとは、正確には仮御座所となっているアパルトマンの名前であり、宮殿ではない。
ボスポラス海峡を望む在外公館が集まるアヤスパシャ地区のイノニュ通りに面し、オスマン帝国末期に建てられた、ネオ・ゴシック様式の装飾過多な地上五階建て地下一階のオフィス兼住居──その五階が女帝の私的空間で、宮中の『奥』に当たる。
寝室の次の間で、女官長代理の荻野とマコトは対峙していた。
「陛下に何をなされましたか?」
荻野は丸眼鏡を押し上げ、ギョロリとしたツリ目でマコトを見上げると、マコトが淡く微笑む。
「どうせ聞いていたんでしょう?」
マコトは耳に心地の良い低い声で、柔らかく言った。
「カウチの辺りにいらっしゃったのなら、半分ぐらいしか聞こえていませんよ。ベッドなら天蓋に隠している伝声管がありますけど」
荻野は淡々と返した。
「俺から申し上げることはありません。陛下から聞いてください」
すれ違いざまにマコトは言って、そのまま退出した。
荻野は寝室のドアに駆け寄り、ノックする。
「陛下、入りますよ」
返事を待たずに荻野は寝室に入る。
少し乱れたぬばたまの髪を押さえ、長い手足を持て余し気味にカウチにもたれかかる荻野の主君は、絶世の美女、という形容詞が相応しい女だった。
意志の強そうな凛々しい弓形の眉。
その下には、くっきりとした二重瞼と黒揚羽がはためくような長い睫毛が彩る三白眼気味の大きな目。
細い鼻筋や薄紅色の小さな唇も、それらが美しく配置された色白の瓜実顔も、凛とした印象。
でも、いつもは冷たい炎のような印象の黒曜石の瞳は、今は潤んで揺れていた。
「陛下、どうなさいましたか?」
荻野は小走りで睦子の元へ向かいながら、『ネグリジェに大きな乱れはない』と、確認する。
「三也子ぉ」
いつもは涼やかな声が情けない響きになっている。
顔も心なしか、赤い。
「澤城に何かされたんですか?」
「ちがうのっ! いえ、ちょっと、あの、と言うか! マコトって大人の男の人だったの!?」
「……陛下。澤城は、二十六歳の成人男性ですよ?」
「そうじゃなくてっ!……マコトほど顔がいい男にあんな迫られ方をしたら落ちない女はいないわよ!」
「どんな迫られ方をしたか知りませんが、陛下は迫られる前に落ちてるじゃないですか。万人が澤城に落ちるとは限りませんよ」
「どんな迫られ方をされたか聞いてよっ!?」
「お話しになりたいなら聞きますけど……」
「ダメ、恥ずかしくって言えないっ!」
「どっちなんですか? 陛下」
「一瞬、あのまま弄ばれてもいいと、思っちゃったの……ねえ、どうしたらいいの? 三也子」
「かなり混乱してますね、陛下。前後の文脈がわかりません」
睦子は赤面したまま、カウチのクッションに顔を埋める。
「……私、今まで、マコトのことを誘惑してるつもりだったの……」
くぐもった、か細い声が聞こえた。
「ええ、存じております。陛下が澤城を誘惑するためのお衣装選びやお化粧は、お手伝いしてきましたから」
「私が主導権を握っているつもりだったの」
「そうでしょうね」
荻野は、睦子がイスタンブールに着いた日の夜の胸の大きく開いたナイトガウンや、共和国記念日の前夜祭の背中が大きく開いたドレスや──睦子に相談され、見立てた衣装の数々を思い出しながら、頷く。
「……でも、マコトは、私を落とそうと思えばいつでも落とせたのよ……私、今まで、騙されていたの……? 嘘よ、あんな不器用な人が?」
「澤城は美形の元諜報員ですから、その程度の手練手管は諜報の技術として持っているでしょう。と言うか、陛下は既に落ちていますし」
「……」
黙り込んだ睦子に、荻野は追撃をした。
「面食いの陛下は澤城の顔の良さにベタ惚れでしょう……上海での様子はソ連経由組のわたしは存じ上げませんけど、容易に想像が出来ますよ」
「顔だけじゃないし、最初はちゃんと警戒していたわよ! ……でも反応が面白くって、つい……」
「気を許しちゃったんですね……陽宮様って、チョロい子なんだから……」
荻野は皇女時代の御称号の『陽宮』様、と親しげに呼んで、やれやれとため息をつく。
「チョロくなんてないわよ! 不可抗力よ!」
睦子が顔を上げ、負け犬の遠吠えをする。
「菊池が宮中で、それとなく陽宮様が好みそうな顔の男性職員を先に食い散らかしていた理由がわかりましたか? あれは御身のためですよ」
「……だから、あの子、嫌いなのよ……」
むぅ、と睦子は膨れる。
「マコトにも色目使ってるし。彼は私のものなのよ」
「……ご執心ですね」
「……恋愛と結婚って、別だと、思っていたのに……」
再びカウチのクッションに伏した睦子の髪を、荻野は掌で、そっと撫でた。
「結婚すれば帝室の外貨資産を私個人の持参金として付け替えられる……ロシア帝位請求権第二位のセルゲイ・ニコラエヴィチ・ロマリエフは申し分ない相手だとわかってるの」
艷やかなぬばたまの髪の下から。
「セルゲイはマコトの次ぐらいに顔がいいし。あなたたちのお給金のこともあるから、大八州帝国とソ連の将来とか、遠いことを考えるより、ロシア帝室と繋がり、欧州の王族社会から庇護を受ける、そのために縁談を受けたほうがいいと、私は思うの……」
淡々と静かな、声が聞こえた。
「でも、マコト以外にあんなふうに触れられるのは、嫌よ……顔が良ければ大丈夫……ずっと、そう思っていたのに……」
そして、力ない細い声で。
「丹羽宮と婚約したときは、顔が好みじゃないから無理なんだと思ったの……好きじゃなくても、みんな当たり前に夫婦になるのだから、最低限、顔さえ好みならいいと……でも、違ったの」
悲痛な叫びが、聞こえた。
「どうしたら、いいの? 三也子」
姉同然の女官に甘えるように、睦子は問いかけた。
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