61.1945年(春和元年)12月 イスタンブール①
雨上がりの初冬、朝のイスタンブールは少しばかり冷え込んだ。
顔を洗う水も冷たくなり、マコトは仕立てたばかりの冬物の背広の三つ揃いを着込んだ。
イスタンブールは場所柄、アフリカやアジア、中近東から欧州へ、気候が違う場所への中継地点となる。
そのせいか、旅行者向けの仕立てが異様に速い。
注文から数日、遅くとも一週間で仕上がる。
マコトは、肩を回してみる。
可動域に問題はない。
動きやすい。
採寸も仮縫いも大雑把に見えるのに、イスタンブールのアルメニア人職人たちの腕は良かった。
上着の内ポケットに隠し武器をいくつか仕込み、腰のベルトに小型の拳銃を下げる。
それから、これも、と睦子から預かったままのガーネットの指輪も胸ポケットにしまう。
イランの首都テヘランで彼女に贈った、国境を越えるための偽装身分のための、結婚指輪だったもの。
大八洲帝国と英国の二重国籍のマコトが、英国籍の方の──マシュー・ケイレブ・エヴァンスとして、その妻のハル・エヴァンスに贈った、ということになっている指輪だ。
──1945年(春和元年)12月上旬、イスタンブール。
同室の綾小路は、既に部屋にはいない。
マコトは二階の部屋を出て、階段で一階に下り、朝食を取るために食堂へ向かう。
だが、まずは食堂を通り過ぎ、通路を奥へ向かう。
奥の厨房前には、茶トラ猫のチャトランゼに餌を与えている睦子がいた。
日課と化しているので、毎日この時間に彼女はここにいる。
マコトに気づいた睦子は、
「おはよう」
涼やかな声で言う。
だが、首元にベロアのリボンが揺れるツイードワンピース姿の彼女は、しゃがんだままで目が合わない。
「おはようございます……いつになったら目を合わせてくれるんですか? 陛下」
「見たいけど、見たら負ける気がするのよ」
「何に、ですか?」
「マコト、あなた、自分の顔の良さを自覚している?」
「造作が他人より整っていることは自覚してますけど」
「私、面食いなのよ。美形に弱いの」
「知ってますが」
「だから見たら、負けなの。冬物の背広、似合ってるわね、とか言ったら負けなの」
「言ってるじゃねえかよ……」
先月末の夜、押し倒して、深いキスをして、首筋に触れて。
セルゲイか、自分か『ちゃんと選べ』と言ってから、こうである。
自分の顔の良さも、声の使い方も、効果も、全部わかった上で揺さぶりをかけ、睦子にとって、最も残酷な誘惑だけを置いて、引いたつもりだ。
──『女帝陛下の身位を指示があるまで動かすな』
綾小路から漏らされた本国からの指示に従い、セルゲイとの縁談を破談にするために。
──でも、こいつは、自分から誘惑するときは恥じらいが行方不明のくせに。
逆をされると、普通に弱いらしい。
予想以上に効果があった。
そして、睦子は目下、マコトに徹底抗戦中なのだ。
作戦通りではあるが、この反応は少しだけ、解せない。
睦子はチャトランゼを見下ろしたまま、口を開いた。
「見たら『縁談も帝位も全部捨てて、ともに駆け落ちしましょ?』って言いたくなるの」
「……それは聞かなかったことにする」
「ほら、そうやって逃げようとするんだもの。本気にさせておいて酷いわ」
「……そもそも、本気で駆け落ちする気なんて、ねえだろ?」
「そんなこともないわよ」
「じゃあ、なお悪い」
マコトは、やりすぎたか、とため息をつく。
睦子はチャトランゼを抱き上げて、モフモフの茶トラの背中に顔を埋めた。
落ち着こうとしているのか、すーはーと、猫を吸う。
チャトランゼが身を捩り、食事を邪魔する睦子を引っ掻こうと伸ばした前足を、マコトは素早く掴んで止める。
ニギャアー、と鳴くチャトランゼを押さえながら、言った。
「お前、顔は人前に出るときは大事な仕事道具になるんだから、猫に引っ掻かれそうになるな」
「大八州帝国女帝というお仕事ねえ……早く辞めたい」
睦子は、気怠げに呟く。
「……あまり、物騒なことばかり言うな。弟の東宮殿下に穏便に継承したいんだろう?」
「光宮……あの子、帝都に帰ってきたらしいから、そろそろいいんじゃないのかしらね……」
「いや、よくねえだろ。継承の証の剣と勾玉は、今はイスタンブールにあるんだろうが」
「……」
むぅ、と黙る睦子に、マコトは大きくため息をつく。
「……今日は出掛ける予定があるんだから、早く朝飯を食いに戻れよ」
「別に階下で食べてもいいと思うけど、私がいるとみんなが寛げないのよね……」
「わかっているなら、戻れ」
「チャトランゼのご飯が終わって、お皿を片付けたらね」
睦子も小さくため息をついた。
「そう言えば、なんでお前が餌をやってるんだ?」
マコトが首を傾げると睦子が顔を上げて、もっともらしく言った。
「猫って手ずからご飯をあげないと懐かないのよ」
*
アヤソフィア。
ブルーモスク。
トプカプ宮殿。
イスタンブールの旧市街、スルタンアフメト地区の観光名所として有名な歴史的建造物だ。
ちなみに仮御座所として借り上げているアパルトマンのカメリア・パレスは、旧市街とは金角湾を挟んで北側の新市街──在外公館が集まるアヤスパシャ地区にある。
そのため、マコトと睦子が金角湾に架かるガラタ橋を渡りきり、旧市街に足を踏み入れたのはこの日が初めてだった。
「あんた、今日はマコトにベタベタくっつかないんだ」
湖のような青い目を三日月のように細めたエリザベスが、睦子に揶揄するように笑った。
今日は英国秘密情報部のダニエル・スペンサーとエリザベスは『英国外交官のスペンサー夫妻が、知人の秋月財閥の令嬢をイスタンブール観光へ案内する』、という体で、同行していた。
睦子はモゴモゴしてから、返答する。
「……だって、ほら、観光客に公開されているとはいえ、モスクにお邪魔するのよ。こちらの国の宗教施設なのだから、精進潔斎してお伺いすべきだわ」
「ショージンケッサイか何だか知らないけど、スカーフ被ってよ。モスクは外国の女だって髪を隠してないと、いい顔されないんだから」
「……スカーフって、必要だったの? やだ、今日は着けてないわ」
珍しく慌てる睦子に、エリザベスは胡乱げにため息をついた。
その横で、女官長代理の荻野がハンドバッグから紺地に銀糸の刺繍のスカーフを取り出した。
「椿様、『お気に入りの』スカーフを持参しておりますよ」
睦子の表向きの秋月財閥の令嬢としての名前──『椿様』と呼び、荻野はスカーフを広げる。
「わたしが巻きましょう。少し屈んでください」
荻野より頭半分ほど背が高い睦子は、膝を曲げて、カーテシーのように身を屈める。
相変わらず体幹が全くブレない。
「ありがとう」
睦子はまるで冠を戴くように、スカーフが巻かれた頭を上げる。
荻野が『お気に入りの』と言ったスカーフは、マコトがテヘランで睦子へ贈った物だ。
それから、今日も彼女から漂うダマスクローズの匂いの香油も、そのときに贈った。
睦子からの好意は示されている。
なのに彼女はもどかしい態度しか取らない。
セルゲイとの縁談もまだ、断ってはいない。
──煮え切らないのは、お互い様か。
連れて逃げる、そんな覚悟は、まだ、マコトも決めきれない。
胸ポケットの指輪を返すことも出来ないのだから。
「テヘランで撃たれたときのあたしの血の染み、取れたの? そのスカーフ……」
「……私が染み抜きをいたしました」
微かに眉間に皺を寄せるエリザベスに、睦子の後方に壁のように控えていた女官の橘桂子が、低い声でボソリと呟いた。
今日も一本の後れ毛もなく髪をまとめた橘の佇まいは、武人のそれに似ている。
なんでも、女官の中で唯一武道の心得があるらしい。
今日はモスクや宮殿を回って昼食後に、トルコの公衆浴場、ハマムへ行く予定だ。
当然男女別なので、マコトは護衛から外れることになる。
女性だけでもエリザベスがいるなら戦闘力としては申し分ないが、侍従長の牧原寛太郎から『MI6だけには任せられない』と物言いがついたので、橘が随員に加えられた。
「橘って、本当に何でも出来るわよね」
「恐れ入ります」
橘は少々サボり癖や妄想癖があるものの、多芸多才だ。
語学から家政、武芸まで。
男だったら陸軍特務機関に勧誘されていただろう、と思うほどに。
いや、本当に素人なのだろうか、とマコトは少し疑っていた。
いかり肩で大柄な割に、動きが静かで、無駄がない。
「私の顔に何かついていますか?」
橘は切れ長の目をマコトへ向けた。
「いえ、何も」
油断ならないな、と思いながら、マコトは首を横に振った。
次回更新は変則になりまして、2026年9月15日(火)21時頃を予定しております。
来週はお休みをいただきます。




