58.1945年(春和元年)11月 イスタンブール⑦
「ボクと結婚するなら、マコトを連れてきていいんだよ、チカコ」
睦子は戸惑うような色の黒曜石の目で、セルゲイを見上げた。
雨上がりのイノニュ散歩道。
水滴を纏う木々の隙間からは、青と灰色の寒々しい空が覗く。
ボスポラス海峡から冷たい風が吹き付ける。
黄や赤に紅葉している落葉樹が風に揺れ、水滴が落ちる。
一筋の光が差すセルゲイのプラチナブロンドも、風に揺れる。
マコトも灰青色の目で、睨むようにセルゲイの翠の目を見た。
「……それはまさか、私とマコトを両方とも、囲いたい、ということ?」
睦子は真顔で口を開いた。
「え?」
セルゲイは首を傾げた。
「は?」
マコトは怪訝そうに目を眇めた。
「私もマコトも美人で魅力的よね。選べないわよね?」
睦子は至極真面目に言って、蝶のようにはためく長い睫毛を伏せて、ため息をついた。
「……いや、違うよ?」
セルゲイは困惑したまま、さらに首を傾けた。
睦子は口に手を当てて、目を見開く。
「じゃあ、マコトなの? 私はおまけなの?」
「違う違う、それ、もっと違う! そうじゃない!」
「じゃあ?」
「君はマコトが好き! マコトも君が好き! ボクは君と縁談が持ち上がったお邪魔な人! それくらいわかるよ! そこまで鈍感じゃ無いから
!」
斜め上の発言の睦子に、セルゲイも斜め上の叫びで返す。
「……ボクは男性も愛せるけど、君からマコトを奪うつもりはないからね、安心して、チカコ……マコトも安心してね」
「……あ、はい……」
マコトが小さく返事をすると、セルゲイが大きく息を吐く。
「とはいえ、何かの縁だから、協力したいとは思ってるんだけど……チカコたちの亡命の安全のために……ボクだっていろんな人に助けられて生きてきたんだから」
下心を感じないセルゲイの笑顔に、睦子は恐る恐る聞いた。
「それは、白い結婚でもいい、というお話かしら……?」
祈るように、胸の前で手を組む。
「あー……、それは困るんだよね……ボクもロマリエフ家の跡取りが必要だから」
だが、その祈りはあっさりと手折られた。
「ロシアの帝位って男系男子で、なおかつ母親も皇族か王族の出身じゃないと継げないんだ。実はなかなか条件が合う人がいなくてね……」
セルゲイは少しだけ困ったように笑う。
「男子は産んでもらわないといけないんだ。それ以外の何かを強要するつもりはないんだけどね」
「つまり、最低限夫婦生活は必要と?」
「そういうことデス、チカコ」
「……少し考えさせてくれるかしら?」
睦子は目を伏せた。
「それからもう一つ、銀行口座が凍結されたって、聞いたよ。君の方にあまり猶予はないと思うよ」
「……誰から聞いたの?」
「君の侍従長のマキハラだよ。僕の消息筋の情報だけど、米国はたぶん、もう君をいつでも捕縛できる。英国の手前、泳がせているだけだよ」
セルゲイは微かに俯き、建物の間から見えるボスポラス海峡に目をやる。
「敗戦国のドイツで軍事裁判が始まったから、きっと、米国は君の帝国にも同じことを仕掛けてくるよ? 君自身だって、戦争の責任を問われているんだろう? このままじゃ、危険だよ」
霧雨のような声が風に乗る。
風が吹いていく方向の雲の切れ間から西日が差す。
その光は梯子のように海面を照らしていた。
「チカコ、通訳……いや、マコトは護衛だよね。どちらにせよ新しく雇うよりは、マコトをそのまま連れてくるほうが安全だ。何なら他の従者たちも──」
*
その夜、女官長代理の荻野がマコトを呼びに来た。
「澤城さん、陛下がお召しです」と。
マコトが部屋のドアを開けたとき、綾小路も在室中だったので、荻野は参ったな、という顔をした。
睦子には内密に呼んでくるように言われたのだろう。
「かまへんよ。陛下がお召しなんやったら僕は何も言わへん」
綾小路はそう言って背中を向けて、手をヒラヒラと振った。
マコトは荻野に先導されて、カメリア・パレスの五階の睦子の寝室へ通された。
ここに入るのは二度目だった。
荻野が下がり、マコトと睦子だけが寝室に取り残された。
窓の外では、また雨が降り出していた。
ボスポラスの夜景がぼんやりと滲む。
カウチにゆったりと座るネグリジェ姿の睦子は、長い睫毛をゆっくり持ち上げた。
「マコト、あなた耐えられる?」
「何にだ?」
「私が結婚しても、私の側にいることに」
マコトは強張った顔を上げる。
睦子は元より結婚相手など選べない立場で育ってきた。
きっと、彼女の中では結婚は『耐えること』が前提なのだ。
だから、自分のことは言わない。
洋の東西問わず、上流階級では結婚と恋愛は別だ。
長州士族のマコトの父ですら、そうだったのだ。
皇族なんて言わずもがな、だ。
──生涯独身を強いられる『女帝』の立場の方が、まだ、良かったのではないか。
マコトは奥歯を噛み締める。
「……俺が耐えると言うなら、あんたは耐えるのか?」
「生き延びられるのならね」
睦子は皮肉げに笑う。
「セルゲイは顔がいいもの。大丈夫よ」
「顔がいいなら、かよ……」
「近くで見るなら綺麗なほうがいいじゃない」
睦子があまりにも軽薄に笑うので、マコトは眉を顰める。
「お前、夫婦になるって、どういうことをするのか、ちゃんとわかってるのか?」
「わかってるわよ」
「……いいや、わかってない」
マコトは睦子をカウチに乱暴に押し倒す。
──『女帝陛下の身位を指示があるまで動かすな』、その本国からの命令を『盾にする』なら、許されるだろうか?
「何を──」
何をするの、と言おうとした睦子の唇を塞ぐ。
同時に手首を頭上で押さえつけた。
窒息しそうなほどの長く長い、深いキスをして、マコトはようやく唇を離した。
息を荒げたまま、睦子に問う。
「……っ、セルゲイとも、こういうことをするつもりか?」
「っ……」
息を切らせ、涙目で見上げる睦子は答えない。
マコトは首筋にも唇を滑らせる。
耳元に吐息を吹きかける。
震えて、身を捩る彼女に、甘く、人を騙す諜報員の声でその耳朶に囁く。
「俺は耐えられない、睦子」
睦子の息を呑む気配に顔を上げたマコトは、彼女の黒曜石の瞳に、薄く笑いかけ、指で顎をなぞり、畳み掛けた。
「ちゃんと選べ」
自分以外、選ぶな、と言外に匂わせて。
睦子から手を離した。
続きます。




