表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60/61

58.1945年(春和元年)11月 イスタンブール⑦

「ボクと結婚するなら、マコトを連れてきていいんだよ、チカコ」


 睦子(ちかこ)は戸惑うような色の黒曜石の目で、セルゲイを見上げた。


 雨上がりのイノニュ散歩道。


 水滴を纏う木々の隙間からは、青と灰色の寒々しい空が覗く。

 

 ボスポラス海峡から冷たい風が吹き付ける。


 黄や赤に紅葉している落葉樹が風に揺れ、水滴が落ちる。


 一筋の光が差すセルゲイのプラチナブロンドも、風に揺れる。


 マコトも灰青色の目で、睨むようにセルゲイの翠の目を見た。


「……それはまさか、私とマコトを両方とも、囲いたい、ということ?」


 睦子は真顔で口を開いた。


「え?」


 セルゲイは首を傾げた。


「は?」


 マコトは怪訝そうに目を眇めた。


「私もマコトも美人で魅力的よね。選べないわよね?」


 睦子は至極真面目に言って、蝶のようにはためく長い睫毛を伏せて、ため息をついた。


「……いや、違うよ?」


 セルゲイは困惑したまま、さらに首を傾けた。

 睦子は口に手を当てて、目を見開く。


「じゃあ、マコトなの? 私はおまけなの?」

「違う違う、それ、もっと違う! そうじゃない!」

「じゃあ?」

「君はマコトが好き! マコトも君が好き! ボクは君と縁談が持ち上がったお邪魔な人! それくらいわかるよ! そこまで鈍感じゃ無いから

!」


 斜め上の発言の睦子に、セルゲイも斜め上の叫びで返す。


「……ボクは男性も愛せるけど、君からマコトを奪うつもりはないからね、安心して、チカコ……マコトも安心してね」

「……あ、はい……」


 マコトが小さく返事をすると、セルゲイが大きく息を吐く。


「とはいえ、何かの縁だから、協力したいとは思ってるんだけど……チカコたちの亡命の安全のために……ボクだっていろんな人に助けられて生きてきたんだから」


 下心を感じないセルゲイの笑顔に、睦子は恐る恐る聞いた。


「それは、白い結婚でもいい、というお話かしら……?」


 祈るように、胸の前で手を組む。


「あー……、それは困るんだよね……ボクもロマリエフ家の跡取りが必要だから」


 だが、その祈りはあっさりと手折られた。


「ロシアの帝位って男系男子で、なおかつ母親も皇族か王族の出身じゃないと継げないんだ。実はなかなか条件が合う人がいなくてね……」


 セルゲイは少しだけ困ったように笑う。


「男子は産んでもらわないといけないんだ。それ以外の何かを強要するつもりはないんだけどね」

「つまり、最低限夫婦生活は必要と?」

「そういうことデス、チカコ」

「……少し考えさせてくれるかしら?」


 睦子は目を伏せた。


「それからもう一つ、銀行口座が凍結されたって、聞いたよ。君の方にあまり猶予はないと思うよ」

「……誰から聞いたの?」

「君の侍従長のマキハラだよ。僕の消息筋の情報だけど、米国はたぶん、もう君をいつでも捕縛できる。英国の手前、泳がせているだけだよ」


 セルゲイは微かに俯き、建物の間から見えるボスポラス海峡に目をやる。


「敗戦国のドイツで軍事裁判が始まったから、きっと、米国は君の帝国にも同じことを仕掛けてくるよ? 君自身だって、戦争の責任を問われているんだろう? このままじゃ、危険だよ」


 霧雨のような声が風に乗る。


 風が吹いていく方向の雲の切れ間から西日が差す。


 その光は梯子のように海面を照らしていた。


「チカコ、通訳……いや、マコトは護衛だよね。どちらにせよ新しく雇うよりは、マコトをそのまま連れてくるほうが安全だ。何なら他の従者たちも──」



  *



 その夜、女官長代理の荻野がマコトを呼びに来た。


「澤城さん、陛下がお召しです」と。


 マコトが部屋のドアを開けたとき、綾小路も在室中だったので、荻野は参ったな、という顔をした。

 睦子には内密に呼んでくるように言われたのだろう。


「かまへんよ。陛下がお召しなんやったら僕は何も言わへん」


 綾小路はそう言って背中を向けて、手をヒラヒラと振った。



 マコトは荻野に先導されて、カメリア・パレスの五階の睦子の寝室へ通された。


 ここに入るのは二度目だった。


 荻野が下がり、マコトと睦子だけが寝室に取り残された。


 窓の外では、また雨が降り出していた。


 ボスポラスの夜景がぼんやりと滲む。


 カウチにゆったりと座るネグリジェ姿の睦子は、長い睫毛をゆっくり持ち上げた。


「マコト、あなた耐えられる?」

「何にだ?」

「私が結婚しても、私の側にいることに」


 マコトは強張った顔を上げる。


 睦子は元より結婚相手など選べない立場で育ってきた。


 きっと、彼女の中では結婚は『耐えること』が前提なのだ。


 だから、自分のことは言わない。


 洋の東西問わず、上流階級では結婚と恋愛は別だ。


 長州士族のマコトの父ですら、そうだったのだ。


 皇族なんて言わずもがな、だ。


 ──生涯独身を強いられる『女帝』の立場の方が、まだ、良かったのではないか。


 マコトは奥歯を噛み締める。


「……俺が耐えると言うなら、あんたは耐えるのか?」

「生き延びられるのならね」


 睦子は皮肉げに笑う。


「セルゲイは顔がいいもの。大丈夫よ」

「顔がいいなら、かよ……」

「近くで見るなら綺麗なほうがいいじゃない」


 睦子があまりにも軽薄に笑うので、マコトは眉を顰める。


「お前、夫婦になるって、どういうことをするのか、ちゃんとわかってるのか?」

「わかってるわよ」

「……いいや、わかってない」


 マコトは睦子をカウチに乱暴に押し倒す。


 ──『女帝陛下の身位を指示があるまで動かすな』、その本国からの命令を『盾にする』なら、許されるだろうか?


「何を──」


 何をするの、と言おうとした睦子の唇を塞ぐ。

 同時に手首を頭上で押さえつけた。


 窒息しそうなほどの長く長い、深いキスをして、マコトはようやく唇を離した。


 息を荒げたまま、睦子に問う。


「……っ、セルゲイとも、こういうことをするつもりか?」

「っ……」


 息を切らせ、涙目で見上げる睦子は答えない。


 マコトは首筋にも唇を滑らせる。


 耳元に吐息を吹きかける。


 震えて、身を捩る彼女に、甘く、人を騙す諜報員の声でその耳朶に囁く。


「俺は耐えられない、睦子」


 睦子の息を呑む気配に顔を上げたマコトは、彼女の黒曜石の瞳に、薄く笑いかけ、指で顎をなぞり、畳み掛けた。


「ちゃんと選べ」


 自分以外、選ぶな、と言外に匂わせて。


 睦子から手を離した。


続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ