57.1945年(春和元年)11月 イスタンブール⑥
『もし、お上を、英国人の妻……澤城くんの英国人の立場としてのマシュー・エヴァンスの華僑の妻、ハル・エヴァンスとして逃すときは、あんたは引き受けてくれるか……?』
綾小路の小さな声が、紫煙に溶けるように響いた。
声に仄かに含まれる、おそらく、これは罪悪感。
『俺に、出来ることなら』
マコトは煙草の灰を落として、ため息混じりに言った。
『陛下のためなら、引き受けますよ』
睦子を守るためならば、という意味を滲ませて。
それから、時は少し流れて、東洋と西洋の狭間の都市は晩秋の気配が濃くなった。
冷たい雨が降る季節になった。
──1945年(春和元年)11月下旬、イスタンブール。
ドイツのニュルンベルクで国際軍事裁判が始まって数日の、ある日。
「馬糞みたいだよね?」
セルゲイ・ニコラエヴィチ・ロマリエフの陽気な笑い声が響く。
サラリと流れるプラチナブロンドも、薄い翠の瞳も、秋らしい茶系のスーツも、柔らかな橙色のアーガイルチェックのネクタイも、何もかもが、陽気。
ロシア帝位請求者なのに雪に閉ざされた北国ではなく。
晩秋のイスタンブールの曇天でもなく。
南国の太陽のような陽気さと軽やかな空気を纏っている。
セルゲイは両親が亡命後、南仏コート・ダジュールで生まれているのだから、当然と言えば当然だ。
そして、彼が『馬糞』と表現したものは、フランス菓子のプロフィットロールだ。
プロフィットロールとは、小さなシュークリームを積んでチョコレートソースを少しかけたものだと、マコトは認識していた。
十年ほど前に、父に連れられて行った帝都のフランス料理店でデザートとして供されたものは、そういった形状だったからだ。
だが、これは通常の大きさのシュークリーム数個の上からなみなみと大量のチョコレートソースがかけられていた。
どちらが正解なのか、これが二度目なので判別しかねるが、目の前のものは明らかにチョコレートソースが過剰だ。
茶色のソースに皿一面が覆われている。
馬糞に見えなくもない。
──さすが甘党の国、トルコ。
甘い物が苦手なマコトはげんなりとする。
ここはベイオール地区の路面電車が走るイスティクラル通りからほど近いフランス菓子店だ。
カメリア・パレスからは徒歩圏内。
紅茶やコーヒーとともにフランス菓子が楽しめる、富裕層に人気の店らしい。
「でも、これはきっと『運がつく』素敵な馬の落とし物ね」
甘党の睦子は目を輝かせて、スプーンで口に運ぶ。
口に入れて、顔を綻ばせる。
セルゲイが頬にえくぼを作り、笑う。
「お気に召していただけたかな? チカコ……あっ、いけない、今は『椿』だね」
「ええ、今はそう呼んでくださると助かるわ、『アレクサンドル』」
──どうして、俺が上海で使っていた偽名とセルゲイの偽名が同じなのか。
マコトは少しだけ神のいたずらを恨む。
ロシア人、ないしソ連人にはありふれた名前だから、仕方がない。
「……ところで、なぜ、俺の分まで注文したんですか? セルゲイ殿下」
マコトが目の前の馬糞もどき──いや、プロフィットロールに慄きながら聞くと、セルゲイは答えた。
「ここのは少し甘さ控えめだからマコトも食べられるかなと思って」
はにかむような笑顔からは一切の邪気を感じない。
小春日和のような善意。
──そうさ、100%善意。
綾小路のような貴族的な嫌味っぽさが少しでもセルゲイにあれば、やりやすいのに──彼にはそういったものがない。
睦子のような、高貴ゆえの駆け引きを楽しむ戯れもしない。
今までよく欧州の社交界で生き延びてこられたな、と思うほどにセルゲイは陽気で屈託がなく、裏表がない性格だと、ここ数週間で何度か会って、マコトは学習していた。
睦子とマコト、セルゲイの三人で買い物に出かけたときは、マコトの両手が塞がらないように、さりげなく、荷物を受け取った。
『ボクもレディをエスコートする紳士なのに、手ぶらでは格好がつかないよ』
と、悪戯っぽく、ウィンクをして。
おそらく他意はない──セルゲイ・ロマリエフは、ノブレス・オブ・ただのいい人の可能性が高い、と現状マコトは認識している。
ただし、甘さ控えめの気配はなみなみのチョコレートソースからは全く感じられない。
これが甘さ控えめに見える感性はちょっと、いやかなり何かがズレている。
「甘さ控えめよ。ちょっぴり苦みが強いわよ?」
睦子もそう言うが、この人の紅茶には角砂糖が二つ入っているので、アテにならない。
「食べないならもらうわよ?」
自分の分を早々に平らげた睦子が、マコトの皿を爛々とした目で見つめている。
「チカコは本当に甘い物が好きだねえ」
セルゲイは陽気に笑う。
「森侍医に『陛下を糖尿病にする気ですか?』と叱られますからあげません」
マコトは眉間に皺を寄せ、ため息をついた。
外で睦子が食べたものは、栄養管理を担当する侍医の森にすべて報告する義務を課せられていた。
なので、マコトは睦子には渡さず、嫌々ながらチョコレートソースまみれのプロフィットロールを口に運ぶ。
──甘っ……。
そして、やはりマコトの味覚では、死にそうなぐらい甘かった。
静かに悶絶した。
「ゴメンね、マコト。大丈夫じゃなかったかあ……コーヒー飲んで? 無糖だよ」
セルゲイは眉をハの字に下げて、心底申し訳なさそうに謝った。
*
店を出て、イスティクラル通りを北向きに、タクシム広場方面へ向かう。
路面電車が追い抜いていくが、警備面の都合もあり、腹ごなしを兼ねて歩くことにした。
「それにしても、側衛官はともかく、MI6にソ連もかな、相変わらず隠れてぞろぞろ付いてくるよね」
雨上がりの石畳を歩きながら、セルゲイは少し困ったように笑う。
「なかなか秘密の話なんて出来ないね」
「そうね」
睦子は長い睫毛を伏せて、肩をすくめる。
「その話は、俺が聞いても大丈夫なものなのですか?」
周囲に気を配りながら、マコトはセルゲイに聞いた。
「君は無関係じゃないから」
セルゲイは柔らかく、微笑む。
タクシム広場も通り過ぎて、イノニュ散歩道に入る。
最近、兵舎跡を整備して出来たばかりの公園は、まだ背が低い木が、ささやかな木陰を作っていた。
水滴を纏う木々の隙間からは、青と灰色の寒々しい空が覗く。
黄や赤に紅葉している落葉樹が風に揺れ、水滴が落ちる。
側衛官もMI6もソ連関係者も、遠巻きにこちらをちらりと見ていた。
近くに隠れようにも、新しい植栽に枝の繁りが足りない。
やむを得ず、距離を取ったのだろう。
──いや、ここへ連れてきたセルゲイに距離を取らされた、と言うべきか。
ボスポラス海峡から冷たい風が吹き付ける。
睦子は寒そうにコートの前を合わせた。
セルゲイが立ち止まって振り返る。
風に揺れるプラチナブロンドに一筋の光が差した。
「ここなら、一応、聞こえないよね?」
セルゲイの言葉に睦子は、ぬばたまの髪を揺らし、小さく頷く。
斜め後ろからマコトが垣間見たその表情と黒曜石の瞳は、どこか硬い。
「チカコ、君の帝室資産を逃すなら、早いほうがいいよ」
「……セルゲイはお金目当てで、私と結婚したいの?」
「もちろん、おこぼれは期待してるけど、亡命ってお金があったほうがいいんだよ。これは経験者だから」
困ったように笑う。
「だからね、ボクと結婚するなら、マコトを連れてきていいんだよ、チカコ」
睦子は戸惑うような色の黒曜石の目で、セルゲイを見上げた。
次回の58話、59話の更新は変則で2026年8月15日(土)正午頃を予定しております。




