56.1945年(春和元年)11月 イスタンブール⑤
「さあ、どうなの? 牧原」
イスタンブールに亡命中の大八洲帝国女帝・睦子は立ち上がり腰に手を当てる。
まるで名探偵よろしく、のポーズだ。
女帝の通訳兼護衛で元陸軍特務機関諜報員のマコトは頭を抱え、外交顧問の綾小路は額に手を当て、侍従の秋月は「えー」と驚いた顔をした。
「……陛下」
侍従長の牧原が、静かな声で彼女を呼ぶ。
睦子の長い睫毛が、ふわりと蝶のように、はためく。
「何?」
「お戯れもほどほどになさってください」
牧原の声に怒気はない。
銀縁眼鏡の奥の瞳も静かなままだ。
「……大使館事務所で事務長の三崎くんと奥方が殺害されたと推定される時刻、私にはアリバイがあります」
「アリバイ?」
長い睫毛を伏せ、目を眇める睦子に、牧原は淡々とした声で明かす。
「あの日はね、秋月くんが帳簿の転記を間違えたせいでお手元金が合わなかったんです。だから検算していたのですよ。もちろん秋月くんも一緒にね」
「あ、ああー……そう言えばそうだったかなぁ……ですね……」
秋月が左右の幅が違う二重瞼を何度か瞬く。
「前日の晩、澤城が預かっていた陛下の旅費を精算しに来ました。なので次の日の事件当日の午前、秋月くんに、出納帳への転記を頼んだんです」
秋月の視線が明後日の方向の中空を泳ぐ。
「澤城は実に正確な明細書を添付してくれていました。領収書との齟齬もない。為替も合っていました。ただ、夕方に締めた現金と、帳簿の金額が合わない」
牧原は秋月を横目で見て、畳み掛ける。
「ただ書き写すだけですよ、秋月くん。その上どうして合計まで間違ってるのですか?」
「侍従長、その話まだするんですか……」
「秋月くん、確か大学は商業学科でしたよね? 簿記、習ってますよね?」
「……オレは計算は苦手なんですってば。それに量が多くて、集中力が続かなくって……」
「帳簿の字は最後まで乱れなく綺麗に書けているのに、集中力切れ、ですか?」
「字だけは褒められるんですよね……」
心底、不思議そうな難関海軍兵学校卒、元海軍大将で文武両道の侍従長、牧原。
心底、気まずそうな啓櫻義塾大学経済学部商業学科卒、財閥男爵家三男坊の、世間的には高学歴で上流階級といわれているはずの侍従、秋月。
陸軍士官学校卒、特務機関の元諜報員で多言語を操るマコトは、牧原の苦労を察した。
綾小路も東京帝国大学在学中に高等試験外交科一発合格の官僚なので、細い目からは牧原へ同情的な視線が送られていた。
「秋月、大丈夫よ。私も勉強はあまり得意では無いから」
唯一、睦子だけは秋月に同情的な眼差しを向けた。
「陛下っ……!」
「いえ、お上は女子習学院での成績は上位であらっしゃったと、僕はお伺いしとります」
だが、秋月の希望にあふれた眼差しを、綾小路が冷ややかに、即座に打ち消した。
──『お上をあんたと一緒にしいなや』と言わんばかりに。
綾小路は睦子の元婚約者の丹羽宮泰彦首相の学友で親友なので、彼から聞いたのだろう。
それから秋月は、啓櫻義塾は幼稚舎からの内部進学組なので、ギリギリ落ちこぼれず何とかしてきたのか、財閥の財力がどこかで関わってきたと推測される。
確証はないが、マコトから見て疑いが残る程度に、秋月は往々にしてポンコツであった。
「……話は逸れましたが、元々は、陛下と澤城があの夜『なぜか』大使館事務所にいたせいなんですよ。わざわざ三崎夫妻は心中だと、私が言った理由は」
牧原が銀縁眼鏡を押し上げながら言った。
「うっ、それは確かに、そうね、偶然ね……」
「陛下と澤城のほうが怪しく見えましたよ、あの夜のあの場では」
歯切れが悪そうな睦子に牧原は鋭い眼光を向けた。
「私は陛下と澤城をトルコ憲兵から庇っただけです。それに澤城、私の部屋からは何も証拠が出ませんでしたよね?」
底冷えしそうな眼光がマコトへ向いた。
「……はい、何も」
不在の隙に侍従長の私室を家探ししていたことが、バレていたのか、とマコトは諦めて白状するように、ため息混じりに答えた。
バレないように周到に痕跡は隠蔽したつもりだが、元海軍大将の目は誤魔化せなかったのか、カマをかけられたのか。
カマをかけられていたとしても、ここで否定するのは得策ではない。
「大使館事務所から入電した時刻についても私が対応した内容についても、業務日誌に記しております。裏を取ると良いでしょう。厨房から隠し通路を使って大使館事務所になど行っていないことが証明されるはずです。これでも、まだ陛下はお疑いになりますか?」
「……いいえ、もういいわ」
睦子は首を横に振り、椅子に座る。
彼女の『即興劇』は所謂初見殺しの技であり、既に彼女の本質を知る人間には、あまり通じない。
だから、この『名探偵による推理劇』は明らかな作戦ミスであった。
アリバイがあるなら、これ以上の追求は、こちらの分が悪くなるだけだ。
「とにかく、陛下も、澤城も、綾小路殿も、米国が資産凍結に乗り出した、という事実をよくお考えいただき、行動をお願いしたいです。陛下にはロシアの帝位請求権を持つセルゲイ殿下とご婚約いただき、欧州の王室と手を取り、御身と資産を安全な場所へ……私が申し上げたき儀は以上です」
牧原はそう言って、場を締めた。
こうして、睦子の推理劇は幕を下ろしたのだった。
舞台の幕を下ろし、四階の事務室から出る。
扉を閉めたマコトの背中に、睦子はそっと手を添えて、小さく呟いた。
「私、嬉しかったのよ。ペラ・パレスホテルでセルゲイの手から、私を連れて逃げてくれたことが」
一瞬、誘惑するような、甘い花の香りがする。
テヘランでマコトが彼女に贈ったダマスクローズの香油。
その香油の匂いを仄かに背中に残して。
側衛官の土屋と女官長代理の荻野に先導されて、睦子はカメリア・パレスの宮廷の『奥』、五階へのぼる自動昇降機へ消えていった。
*
窓辺に紫煙が漂う。
二階の部屋の窓際で、綾小路が紙巻き煙草を吸って、煙を吐き出す。
マコトもベッドに座り、マッチで煙草に火をつけ、吸って吐き出す。
マッチを振って消し、サイドテーブルの灰皿に投げた音が妙に響いた。
それくらい、静かな夜だった。
綾小路とマコトは相部屋だが、お互いあまり話さない。
というか、お互い、部屋で休んでいるときまで無理に話す必要はないと思っている。
「綾小路殿。陛下の御身と資産を守る方法について、本当に何の腹案もないんですか?」
だが、珍しく、マコトは綾小路に話しかける。
「ロマリエフとの婚姻が駄目なら、摂政殿下や首相殿下は何らかの対案をお持ちじゃないんですか?」
マコトには摂政と首相が──本国の中枢が、何も考えていないとは思えない。
すると、綾小路は皮肉げに笑う。
「あらへんわけないやん」
「ですよね……」
マコトは相槌を打って、煙を吸う。
「まだ言われへんねん……女帝と皇族の処遇については、本国と米国及び連合国軍総司令部は交渉中や。せやさかいに、秋月物産とカメリア・パレスの表向きの口座が凍結されたちゅうのは、たぶん警告やろ」
煙を吐き出して、綾小路は項垂れる。
「僕が今、受けてる指示で、澤城くんに漏らせるんは、『女帝陛下の身位を指示があるまで動かすな』ぐらいや」
マコトは天井に吹き上がる紫煙を眺める。
「……本国は彼女を切り捨てるつもりは、ないですよね?」
「久慈宮様も丹羽宮様も、お上を死なすつもりはあらへん……」
皮肉だけは饒舌な綾小路にしては、珍しく語気が弱い。
「そうですか……」
綾小路は灰皿に煙草の灰を落とす。
そして、消え入りそうな小さな声で言う。
「もし、お上を、英国人の妻……澤城くんの英国人の立場としてのマシュー・エヴァンスの華僑の妻、ハル・エヴァンスとして逃すときは、あんたは引き受けてくれるか……?」
綾小路の声は、紫煙に溶けるように響いた。
次回の更新は2026年8月13日(木)21時頃を予定しております。
これはこぼれネタ↓
「大明神様、ノート貸してください! ついでにわからないところも教えてぇぇぇ!」
秋月は学生時代、成績優秀な同級生に素直に泣きついて、留年を回避し、卒業しました。




